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7/12

お花見とパリ旅行

 やがて、桜が咲き始めた。

 この事務所では、毎年、近くの川沿いの公園に出かけてお花見をする。

 オフィスは、街の中心よりも山の方にあったので、澄んだ水の流れる川の上流に近く、そこは桜の名所にもなっていた。

 それから、どういう謂れがあるのか、公園には中国の六角堂風の赤い柱と屋根だけの建物があり、中には作り付けのベンチがあった。

 ちょうど新幹線の駅から真直ぐに下りたその通りは、地下鉄や他の交通機関から外れているため、普段なら閑散としている。それが桜の時期には、花見の名所として賑やかになっていた。

 夜になるとぼんぼりに明かりが灯り、川に映ってとても美しい。

 社長は、夜桜見物には、もっと人が増えるからと半日勤務にして、今年もお弁当を持って繰り出すことになった。

 ミミは、こんな風に外で宴会をするのが珍しいと言って、はしゃいでいた。

 今年は、社長の甥やその友人たちも混じって、いつもより大きなイベントになった。

 りえさんはゲイバーの経営者だそうで、出勤時間の夕方まで、お酒も飲まないのに仲間と共に物まねや歌まねを披露して楽しませてくれた。

 周囲の花見を楽しむ人たちも、何事かと集まって来て沸いていた。姿を見ればりえさんは完全に体の線の細い女性だけれど、マイクを持つと男性の声をしているという辺りのギャップがキュートで楽しい。

 仕事があるのでと、夕方になって去る間際には「ぜひお店にも遊びに来て」と言われ、私も行ってみたいと思った。


 これまで生きて来て、多くのことを経験したけれど、まだまだ知らない世界がある。夫を亡くした悲しみに沈んでいる内には見えなかったけれど、少し視野を広げれば、何でこれまで気が付かなかったんだろうと思うようなことがあまりにも多い。

 まだ目的のはっきりした人生ではないけれど、そういうひとつひとつを確かめながら歩いて行くのも悪くないかもしれないと、この時、思い始めていた。


 お花見の帰り道、ミミがゴールデンウィークの予定を尋ねて来た。

 私は、特に何も計画はしていない。父親は既になく、郷里にいる母とは、昔からそりが合わない。

 母は踊りを教えながら気楽に暮らしていて、先日電話をした時も、帰って来いとも言わなかった。一人っ子の母親と一人っ子の私なので、親戚も少なく孤独には慣れている。

 考え方を変えれば、気楽な環境だった。

 ミミは、家族に会うのでフランスに一時帰国を予定していると言い、私にも一緒に来ないかと誘った。

 欧州には、一度しか出かけた事がない。しかも、先の夫との新婚旅行で、イタリアとドイツに出かけたきりだ。

 行ってみたい気がする。

 でも、ミミは家族に会いに行くというのに、私が一緒でも大丈夫なのだろうか。

 その疑問を口にすると、ミミが笑って言った。

「僕もホテルに滞在するから気にしないで。それにね、フランスでは日本と違って恋人でも友達でも、普通に家族に紹介するんだよ。日本人は、どういうわけだか隠したがるような気がするけど」

「うーん、そうかな?」

 隠したがると言われても、恋人の場合には上手く行くかどうか分からない段階で知らせて心配させたくないからとか、照れや反応に対する不安など複雑な思いがあるのだ。

 そういう事は、ミミには簡単に理解が出来ないのかもしれない。

 ふと一文の言葉を思い出した。

(そうかこういう場面できちんと説明をし合えなくちゃいけないんだ)

 でも、確かに一つずつ説明をするのは根気の要る作業だ。

 私は説明を試みた。


「あのね。日本人の恋愛はね、家族に紹介する時には、相手との結婚を考えてからのことが多いのよ」

「どうして?」

「恋人というのは不安定な関係よね? 壊れるかもしれないし」

「うん。でも、それは結婚しても同じじゃない」

「そうね。だけど、急いで紹介しなくても、上手く行きそうな気がしてからだっていいじゃない?」

「上手く行きそうって?」

「そうね、主にはやはり結婚を目的とした恋愛かどうかかな?」

「でも、それは個人の問題でしょ? 結婚は親が決めるわけじゃないんだから」

「昔はね、日本ではお見合い結婚が多かったのよ。それが今みたいに恋愛結婚をするのが普通にはなったんだけど、やはり結婚してから家族と仲良く暮らしていくには、先に了解してもらった方が良くない?」

「仲がいい方がいいとは思うけど、一緒に生きて行くのは二人でしょ?」

「その通りね。だから今はね、恋人同士でも気軽に紹介する家族もたくさんあるけど、私の年代だと、そんな風に考えちゃうの」

「ふーん。でもね、本当にフランスでは気にしなくていいんだよ」

「わかったわ。ミミ」

 

 一応、頑張ってはみたけれど、メンタリティーの違いをきちんとつかんでもらえた訳ではなかった。

 なかなか難しい。


 私は一晩考えて、フランスへ行く事に決めた。

 一生の内、一度くらいはエッフェル塔を観てみたい。それからラ・セーヌの畔を歩き、シャンゼリゼ通りでコーヒーを飲む。

 ガイドブックはいくらでも出ている。もしもミミの家族に会いたくないと思ったら、ミミが出掛けている間に、一人で周る事も可能かもしれない。

 フランス語が出来なくても、何とかなると思った。


 航空券の手配があるので日程を決めなければならず、ミミとも相談して、社長に正直に事情を話すことにした。

 そのおかげで早めにお休みをもらう事が出来たので、日程を十日間に延ばしたため、ひどい混雑は概ね避けられそうだった。

 航空券はミミがフランス人の友人に頼んで、手頃な価格で購入できるところを見つけた。ホテルもミミとインターネットで探してツインの部屋を予約できたので、あとは荷造りをすれば準備が出来上がる。

 ミミに電話で気候などのアドバイスをもらいながら、衣類を考えていると、ディナー用の服も持って行った方がいいと言う。

 そこで迷っていると、ミミがやって来て、選ぶのを手伝ってくれた。着物も持って行って欲しいと言うので、汚れても丸洗いができる軽いものと、それに合う帯一式を入れると、トランクはかなり重くなってしまった。

 女性のように気の付くミミが、スリッパやパジャマも必要だと言うので、更にぐいぐいと詰め込む。すると遂にトランクが閉まらなくなり、ミミが荷物の上に乗って、私がレバーを倒し、やっと閉じることが出来た。


 いよいよ出発の日の前日、エレベーターもないアパートの三階に住む私の重い荷物を心配し、ミミは自分の荷物を持って私のアパートへ泊まりに来てくれた。

 これで、一緒に寝坊をしない限りは、無事に旅立つ事が出来る。

 それでも私は緊張して、なかなか寝付けなかった。


 翌朝、私たちはタクシーと空港バスを使って国際空港へと辿り着いた。

 ミミは、とてもご機嫌で、鼻歌まで歌っている。

「やっぱり、帰国できるのは嬉しいことなのね」

「うん。あのね、僕は日本が大好きなんだよ。でも、やっぱり母国語で話を出来ることとか、食べ物のこととか、いろいろ思い出すとわくわくする。不思議だよね」

「そう? それは普通の事じゃないかしら? 誰だって、故郷は懐かしいものだと思うわ」

「そうだね。それにね、ケイに見せたいものがたくさんあるから、それを見せてあげられると思うと、とても嬉しいんだ」

「そうなの? そう言ってもらえると私も嬉しい」

「社長が、しっかり楽しませてあげて欲しいって、言っていたよ」

「そう。社長は本当にいい人ね」

「うん、僕もそう思う。それに仕事も良くできる」

「そうね。加藤さんもいるし、会社は小さいけれど、しっかりしているわ」

「あぁ、そう言えば、加藤さんのことも聞いたよ」

「社長から?」

「ううん、エミコから」

 私も同じだと言い、二人で声を立てて笑った。


 恵美子によれば、加藤は、資金運用に関してはかなりのエキスパートで、会社の資産も自分自身の財産もしっかり増やし続けているのだそうだ。

 そうして、どうやら2軒目の別荘を手に入れる気配だとか。

 別に隠しごとではないのだけれど、ミミも私も経理には関係がないので、直接、社長と話をすることはなかった。

 それでも、社長にも加藤にも心から感謝している。

 会社の経営状態がいいお陰で、こうして長めの休みをもらう事も出来たのだから。


 機内ではシャンペンを飲んで仮眠した後、ジェットラグを軽くするため、ミミの助言通りに映画を観るなどしながら出来るだけ起きていた。

 フライトは順調で、夕刻、予定通りにシャルル・ド・ゴール空港に到着した。

 そこからはシャトルバスで移動し、辿り着いたホテルは、国鉄の駅からすぐ近くの広場の中にあった。

 欧州の建物はとてもお洒落だ。クラシカルな表面を残したまま改築を重ねて行くのだそうで、建物の中はモダンで設備が整っていても、街の落ち着いた雰囲気には趣がある。

 そう言えば、以前、欧州を旅した時には、時折ホテルのお湯の出が悪かったりして、がっかりしたこともあった。

 それを思い出し、チェックインが終わって部屋に入った時、最初にバスルームをチェックした。

 このホテルにはちゃんとバスタブもあり、蛇口をひねってみると、お湯は豊かに出て来る。私がほっとしたと言うと、ミミが笑った。

 でもシャワーは、私にとっては大切なのだ。一般的に女性はそうだと思うけれど、ミミの感覚は、もしかすると少し違うのかも知れないと思った。


 この夜は、食事をしながら、明日の予定について話すことにした。

 とりあえずは荷物をほどいて、シャワーを浴びたい。

 ミミは、私に順番を譲るので先にシャワーを浴びるようにと勧め、その間に家へ電話を掛けると言った。

 日本から持って来たシャンプーを使っても、欧州の水は硬く泡立ちが少ない。何となく髪がごわごわして、重くなったような感じがした。その後、ホテルの備品にあったシャワー用のジェルを試しに使ってみると、いい香りがして、お洒落な気分に浸る事が出来た。

 欧州へ来ると、何となくお洒落の腕が上がったように、ささやかな自信を感じられるのは、こういう小さな経験から来るのだろうか。

 何だか旅先で日本にはない素敵なものに出会うと、短期間でも自分がその土地に所属した誇りのようなものを持ってしまう気がする。

 それはきっと、表面しか眺める事しかせずに帰る旅行者の錯覚に過ぎないのだろうけれど。


 シャワールームを出ると、ミミがベッドに寝転んでいた。

 私が出て来る扉の音に気が付いて、たった今、目を開けたという風にも見えた。

「ごめんね。お待たせしちゃったかしら?」

「ううん、そんなことないよ。シャワーは気持ちよく浴びれた?」

「うん、とっても快適。先に使わせてくれて、どうもありがとう」

「どういたしまして」

「電話は掛けてみた?」

「うん、掛けたよ。お母さんとお姉さんが会いに来るって」

「あら、そうなの? わざわざ遠くまで来て下さるんだ」

「うん」

「どのくらいかかるの?」

「車で来ると言っていたから二時間くらいかな?」

「そう、良かったわね。ミミが帰国して喜んでおられるのね」

「うーん。二人でやって来るのは、きっとお父さんが僕には家へ来て欲しくないからだと思う」

「そんなことないでしょ。お忙しいんじゃないの?」

「どうかな? もう、どっちでもいいの。気にしないことにしているから」

「そうね。考えても仕方のないこともあるし」

 もしかしたら、ミミの言う通りかもしれない。全ての親子が、必ず解り合えるという訳ではない。私は自分の母親の事を思い出しながら、そう思っていた。


 翌日私たちは、世界中から集まって来た他の観光客に入り混じってエッフェル塔に上り、シャンゼリゼ通りを歩いて、凱旋門の前で写真を撮った。

 それからサクレクール寺院を訪れパリを一望し、ムーランルージュを横目に見ながら

モンマルトルの丘へも登った。

 この日は歩きに歩いて、高級ブランドのブティックが並ぶ通りから、学生街、芸術家の街など、パリのいろいろな表情を眺めた。

 楽しかった。

 二人で時おり腕を組み、街を歩いているだけで幸せな気持ちに包まれた。

 お店を覗いても、私が数葉の絵はがき以外には買い物をしなかったとミミが喜んだ。

 わざと買い物をしないのではなくて、特に欲しいものが見当たらなかったのだ。

 パリにしかないのもので、重くなくて記念になる物。

 そう考えると、なかなか手が出ない。

 日本には物が豊かで、欲しいものは殆ど何でも揃っている。わざわざ遠くから持って帰って、せっかくすっきりさせた部屋に置くのだとしたら、長い間、飽きの来ないようなものを選びたい。

 そういう慎重さが自分と似ていると、ミミは言った。


 普段、日本の生活をしている時には、さほど感じなかったのが、この旅ではミミとの体力の差を思い知った。

 夕食が終わるとくたくたなのに、お酒を飲みに行こうかと尋ねるミミに驚いた。

 私はどこにも体力が残っていないくらいに疲れていたので、洗面だけを済ませてベッドに倒れこむようにして眠った。

 やっぱり欧州人と日本人では、基礎体力が違うのだ。


 ミミが私に気を遣ってくれて、翌日からはレンタカーを借りることになった。

 近くならトラムやバスも便利だけれど、日本のように安全ではないので、常にスリに注意をしていなければならず、神経を使う。それに遠くへ出かけるのには、何度も乗り換えと乗り継ぎをしなければならず、移動だけでくたくたになった。

 昨日の疲れ加減を見て、二人分の公共機関を使った交通費を考えれば、レンタカーの出費も大した差額ではないとミミが言いだしたのだ。


 この日は、ベルサイユ宮殿とロダン美術館を訪ねると、それだけで既に夕方近くになり、ミミの案内でシーフードのおいしいレストランへ出かけた。

 ミミは、フランス語のメニューを訳してくれるけれど、馴染みのない料理の名前を聞いても、私には、わからないことも多い。

 例えば、ニース風サラダとか、プロバンサルソースなどと聞いてもピンと来ないのだ。

 そういう訳で、セットメニューを選ぶことにした。

 アペリティフには、シャンペンがセットされていたので、アントレの牡蠣を開いたものに黒コショウとレモンをかけて頂いた。

 日本でも生ガキは食べるけれど、こちらの牡蠣の味の方が何となく濃厚な感じがする。

 メインには鱈のグラタン、デザートはイチゴのタルトとコーヒーが出て来た。

 勿論、私には全てを平らげる事は出来なかったけれど、デザートのタルトがおいしくて、もう一つ食べられないのが残念だと思った。

 そう告げると、ミミがグルモンド(gourmande 食いしん坊)だと言って笑う。

「ケイをここに連れて来たかったんだよ。パリで僕の知っている、数少ないおいしいレストランだから」

 私は素直にお礼を言った。

 もしも一人旅や、パリを全く知らない人と訪ねていたら、印象はまた違ったかもしれない。迷う事もなく、言葉に不自由する事もなく、私は快適な旅を楽しんでいた。


 食事の後、車を置いた場所まで歩いていると、何百という数のローラースケートを履いた人たちが道路を走って行った。ミミにお祭りかと尋ねると、そうではなくて、時折こんな風にスケーターやサイクリングの人が走ることがあるのだと言う。

 レースをしている風でもないので、歩行者天国のようなものかもしれないと思った。

 それにしても、安全の為に道路が封鎖されている訳でもない。車は、彼らが通り過ぎた後、クラクションを鳴らすようなこともなく、ゆっくりと動いて行った。

 昼間は歩道のないところでも、道路を平気で横切って行く歩行者を見かける。せっかちなのか、のんびりしているのか、この国の人たちの感覚が私にはよく分からない。

 こういうのもカルチャーショックのひとつだろうか。ここで暮らすとすれば、こういう一つ一つが大きな疑問になって重く圧し掛かって来るのかもしれない。

 ほんの十日ほどの旅だからこそ、気楽に楽しめるという気がしていた。


 ホテルに帰ると、ミミ宛てにメッセージが届いていて、彼の母親と姉が明日到着するとのことだった。

「何時に来られるの?」

「お昼頃じゃないかな」

「そう」

「ケイが、もしも嫌だったら、彼女たちに会わなくてもいいんだよ。一人でも出かけられるようにインフォメーションを書いて渡すから」

「あら、嫌だとは思っていないのよ。ただ、緊張するなぁと思っているだけなの」

「緊張しなくてもいいよ。二人とも僕と似ているから、顔を見たら笑えるかも」

「そうなの? そう言われるとお会いしてみたい気がするわ」

「じゃあ、一緒に会おう。どうせ、ランチを食べたら帰って行くんだし」

 ランチと言っても、コースで食べると1時間半~2時間近くかかるのが普通だ。

 フランス語はボンジュールくらいしか話せないことを思えば、何も話さずに私が傍にいて邪魔にならないものかとも思う。

「何? ケイ、まだ何か心配なの?」

「ううん、心配というのではなくて、私がフランス語を話せないことで、気を遣わせるのではないかとも思うんだけど」

「あぁ、それならお母さんもお姉さんも英語も話せるよ。だから心配ない」

「まぁ、そうなの。それは助かるわ。私の英語は上手ではないけど、ゆっくり話せば何とかなると思うの」

「日本人は、いつもアクセントや発音が下手なことを考えて尻ごみするけれど、それは、おかしいと思うよ。世界では英語を話す人は多いけれど、殆どがネイティブという訳じゃないんだもの。だけど、みんなが公用語として話している。少し下手だと自分で思っても、堂々と話す方がいいと思う。それにケイの英語は上手だから、心配しないで」

 そんな風に言われると、頑張らなければいけないような気がして来る。でも、本当の不安は、私の中途半端な立場にあるのかもしれないとも思う。

 ミミのご家族に会って、どうご挨拶をすればいいのだろう。

 私は未亡人で、ミミとは、まだ何か約束事を交わしている訳でもない。なのに、こんな遠くまで一緒に来てしまったのだ。男女関係にだらしないと思われはしないだろうか。

 でも、ミミにそんなことを言っても、きっと受け付けないだろう。

 ……という事は、彼のご家族も同じ常識を持つ人たちなのかもしれない。私は、これ以上考えても無駄だと思った。


 今のミミと私の居場所は日本だから、この旅を終えたら会社に戻り、またコンピューターを教わる。それから時折一緒に食事したり、買い物に出かけたりするような生活が待っている。その生活の中で、どうすればいいのかわからないような難しいことなど滅多にない。わからない時には誰かに尋ねれば、それで全てはクリアになり、理解が出来る。それは私が日本人で、意識をしていなくても自分の国の文化や習慣を身に付けて来たからで、同じことをミミに求めるのは難しいだろう。

 でも反対に、ここはミミの生きて来た国であり、私の常識も言葉も通用しない。だから、ここでのことは、全てミミに任せればいい。彼がそう望むのなら、ご家族にも会おうと決めた。


 翌日、朝食を終えた後、ミミと一緒に近くの街へウィンドウショッピングに出かけた。

 観光客相手のお店には、PARISの文字をあしらったトートバッグやTシャツ、文房具などが所狭しと並んでいた。

 お土産にいいかも知れないと思い、中を覗いてみる事にした。

 エッフェル塔をモチーフにしたネクタイや、パリの街並みの柄をプリントしたTシャツはお洒落だと思った。素材を見ようと裏を返したら、Made in Chinaの文字があって、何となく興ざめしてしまい、別のお店を探すことにした。

 中国製品を嫌っているわけではないけれど、中国製品を欧州から持ち帰っても、お隣の国から購入して来たような感覚を持ってしまう。

 近頃はどこへ出かけても、中国製が多いので難しい。国内を旅しても同じ製品が別々の土地で売られていて、そのプレートなどに印刷して取り付けられた地名だけが違うというものも多い。そういう訳で、近頃、お土産には食品を買う事が多くなった。

 けれどもパリでは、パリ煎餅やパリ饅頭が売られているわけでもないので、それらしいものを見つけることもできず、日を改めてデパートへ行こう、とミミが提案してくれた。

 そうしている内に十一時を過ぎたので、私たちはホテルへ戻ることにした。

 もしかするとミミのご家族が早めに到着されるかもしれないので、お待たせしては申し訳ない。

 日本にいる時には、携帯電話を好きではないと感じるのだけれど、待ち合わせには便利なツールだと思う。

 部屋へ戻ったところへフロントから電話がかかって来て、ミミの母親と姉がロビーに訪ねてきているという連絡があった。

 私は、さっと口紅を引き直してから、エレベーターでミミと一緒に降りた。


 ミミのお母さんはラフなスーツを上手に着こなし、優雅で温かそうな印象だった。お姉さんの方はミミと同じくらいスリムでパンツを穿き、少しクールな感じと足の長いのが目立つ女性だ。

 髪の色は、二人とも浅い茶色、目はブルーでミミのと同じ。なるほど顔もミミとよく似ている。

 三人は、頬に往復二回ものキスのあいさつをそれぞれ繰り返し、私には、ちょっと迷ったような素振りを見せた後、手が差し出された。

 出された手を軽く手を握りながら、憶えたてのフランス語で、「こんにちは、はじめまして」と言った。

 二人は微笑み、二言三言ミミと話をした後、食事に出かけることになった。


 家族のプライベートな会話を横で聞きたいと思う訳ではないけれど、全く意味の解らないのが辛い。

 ミミが会話の内容を教えてくれた。

「お父さんは出張中で来られなかったんだって。今は難しいけど、食事の時には英語を話すそうだから、ちょっと我慢してね」

 私は、気を遣わずに会話を続けてくれるように頼んだ。


 レストランへは、二台の車に分乗して出かける事になった。

 車の中でミミが話してくれたところによると、彼女たちは食事を終えたら、二人でお買い物をしてから帰る予定にしているらしい。

 映画などでは、西洋人家族の方が日本人よりもべったりしているような印象があったのだけれど、フランス人に限っては、そうではないのかもしれないと思った。

 それとも、ミミの家庭が特殊なのだろうか?

 やがてミミの母親の案内で辿り着いたレストランは、ミシュランの星が四つも付いていたけれど、意外と気楽に食事が出来た。

 「同じものでいいかしら?」とミミの母親に尋ねられたので、全てお任せすることにした。

 ここでは、アペリティフと一緒に、小さなカナッペやムースがいくつも出て来るなど、全てのディテールに手が込んでいて楽しかった。

 白ワインや赤ワインが料理に合わせて、お店のチョイスで出されるし、食事の間に箸休めのようにシャーベットが出て来るところもおしゃれだと思う。

 食後には、デザートかチーズではなく、両方が出て来た。

 私は、ワゴンでやって来たたくさんの種類のチーズの匂いの強さに負けそうになり、カマンベールやブリチーズなど、クセの強くないものを少しだけ頼むことにした。

 食事中、ミミのお母さんは「セ・ボン!(おいしい)」を繰り返すので、ミミのお姉さんが「食いしん坊」と言ったフランス語が聞き取れて嬉しかった。

 二人は時々英語で話しかけてくれたけれど、特に意味のあるような内容ではない。「おいしいですか」とか「パリは好きですか」というようなことで、ミミとの関係をどう思っておられるのか、一言もそんな話はなかった。

 ミミは彼女らのリクエストだと言って、古い着物をお土産に持って来ていた。サイズは合わないけど、加工してインテリアに使うらしい。

 私が日本のお茶を差し出すと、二人が頬にキスをしてくれて照れくさかった。


 こうしてミミの家族との対面はあっけなく終わった。

 帰り際にミミの母親が、ミミに何か包みを渡しているのを見かけたけれど、母親だから、やはり息子にお土産を用意して来たのだろうと思っていた。


 ミミの家族と別れた後、時計を見たらもう三時だった。遠出するには、時間が中途半端だ。

 アルコールも入っていたし、私は、少しシエスタ(お昼寝)をすることにしてホテルへ戻った。

 これで夕方になると、また食事の時間がやって来る。

 今夜は、サラダだけにしようと思った。


 あれだけたくさん食べたのに、夜になると、ミミはチェーン店のじゃないハンバーガーを食べたいと言い出し、少し苦労をしてハンバーグとサラダのあるお店を見つけた。

 軽くサラダだけと考えていたのが、アラカルトでお願いすると結局はボリュームのある一皿になってしまった。

 お腹がはちきれそうなくらいいっぱいになってホテルの部屋へ辿り着くと、ミミが少し話をしたいと言い出した。


「ねぇ、ケイ。僕がちゃんと離婚したってこと、言ったよね?」

「うん。聞いたわ」

「なので、僕は独身です」

「ふふふ。いいのよ。そんなこと」

「それは、どういう意味?」

「ミミが結婚していても独身でも、今の私たちの関係は変わらなかったと思うから」

「そうなの?」

「そうなのって……」

「僕は、女性の心を持って男の形をしているけど、でも、ケイのことが好きなの」

「あら、私もミミが好きよ」

「じゃあ、どうして、いつまでも普通にキスもしてくれないの?」

「ミミ、ちょっと待って。あのね、私は体を触れ合わなくてもいいと思っているんだけど、それは、おかしなことだと思う?」

「おかしいかどうかじゃなくて、自然に触れたいとは思わない?」

「そうね。例えば私は手をつなぐのが好きだわ。でもね、私の中で、まだ気持ちがうまく整理できていないんだと思うの」

「それは、僕がGIDだから?」

「うーん、それとは少し違うかな。それよりも、あなたが同性愛者だという部分が難しいような気がする」

「そうか、ケイはホモセクシュアルじゃないものね」

「そう。違うと思うのよ。子どもも欲しいと思っているの」

「その相手が僕でもいいの?」

「ごめんなさい。それがよく分からないの。ミミのことは好きだし、こうして一緒にいると幸せな気持ちなんだけど、だからと言ってミミのことを全部理解できている訳じゃないと思うの」

「そんなの、普通のことだと思うよ。自分以外の人のことなんて、なかなか分からないもの」

「いえそれがね、自分のこともよく分からないのよ。一体どうしたらいいのかなって迷いながら、それでも一緒にいたいと思っているの」

「そう。ケイは、子どもが欲しいんだ……」

「ミミは? 子どもは欲しいとは思わないの?」

「欲しいかな? でも怖い」

「何が?」

「親になることが怖いと思う。僕に出来るのかな、って」

「そう言われると、私にも自信がある訳じゃないのよ。でもね、可愛いだろうなって思う」

「うーん。僕も可愛いと思うけど、まだ欲しいと思ったことがなかった」

「そうなの……」

 私は、何となくミミの病気を自分の都合のいいように解釈しようとしていたような気がしていた。

 女どうし、友人のような関係で、一緒に子育てが出来ると楽しいのではないかと思っていたのだ。

 でもミミが望まないとしたら、そういう考えを押しつけたくはない。

「ねぇ、ケイ」

「ん?」

 私は、この空気をあまり深刻にしたくはなかったので、わざと鏡に向かって返事をした。

「あのね、僕、これから体を変えて行こうと思っているの」

「体を変える?」

「だってね、女性らしい丸いラインが欲しいから、お母さんに女性ホルモンの薬を持って来てもらったんだよ」

「もしかして、今日ミミが貰ったのがそうだったの?」

「うん、そう。今はまだ僕の体は男で、ちゃんと子どももできると思う。でも、これを飲み始めたら、きっと駄目になると思う」

 私はどう反応すればいいのか分からなくなり、黙ってミミの話を聞いた。

「もしもケイが子どもが欲しくて、僕との子どもでいいと思っていたら、まだ僕の体を使うことは出来るよ」

「ミミ。その言い方好きじゃないわ。お願い。もうこの話は止めましょう」

「うん、分かった。止めるよ。ただすぐにも薬を飲み始めようと思っているから、その前に話しておきたかったの」

「ねぇミミ。日本に帰るまで、このお話はこのままにしておいてもらえないかしら? 出来れば、薬も飲まないで欲しいの」

「そう? うん、いいよ。待つことにする」

「ありがとう」

 大切なことだから、旅先で話をするよりも、落ち着いた環境でじっくり向き合ってから結論を出したいと思った。


「あ、そうだ。ケイは着物持って来たよね?」

「えぇ、持って来たわ」

「明日は国境を越えて、ベルギーへ行くよ」

「え? 国境を越えるの?」

「うん。国境と言っても、昔みたいにパスポートチェックがある訳じゃなくって、車で二時間半くらいで行けるの」

「そんなに近いの?」

「うん。高速道路は時速百三十km制限だから、早いんだ」

「わぁ。楽しみだわ」

「それでね、僕が日本語を学んだ仲間に会うので、着物を着て行くとみんなが喜ぶ」

「あぁ、そういう訳だったのね」

「うん。ちょっと長いけど、大丈夫?」

「うーん、何とかなるでしょ」

「ありがとう」

「じゃあ、明日は早いのかな?」

「朝の渋滞を過ぎた時間に出れば、お昼前に着くから大丈夫」

「分かった。じゃあ、準備をしなくちゃね」

 せっかくの旅だ。いろいろ難しい状況下ではあるけれど、しっかり楽しんで思い出を作っておきたい。

 明日は、国境を越える。日本のような島国では出来ない経験だ。

 ベルギーという名前の響きが、何となくメルヘンチックにも感じられた。


 翌日は、緊張していたのか、早めに目が覚めた。

 六時半にはシャワーを浴びて、着付けの準備を整えた。

 シャワーの音でミミを起こしてしまったらしく、出て来た時には既に軽くベッドを整え、その上に座っていた。

「あら、ごめんなさい。水音で起こしちゃったのかしら?」

「ううん。今日は早めに食事に行こうと思ったから、これでちょうどいいよ」

「そう言ってくれて、ありがとう。私は準備に時間がかかるから、ミミ、良かったら先に食事に出かける?」

「嫌だよ。僕、待ってる。今日は僕だって支度があるし」

「そう、分かったわ。じゃあ、出来るだけ早く着られるように頑張る」

 私は長襦袢のまま、まずは薄く化粧を施し、足袋を履いて着物の着付けに取り掛かった。

 ミミも、少しだけお化粧を施している。

 

 着物で朝食へ出かけると、周囲の視線が気になった。

 反応は様々だ。着物に対しては、正面から眺めてきれいだと言ってくれる人もあるけれど、わざとのように視線を外そうとする人もある。女性の中には睨むような視線を送って来る人もあって、怖かった。

 ミミにそのことを話すと、ジェラシーだから無視すればいいよ、と言って笑った。

 特にミミに注目する人はないようだ。着物の所為でミミのお化粧が目立たないのか、或いは気にしないのか、気にしても反応しないのか、どれなのだろう。きれいならどれでもいいと思った。

 食事の後、さっそく出かけることにした。車を発進する前に、ミミが口紅をつけた時には少し驚いた。

「ねぇ、ミミ。その口紅、赤過ぎないかしら?」

「そうかな、似合わないと思う?」

「いえ、もう少しおとなしい色の方が上品な感じだと思うけど」

「そう。じゃあ、どうしよう?」

「私の口紅を貸してあげるわ」

「ありがとう」

 私は、少し不自由な姿勢でミミの口元を紙で拭い、少しピンクがかった自然に見える色に変えてみた。ミミは、元から細面で、ぱっと見ると女性のようにも見える。自然に見えるメイクをすれば、違和感もなく映えた。

「ミミ」

「何?」

「きれいだわ」


 そう言うと、ミミは照れたのだろう。ひとしきり笑ってから車を発進させた。

 道は混んではいなかった。

 日本の高速道路を走っていると、防音壁の向こうにある建物に取り付けられた看板が続き、色彩が煩わしく感じられる。私は、そういう景色があまり好きではない。道路標示と出口の案内板以外、ここにはほとんど看板もなく色が落ち着いている。欧州は、どこもそうだと思うのだけれど、街の中心部を離れると、すぐに牧場や畑が広がって田舎の風景に変わる。町でも村でも、中心の広場には教会と役場があり、そこから蜘蛛の巣状に商店や家が広がり、だんだん建物の間隔が開いて行く。そこから先は、すっかり田舎だ。

 よほど大きな街でもなければ、日本のように公共の交通機関が発達している訳ではないし、コンビニエンスストアもないので、田舎に住む人は、車がなければ不便だろうと思う。

 この日の朝は薄曇りだったけれど、お昼近くになって青空が広がって来た。背の高い建物もなく、ずっと遠くまで見渡せる欧州の田舎の風景が美しい。


 不意にミミが、「晴れて来たね」と言った。

 私も同じことを考えていたことを告げる。

「ベルギーはね、雨が多いんだよ」

「そうなの?」

「うん、雨でなくても曇っていることが多いんだ。お天気の変わるのも早くてね、一日の内に四季があると言われている」

「そう。じゃあ、今日はラッキーなのね?」

「そうだね。着物を着ていても心配なさそうだから。また後でお天気が変わらないといいな」


 やがて国境に辿り着いた。

 何台か警察の車があって、トラックの荷物を確認しているようだったけれど、緊張した雰囲気はない。ゲートは無人で、そのまま通過すると背景色が青のペイントに白抜きで“Belgique”という文字が描かれ、周りを黄色いユーロの星で取り囲んだデザインのプレートが立てられていた。

 何だか呆気ない気がした。


 ベルギーに入ると、北フランスと似たように田舎の景色が広がっているのだけれど、どこか微妙に違う。

 ミミに話すと、彼も間違い探しのように、いつもちょっと違うと感じていると言った。ここという指摘は出来ないのだけれど、樹木の並び方とか畑や牧場の形も違うように思えるのだ。

 はっきりしているのは、道路の案内板の色がフランスでは白地に黒い文字だったのに、ベルギーでは青に白抜きだということ。それから高速道路の設備費は税金で賄われているので、無料である上に灯りも取り付けられている。

 フランスには高速道路にも灯りがないので、夜は車のライトだけを頼りに走る。

 他の違いは、ナンバープレートの色が白地に黒い文字で青く囲まれているか、黄色地に黒の文字で書かれているとフランスのもの、ベルギーのは白地に赤い文字と囲いがしてある。

 欧州では国ごとに色が違うようで、ミミに確認しながら眺めると、フランスの車も多いけれど、ドイツやイタリア、オランダの車なども入り混じっている。その不思議な感じが、また欧州大陸にいるという印象を強くした。

 

 国境から十五分ほど行くと、ミミの学生時代に住んでいた街に辿り着いた。

 ミミは友人の一人とメールで待ち合わせをしているので、一緒にランチをする予定だと言う。

 石畳の坂をごとごと走って辿り着いた街の中心には、やはり広場があり、古くて立派な建物の市役所がある。裏通りに向かって更に石畳の坂を上って行くとカテドラルがあり、その横の道路上に、白線を引いただけのパーキングが見つかった。

 車を降りると、着物に締め付けられてはいるものの、やはり体が解放されてほっとする。二人で歩くと、今朝のホテル以上に、はっきり視線が感じられた。それでも睨みつけるような人はいない。

 観光客の姿もちらほらあって、市庁舎の前では、一緒に写真に写って欲しいと頼まれた。

 ちょうどその向かいには、何軒かのカフェが並び、テラスに出されたテーブルでコーヒーやビールを楽しむ人達がいた。

 お洒落なその光景を眺めていると、「ミミ!」と呼ぶ声がし、背の高い男性がニコニコしながら近づいて来た。

 ミミとキスの挨拶を交わし、私にも、その続きのように頬にキスをされた。私は、内心かなり戸惑ったけれど、こちらの文化なのだからと思い平静を装った。

 彼は日本語で自己紹介をしてくれた。名前をガブリエルと言うので、みんなにギャビーと呼ばれているのだそうだ。

 私が驚いているとギャビーは嬉しそうだった。


「僕も語学を学んでいたので、フランス語と英語と日本語の他にスペイン語を話します。ベルギーには公用語が三つもあって、その内の二つを学ばなければならないのでオランダ語かドイツ語を学ぶ必要がありました。でも、ゲルマン系の言語は不得意みたいで、オランダ語を学んだのですが、あまり上手に話せません」


 世の中には、私のように英語も上手く話せない人間だってたくさんいると思うけれど、ミミの友人たちは、トリリンガルは普通だと言う。

 これもやはり、地理的条件の違いかもしれないと思った。


 食事には、ムール貝を食べさせてくれるレストランを予約してあると聞き、海がそんなに近いわけでもないので、不思議な感じがした。

 ベルギーに来るとは考えていなかったので、なんの予備知識もなかったのだけれど、この国ではムールとポテトフライが有名なのだそうだ。フレンチフライと呼ばれているポテトフライは、実はベルギーが発祥の地で、上手に表面をサクッと揚げるのにはコツがあるらしい。

 少しフランス語のアクセントはあるものの、上手に日本語で説明してくれるギャビーの話に耳を傾け、半分は聞き惚れていた。


 やがてムールが届いた。

 大きなお鍋に入ったままの山盛りのムールを目の前に置かれ、私は驚いた。私のが七百五十gで、このお店の標準サイズだそうだ。でも、ミミとギャビーは一㎏のムールをオーダーしていた。

 お鍋の蓋は、ムールの殻を入れられるように深くなり、ムールの入ったお鍋と似た形をしている。その横にポテトフライが置かれ、食べる前からその量に負けそうになってしまった。

 ところが、意外とお腹に入って行くのだ。私は、元から貝類が好きで、そのミルキーなムール貝の味が大好きになった。

 その感想に、ベルギー人のギャビーが喜んでくれた。


 時間を掛けた食事の後、少し散歩をし、コーヒーを飲んだり、ウィンド―を覗いたりしている内、すぐに夕方になった。この街の郊外にあるレストランで、ミミの為に友人たちが集まることになっていると聞き、私たちは車で移動した。

 パーキングは広かった。レストランは、ミニゴルフ場を併設していたので、休みの日にはきっと親子連れが集まって来るのだろう。

 パーティースペースには、既に数組のカップルの姿があり、ミミの姿を見ると歓声を上げ、順番にキスをして挨拶を始めた。私に対しては、キスをする人と握手の為に手を差し出す人とがいる。殆どのカップルは、どちらかがミミの日本語クラスで一緒だったと紹介された。

 仕事の都合があるのだろう。バラバラの時間に、少しずつ人が集まって来た。

 ウェルカムドリンクにはシャンペンが用意されていて、私たちの手にもグラスが配られた。

 ミミが、どこからかカシスのリキュールのボトルを持って来て、私のグラスに少し注いでくれた。

 そうするとシャンペンがピンク色になって、灯りを透かしてみると、きれいだった。

 ある程度のメンバーが揃ったところで、ギャビーが挨拶を始めた。フランス語で話し始めたのに、誰かが「日本語で話して下さい!」と野次を飛ばす。

 笑いが収まってから、ギャビーは、フランス語と日本語と両方で話し始めた。アクセントは強いけれど間違ってはいない。

 ここでは、ミミの同級生の殆どが、同じようなレベルの日本語を話せるのには驚いた。

 私にとっては、かなり不思議な気分だ。もちろん、ミミ以外は敬語だけのレベルから抜け出せない人が多いのだけれど、異国に在って日本語の中にいるのだ。

 こんな風に日本語を学んでいる人は、世界にはきっとたくさんいるのだろうと思う。何だか、嬉しい気持ちになった。

 ここでは、みんなが普通に着物に関心を示してくれて、重くないかとか、苦しくないかと気遣ってくれた。日本語を話せるということは、ある程度、日本の文化や習慣も理解しているということなのだろう。背景を知らなければ、外国の言葉は上手く操れない。

 理解し合えるということが、こんなに楽しいのだと考えると、逆にミミとの関係が少し不安になって来た。

 私たちの場合には言葉の壁もほとんどないし、日本で暮らしているミミは理解も深い。でも、フランス語を知らない私がミミを理解できているかと考えると、やはり自信がないのだ。

 そのパーティーの中には、女性同士のカップルが一組と、男性同士のカップルがふた組いた。そしてミミの化粧にも、みんなは別に違和感を感じていない風だ。

 何だか、自分がどこか別の時代から旅をして来たような気持がした。


 パーティーは、とても楽しかった。

 しかし疲れた。

 欧州人との基礎体力の差を、また思い知った夜だった。

 食事の後、飲んで踊っておしゃべりをして、それでもみんな普通に運転をして帰って行く。

 ミミがあんなに大きな声で笑ったり、はしゃいだりするのを初めて見た。やはり、こちらの人なんだなぁと思う。日本という異文化圏の中で暮らすことは、上手に言葉を話せても、ミミにとって決して楽なことではないだろう。

 やがて車がホテルのパーキングに滑り降りて行く時、難しいことは明日考えようと思った。

 私たちがホテルに着いたのは明け方近くとなり、着替えだけを済ませると眠りについた。


 いよいよ帰国の前日。私たちは、お土産を買うのに専念した。

 考えてみれば、まだ何も購入していないのだ。最低でも、会社の人たちには、何か買って帰らなければならない。

 ホテルを出て街に向かって歩きながらそう言っていると、ミミが習慣の違いについて話してくれた。


 ミミは「今回のような場合には当てはまらないよ」と前置きをし、フランスでも家族や親しい友人などにお土産を買うことはあるけれど、日本のように毎回お土産を買う必要はないのだそうだ。日本のシステムだと、あまり必要のないものを買ってプレゼントをしたりされることが、かなり無駄に思えると言う。

 ミミの部屋には、これまで語学を教えていた生徒たちからのお土産がたくさん溜まっているらしい。

 それらはキーホルダーだったり、小さなぬいぐるみやお人形だったりで、好きなものは、いくつか手元に置くけれど、殆どは誰かにあげるようにしていると言った。

 なるほど、私にも身に覚えがある。頂いたお土産が、引き出しの中で何年も眠っていることも多い。だからと言って、習慣となっていることをたった一人で変えることは出来ない。

 せめてこれからは、無駄にならないようなものを選ぼうと思った。


 お買い物に付き合うのが嫌ではない様子のミミとデパートで半日を過ごし、カフェでクロワッサンを食べてから、また街を歩いた。

 日本の街中を歩いていると、若い世代も含めて、ブランド物のバッグを持っているのが当然のように見える。

 ところがパリを歩いていると、そういう感覚が同じではないのに気が付いた。

 よく見ると、こちらの女性は、お金を掛けずに上手におしゃれをしているのが分かる。


「しっかりしているわね」

「最近は、そうでもない。でも、日本のように親やおばあさんに買ってもらうような人は少ないと思うよ」

「そうなの」

「うん。大人になったら、自分で生活しなくちゃいけないからね。自立と言うのかな? こちらの女性は、男性と同じように自分で生活をするのが普通なんだ」 

「あら、でも最近は日本でも女性が変化して、自立して来ているのではないかしら?」

「ケイは、そういう話をしないけれど、フェミニストの人たちをどう思う?」

「んー、正直に言うとね、私にはフェミニズムがよく理解できないのよ。だって社長にしても、あんなに親切にして下さるでしょ? 先の夫もそうだったの。日本の男性は女性を庇うけれど、フェミニストだったら、こんな風に甘えていちゃいけないのではないかしら?」

「そうなのかな? 僕にもよく分からないけど。ただヨーロッパだとね、男性と女性は一応平等なんだ。国によっても多少は違うけど。だから同じだけ働いて、同じだけお給料をもらう。……と言うことは、結婚した男性と同じだけ税金を払って、同じだけ家や車の代金を支払うの」

「そうなの? 働かずに主婦をしている人は珍しい?」

「フランスで僕の年代だと、そういう人はほとんどいないよ。一部のお金持ちとか、違う習慣を持った移民の人たちは別だけど」

「まぁ。じゃあ、日本の女性は恵まれているのかな?」

「そう思うよ。日本には、フェミニズムが変な風に入って来ている感じがする。女性が家にいるのに、仕事をして帰って来た男性に家事を手伝うように言うのは、気の毒じゃないかと時々思う。だって自分で出来ない重いものを運ぶということは殆ど必要ないでしょ? 日本では、家具以外のものは、みんな小さく出来ているもの。夫婦が家の仕事を一緒に負担するというのは、普通のことだと思うんだけど、ケースバイケースで分け方をよく考えた方がいいかも知れないと思う」

「なるほど、そうなのかもしれない。同権っていうことは同義務でもあるんだし、どちらかに負担が重く偏るのはよくないわよね」

「うん、僕もそう思う。でも僕の場合は、好きになる人とは同性同士という感覚でいるから、初めから簡単なの」


 便利という言い方はおかしいかも知れないけれど、そういう意味ではトラブルが少ないだろうと思う。それにミミの立場から見えている女性の立場は、私の思うそれとは少し違うのかもしれないと思った。

 ミミの話を聞き、自分の心と照らし合わせるようにして考えていると、少しずついろいろなことが見えてくる気がした。


 欧州最後の夜は忙しかった。

 近くで簡単に済ませようと、ミミの選んだビストロに入って食事をした。そこでは、アントレのサラダの上に乗せられていた鴨の干し肉が、とてもおいしかった。

 それにしても毎日、よく食べたと思う。帰国して体重計に乗るのが怖い。


「フランスでは、食べ物がとてもおいしくて豪華なのに、パリには太った人が少ないわね」

「パリジェンヌやパリジャンはおしゃれなので、努力をして太らないようにしているんだよ。それにね、産後のダイエットにも補助金が出ると聞いてる」

「まぁ、そうなの? これも考え方の違いね」

「でも、健康を考えれば肥満は良くないよ」

「そうね。日本では、そこまでカバーできないといいうことかしら? いえ、贅沢という誤解があるのかも」


 翌日のフライトはお昼前だったので、朝食を済ませた後、すぐに空港へと向かった。

 ミミは自分を女性と認識していると言いながらも、重いものを抱えてくれたり、何かと世話を焼いてくれる。お陰で今回の欧州旅行は、とても楽しかった。

 旅の終わりには、なぜかいつも淋しさが募って来て、感傷的になってしまう。

 この感情は、どこからやって来るのだろう。

 短い時間でも、過ごした土地には愛着を感じ、それと引き離されるような気持ちになってしまうのだろうか。

 或いは、しばし日常から離れた解放感が消えて行くのに後ろ髪を引かれるような寂しさを感じているのかもしれない。

 ところが成田へと向かう機内で見たミミの横顔には、どこか構えるような表情が見て取れた。

 そうだ。私にとっては帰る国が、ミミにとっては出掛ける国なのだ。

 性別には関係なく、一人の人間としてのミミの強さを感じていた。

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