変化
翌日、二日の夜になってミミから短い電話があり、離婚する事に決まったと聞いた。
詳しい事は、また知らせると言ったまま、何の連絡もなく五日を迎えた。
そうして初出勤した朝、ミミは会社に来ていなかった。
十時を過ぎて、社長の携帯電話が鳴った。
「はいはい」
そう言って、社長が電話を取ったかと思うと、後はフランス語で会話をしていたので、私には何の事だかさっぱり解らなかった。
ミミからであるという事は察する事が出来たので、私は会話が気になって社長の方に視線を向けていると、何度か視線が合ってしまい、少し気まずい思いをした。
やがて電話が終わり、恵美子と私に向かって「ミミが午後から出勤してくる」と聞いた時には、ほっとした。
午後からと聞いていたけれど、ミミはお昼前に会社へ到着し、新年の挨拶をしただけで、すぐに社長と二人で食事に出かけた。
私はお弁当を持って来ていたので留守番をし、加藤と恵美子も外へ食事に出かけて行った。
十二時半を過ぎた頃、社長から電話があり、食事が終わったら近くの喫茶店まで来て欲しいと言われた。どういう話になっているのだろう。もしかするとミミとの関係について何か話があるのかもしれないと思うと、少し気が重かった。
悪い事をしている訳ではないのだけれど、私の知らないところで勝手に理解をされてしまっては困る。どんな内容でも、きちんと向き合って話し合おう。
心を固めるようにしてコートを羽織った。
喫茶店に到着すると、社長とミミが、私に向かって手を振っていた。
私は少し緊張しながらも、四人掛けのテーブルで向かい合わせに座る二人を見て、ミミの隣に腰掛ける事にした。
「早速、話そう」
そう社長が言うので、心にさざ波が立ったけれど、その口調からは個人的な話とは違うという雰囲気が漂っていた。
そこで、さっきまでの変な緊張が解けて気が楽になった。
「実はね、前々から思っていたんだが、うちの会社にも、完全にコンピューターを入れようと思うんだ」
「はい」
「僕は、君が前に機械は苦手だと言っていたので、事務処理の量的に考えても特に必要ないかと思って、まだそのままにしようかとも考えていたんだ」
「はい。確かに以前、そういうお話を伺ったと記憶しています」
「うん。でもミミがさ、パソコンを使えるそうで、しかも僕たちにも教えてくれると言うんだよ」
「そうですか」
「うん、そこでだ。これもチャンスだから、今までミミには、お隣の語学学校へ通う日だけ、うちに来てもらっていたんだが、いよいよ正社員になってもらおうかと思っている」
「え?」
「いやね、驚いたかもしれないけれど、これも少し前から考えていた事なんだ。ほら、僕もフランスにいた事があるし、彼がフランス人だろう? だから、これからもっとフランスとのパイプを太くしてもいいかなぁと思うんだ」
「えぇ。でも、私はフランス語なんて皆目わかりませんが……」
「いや、君はこれまでのままでいいんだよ。勿論、他との取引も続けるから。ただね、君と僕との間に同じ悲しい経験があるように、ミミと僕の間にも、同じように外国人として暮らした経験がある。ミミのように才能のある人のことは何とかしたいんだよ。それにね、今回のことは、わが社の利益にもつながる話だし」
「はい」
「そういうわけで、彼の為に就労ビザを取らなくちゃいけないんだ」
「はい」
「それを手伝ってもらいたくて、呼び出したんだよ」
「えぇ」
「午後からミミと役場へ行って、手続きを進めてもらいたいんだけど、いいかな?」
「はい、結構です」
「ちょっと急ぐのでね、よろしく頼むよ」
「はい。わかりました」
話がこういう展開になるとは、想像だにしていなかった。
いったい私が呼び出される前に、どういう話があったのだろう?
おそらく、ミミは離婚の事情を社長に話したのではないかと思う。それで、ミミを助けようと思って、就労ビザの話を持ち出したのではないだろうか?
親切な社長なら、ありそうなことだ。
その後、社長は「じゃ、ちょっと僕は外出して、コンピューターを見て来るから」と言いながら、さっさと伝票をつかむと席を立って行ってしまった。
私には、ミミに訊きたい事がたくさんあった。でも、その時は、先にミミの方から話し始めた。
「あのね。僕、離婚するでしょ。書類を書いたから、手続きは進んでいるんだ」
「そうなの。でも、電話もくれないから、心配したわ」
「ごめんね。妻の弟とあの後ずっと一緒だったから、電話がしにくかったんだ」
「そう。それなら仕方がないわね」
「うん。それで昨夜、社長と話をしたら、こういう結果になったんだ」
「そうだったの」
「うん」
「で、離婚のことも話したのね?」
「うん」
「悲しい?」
「離婚のこと?」
「うん、そう」
「うーん。悲しい訳ではないけれど、とても疲れた」
「そうでしょうね。やはり、あちらから離婚を言い出したの?」
「うん。何だか結婚したい相手がいるそうだよ」
「まぁ、そうなの?」
「うん。でも、もう愛しているという気持ちはないし、これでいいと思う」
「そう」
「僕は、正社員になるんだって社長が言ってくれた。ちゃんとビザももらえるし、これからは頑張って仕事をするよ」
「それはよかったわ。だけど、コンピューターを使わなくちゃいけない私の方が心配かも?」
「そうだね」
そう言って、ミミと私は笑った。
私たちは、その足で役場に向かい、準備すべき必要書類について尋ねた。
結婚している人の方が手続きが早そうなのが少し気にかかったけれど、離婚の時期を少し遅らせることは可能のだろうか?
それをミミに言い出せないまま、ともかく出来る部分を急ごうと、大使館へ出かけるつもりが渋滞で遅くなってしまい、明日に回す事にした。
私は、机の上を整理したかったので事務所に戻ることにしたけれど、ミミは、そこからの方が近いと最寄りの駅で別れた。
動き回って疲れていた。冷凍室の中身を思い出しながら、家にたどり着いてほっとしたところへ、ミミの義理の弟から電話があった。
ミミの義理の弟は、一文と名乗った。
「すみません、急に電話を掛けたりして」
「いいえ」
「実は、ミミからお聞きおよびだと思うのですが、ミミと僕の姉が離婚する事になりまして」
「はい、伺っております」
「本当は、こんなことをお聞かせするのがいいのかどうかと迷ったんですが、電話をしてしまいました」
「えぇ」
私は、どう返事をしたらいいのか分からなかった。
「ミミがあなたのことをよく話してくれるので、これから先、あなたを頼りにするのだという気がして。それなら事情を知っておいて頂いた方がいいかもと、お節介な気持ちになったのです」
「そうでしたか」
「ご迷惑でしたら、これで電話を切りますが、話をしてもいいですか?」
「えぇ、まったく構いません。私にも伺いたい事があるので」
「そうですか。それなら良かった」
何だか、人に気を遣う人だと思った。
「大したことではないのですが」
「そうですか。何でも仰ってみて下さい。僕の知っている範囲でお答えします」
「ありがとうございます。でも、お電話をくださったのですから、先にご用件をお話しいただけますか?」
「そうですか。では、お話します」
一文は、彼の姉が長い間、大学の教授と恋愛関係にあったこと。そして、アルバイトをしながら、それとは別の大学で研究員を続けていて、講師として働けるようになったこと。ミミとの結婚のいきさつについても、ミミはかなりの部分で誤解しているというような話を聞かせてくれた。
「僕の姉は言い訳をしない人間なのです。だから、よく人の誤解を招いてしまいます。教師である両親の内、特に父親が『言い訳をするな』という横暴な育て方をして来たので、それに対する反発があったのかもしれません。ミミとの結婚も両親がお見合いを迫った為に、そこから逃れる手段として選んだのではないかと僕は思っています。
でも、だからと言って、ミミに全く惹かれていなければ結婚したりはしなかっただろうと思うのです。
まず、外国人と結婚するということに、両親は反対でした。他にもチャンスはあると言うのです。それでも、姉の意思の堅い事を知って承諾すると、今度は結婚式もしないと言うので、ずいぶん揉めました。きっと、結婚式を嫌がっていたミミのためでもあったと思うのですが、姉は、そういうことを他人には気付かせないようにするので、ミミは、いきさつを全く知らないと思います。
姉は細かい説明をしない人だし、フランス語はネイティブではありません。ミミの方も日本語は上手ですが、完璧な訳ではないのですから、お互いよほどしっかり話し合わなければ理解し合えないのに、それをしなかった。なので、かなり誤解したままの部分があると思います。
僕は、せっかく結婚した二人なので、修復できるのなら手伝いたいと思っていたのですが、姉もミミも、もうお互いに結婚生活を続ける意思はない、と言いました。
そして、このタイミングで、姉といわゆる不倫の関係で恋愛をしていた教授の離婚が成立したのだそうで」
「そうだったのですか」
「僕は、ミミのことを兄弟以上に思って来ました。でも、姉と離婚するのですからこれからは、同じように付き合っては行かれないと思うのです」
「どうしてですか?」
「やはり、立場があると思うので」
「どういうお立場でしょうか? 友人なら構わないのでは?」
「やはり両親や姉にも世間体というものがあって、僕がミミと付き合うことを喜ばないと思うのです」
「それは、ミミの抱える障害とも関係があるのですか?」
「そうですね。あるかもしれません。でも実は」
「はい」
「僕がホモセクシャルなので、ミミは気を遣っていると思います」
「そうでしたか」
「えぇ、一時期、僕はミミに惹かれていたことがあって、言葉にしたことはなかったのですが、そういうことは敏感に伝わってしまうようなんです」
「お姉さんは、初めからそういうことをご存知だったのでしょうか?」
「えぇ、ただミミのことについて、両親は何も知らなかったのです」
「なるほど」
「父は、ミミの障害のことを人づてに聞いて激怒していました。僕のことを知っていますから、尚更だったと思います。孫の顔を見るのを楽しみにしていたと言って。それは不可能なことでもないのですが」
「えぇ」
「以来、姉に対して離婚しろとずっと迫っていました。でもそれを、ミミは知らないと思います」
「お父さまは、ミミには直接仰らないのですか?」
「言わなかったのです」
「そうですか」
「それどころか実家にはミミを連れて来て欲しくないと言って」
「大変だったのですね」
「えぇ、姉を責めるばかりで、ずるいと思います」
私がミミの結婚や結婚相手に対して想像していたのとは、ずいぶん違うイメージだった。
短い沈黙の後、一文は話を続けた。
「今日、電話を掛けさせて頂いたのは、勝手ながら、ミミが国へ帰るまで面倒を見てもらえないかとお願いしたかったのです」
「あの……、まだご存知ないかもしれないと思うのですが、ミミは私と同じ会社で正社員として働く事になったのです」
「え? そうなんですか?」
「えぇ、ミミと社長の間で決まったようで、私も今日、聞いたところです」
「そうでしたか。じゃあ、僕が余計な電話をしなくても良かったんですね」
「いえ、余計なことではありません。今、手続きを始めたところですから」
「それは、そうですよね。ミミが家を出て行って、まだ三日しか経っていないのですから」
「あら、ミミはお宅にお邪魔しているのではなかったのですか?」
「離婚が決まった夜に、その……気を遣ってか、出て行きました」
「そうですか。そう言えば、家に泊めてくれる友人もあるように言っていましたから、大丈夫なのでしょう」
「塾の仲間のところかもしれませんね」
「えぇ」
「あ、すみません。長電話になっちゃって」
「いいえ、構いません」
「ところで、ケイさんの方からのご質問は?」
「あ、すみません。頂いたお電話で」
「いいえ、どうぞ仰ってください」
「実は、離婚の手続きですが、もうかなり進んでいるのでしょうか?」
「姉は動き出すと早いですからね。すぐではないかと思いますが……。それが何か?」
「実は、それによって就労ビザの手続きが変わると思うのです」
「なるほど」
「大きな問題ではないのですが、日本人と結婚している状況で手続きをする方が早いかも知れないと聞いたものですから」
「そうですか。それでしたら姉と相談してみましょう。何も今更、少しくらい遅れていけないという理由はないと思いますから」
「ありがとうございます」
「いえ、お礼を言うのは、こちらの方です。一応、今もまだ身内なのですから」
一文はその後、結果を連絡すると言い、挨拶をしてから電話を切った。
私は、さっきの会話の中で一文が言ったことが気になっていた。
『姉は細かい説明をしない人だし、フランス語はネイティブではありません。ミミの方も日本語は上手ですが、完璧な訳ではないのですから、お互いよほどしっかり話し合わなければ理解し合えないのに、それをしなかった。なので、かなり誤解したままの部分があると思います』
私は、まだミミの恋人とも言えない。考えるのは早すぎるかもしれないけれど、今のように、日本語だけで会話をしていて、この先、ちゃんとコミュニケーションが取れて行くのだろうか? 大学の講師になるほどフランス語が出来る人でも、上手く理解し合う事が出来なかったというのに。
きっと一文も、親切心から忠告をしたかったのだろうと思う。
私は、日本に育って日本の文化しか知らない。けれども日本に来ている外国人は、自分の国の文化と日本の文化の、少なくとも二つを知っているということになる。その違いに戸惑ったり困ったりすることは、私自身のことを思えば多少は想像が付く。だから出来るだけ無知や無理解によって、傷つけたりはしたくないと思ってもいる。
そレを文化と大まかに言うけれど、感覚の違いや、目にするもの全てに関しての好みも異なっていて当然だ。理解するのには、似たような常識を持つ日本人同士の何倍もの時間がかかるだろう。
ミミのように日本語が上手でも、時には会話の中で感覚が伝わらない事がある。そういう場合、傷つけないように考えながらも、できるだけ解決をしようとして来た。でもそれは、ミミとの間に何か特別な感情が横たわっているからで、それがなければ、どうしただろう?
もしかすると、面倒で付き合わなくなるのではないだろうか?
なぜなら同じ言語を話し、同じ文化を持つ人間がほとんどで、自分の国の人の中で友人を作ることには困らないのに、わざわざ面倒な外国人と付き合う必要性を感じないかもしれないからだ。
外国から来た人間が孤独だったり、同一言語で話の出来る同士で集まってしまうのにはそういう訳もあるのではないか、と思った。
ミミと出会ってから、私は既に多くのことを考えて来た。二人でいると、会話がそんなに必要だとも感じない。一緒にいるだけで心地よいと思えるのに、まだまだ見えない壁のようなものがたくさんありそうな気がする。
こんなことをくよくよ考えているよりは、ミミに会いたい。そして話がしたいと思った。
今夜ミミは、一体どこにいるのだろう?
ミミの携帯電話の番号をプッシュしかけて、私は手を止めた。
明日になれば分かることだ。
翌朝、私は早めに家を出た。この時間帯だと、いつもより空いていて、通勤が楽だと感じた。
(これから毎日、この時間に出発しようかしら?)
そんなことを考えていると、会社の手前の信号が赤に変わって引っかかった。
ついていないと思いながら、何気なく前方を見ると、私の前でぎりぎり信号を抜けた欧州車の赤いカブリオレが端に寄って止まった。
目の前を横切る車線の信号が青に変わったらしく、車が行き交い始める。
その隙間からコマ送りのフイルムを飛ばしながら見るように、車のドアが開いたあと、人が降りるのが見えた。それから、その人が運転者にキスをして離れると、車は指示器を出した。
運転をしていたのは茶色い髪に大きなサングラスを掛けた女性で、降りた人はミミのようだ。
その後、車はすぐに発進し動いて行った。
(今のは、何?)
頭から冷や水を浴びせられたような鋭い感覚が体を走り、私は思わず胸を押さえたくなるくらいの動悸を感じていた。
駐車場へ車を入れてからエレベーターに乗り、オフィスの扉を開けるまでの距離が、何だかとても遠く感じられた。
(あの人は誰?)
顔を合わせた途端に、それをミミに尋ねる勇気はなかった。
昨夜はあの人と一緒に過ごしていたのだろうか?
疑問が湧いて来るけれど、訊く事は出来ない。それは、自ら他人のプライベートな部分に突っ込んで質問をするようなことを好まないのと、プライドでもあるのだろうと思う。
今日もミミの就労ビザの手続きの為に、外出をしなければならなかった。あからさまに機嫌の悪いような態度を取る訳にも行かず、出来るだけ普通を装いながら挨拶を交わし、ミミと共に外出をした。
電車では出掛けにくいところを回るので、ミミを私の車の助手席に乗せた。
ミミは機嫌が良くて、車に乗せてあるぬいぐるみを抱き、可愛いと喜んだりしている。
私は適当に相槌を打つけれど、心の中には嫌な感情がいっぱい詰まっていた。
昨夜、一文から電話があったことも伝えた方が良いのかもしれないけれど、とてもそんな気にはなれない。
ジェラシー?
そう考えると情けない。
自分の気持ちを確認して、恋をしているのは分かったけれど、まだ、はっきり恋愛関係に進むことを二人の間で確認し合ったわけではないのだ。
嫉妬という感情は何の役にも立たないと思う。いくら嫉妬をしても相手の気持ちを変えることなんてできないのだ。ただただ、自分が苦しむだけ。そして、相手を不快にさせるだけだろうと思う。なので、できるだけ落ち着いて、自分の心の中から、この醜い感情を追い払おうと努力していた。
「ねぇ、ケイ。何か嫌なことがあった?」
「いいえ、別に」
「じゃあ、体調が悪いとか?」
「そうじゃないの。でも、少し疲れているかも?」
「昨夜は早く眠らなかったの?」
「えぇ、本を読んでいたから」
「ふーん。どんな本?」
「別に大した本じゃないの。軽いストーリーの本よ」
「ふーん」
私は、ミミの手続きを既婚者という形で進めた。
まだ、いくつか処理しなければならないことはあるけれど、残りは申請した書類が送付されて来てからだ。今日の段階で出来ることは、何とか午前中に終わったので、食事を済ませてから会社に帰る事にした。
私たちは駐車場へ向かう途中、イタリアンレストランに席を見つけて入った。オフィス街のランチタイムは、どこもいっぱいなので、席を見つけたらさっさと入るに限る。
座った途端、いきなりミミが尋ねて来た。
「ねぇ、ケイ。何か僕のことを怒っているの?」
「え? いいえ、別に。なにも怒ってなんかいないわ」
「そう?」
「そうよ」
「ふーん、じゃあ、何か考え事をしている?」
「考え事って……。私には、そういう癖があるかも」
「今日のケイは変だよ。何を考えているのか、ちゃんと言ってくれない?」
「別に私は何も……。ただ、ミミには住むところが必要なんじゃないかと思って、心配していただけよ」
「そう? でも、それなら心配いらないよ。今、社長の親戚の人の家に泊めてもらっているし、社長がアパートを探してくれている」
「え? 社長の親戚?」
「うん、そうなんだ。りえさんって言うの。アパートが見つかるまで彼の家にいてもいいって言われている」
「彼って……。男の人?」
「うん、そうだよ。ちょっときれいな人。英語と、少しだけフランス語も出来る」
「………」
「今朝も、まだ新しい電車のラインに乗るのがよく分からないので、電車に乗ると遅刻しそうだって言ったら送ってくれたんだよ、会社まで」
「へぇー、そうなの」
私は白々しい返事をした。
ミミの方も男性だなんて嘘を吐くのだから、おあいこだと思った。
「うん、社長とは甥という関係らしい」
「ふーん」
「何? 僕、何かおかしいこと言った?」
どうも私には、上手に嘘が吐けないようで困る。
「ううん、別にそんなことないわよ」
「そう。車が真っ赤でちょっと目立つんだよ。えっと……なんだっけな、あの車。うーんと」
私は思わず欧州車の名前を言ってしまった。
「え? 何だケイ。知ってるの?」
「知っているという訳じゃないんだけど」
「だって、車の名前を知っていたじゃない」
「偶然だけど会社の前で見かけたの」
私は観念した。
「そうだったんだ」
「ええ。でも、運転していたのは、女の人だったと思うけど」
「きれいだったでしょ? 性転換はしていないから、まだ男性なんだよ」
「え?」
私は、そういう事情に考えが及ばなかったけれど、どうやら彼もミミと同じ病気を持つ人なのかもしれないと思った。
「でも、彼は女性になりたい人で、僕と同じ病気ではないんだ」
「そうだったの」
「あれ? それで、ケイは今朝から様子が変だったの?」
「そんな事ないわよ。別に……」
「ケイって、嘘を吐く時、別に……って言うの?」
「え?」
そうしてミミは声を立てて笑い出し、私は何となくむくれたまま、未知の不思議な世界のことを飲みこもうとしていた。
やがて、ミミの就労ビザは正式に下りた。
同時期に自転車で通えるほど会社の近くにアパートも借りて、ミミの新生活は順調に回り始めた。
その後、ミミは離婚をし、独身に戻った。
私はコンピューターの入力方法を学び、インターネットも少しずつ使いこなせるようになって来た。
ようやく文明に追いついて来たようだと、ミミと社長にからかわれながら頑張った。
そして三月。
決算があるので会社はとても忙しくなった。
それでもミミがパソコンを使って手伝ったおかげで、例年よりも早く仕事が片付いたと、みんなで喜んだ。
そう、少し努力をすれば、新しい技術の恩恵に与れるという訳だ。
でも新しいことを始めることが、年々おっくうになって行く。ずっと、これまで通りだとしたら何も進歩しないとわかっているのに。