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動揺

 私の淹れたコーヒーを直接床に置き、時々それを飲みながら、ミミはリモコンを使ってTVの受信設定をしてくれた。


「これで、大丈夫だよ」

「どうもありがとう」

「いいえ、どういたしまして」

「それで、夕食はどうする? 家に帰る? それとも、一緒に済ませて行く?」

「実はね、今日は帰れないみたい」

「そうなの」

「うん」

「また、帰ってはいけない日?」

「そうなんだ。今日、ランチに出かけた時に、妻を見かけた」

「もしかして、私たちのテーブルの横を通って行った人の事?」

「そう。見ていていたんだ」

「うん。怖い顔をしていた人でしょ? でも、加藤さんと恵美子は気づいていないと思う」

「そう、良かった……。あんまり説明したくないから」

「そうね。むずかしい話だわ」

「あのお店ね、結婚する前に妻と行ったお店だったの。まさか今日、来るなんて思わなかった」

「あちらも、そう思っていたのでしょうね。まぁ仕方がないわ。会っちゃったんだもの」

「うん。別にこっちが悪い事をしている訳ではないけど、あんな風に会うのは嫌だと思った」

「そうよね。でも、きれいな人」

「ケイの方がきれいだよ」

「そんなことはないわ」

「そうだよ。だって彼女はきれいでも、いつもあんな顔をしているんだよ」

「そうなの」

「うん。だから僕、話をしようと思っているんだ。これから先、彼女がどうしたいのかも、よく分からないし」

「そうね。私もそれに賛成だわ。家に帰れないというのも困るでしょ?」

「うん。だけど、こうしてケイの作ったものを食べられるのはラッキーかも?」

 そうして私は、二人分の食事を作ることにした。


 ランチにたくさん食べ過ぎたので、夕食は明太子を使った和風のパスタにした。

 ミミは「おいしい」と言って、とても喜んでくれたけれど、その時の私は、どうにも釈然としない思いを自分の中に見つけて戸惑っていた。

 ミミと話していると、時おり考え方の中に外国人らしい部分を感じる。例えば日本人男性なら、妻が他の男性といるのを見つけたら怒るのが普通だろう。その怒りは、嫉妬心もあるのだろうけれど、何だか自分に所属している筈の人間の行動によって、自分のプライドが破壊されるのを恐れているようにも見える。

 もちろん、人にも依るとは思うけれど、ミミを見ていると理論的にちゃんと片付けられていて、特に強い感情が含まれていないようなのだ。


 ワインの入ったグラスを低いテーブルの上に置き、私たちは別々のソファーに座った。

 テレビのスイッチをオンにしてチャンネルを回したけれど、全く観たいような番組を見つける事が出来ず、すぐにスイッチを切った。


 ミミが「質問があるんだけど……」と言った。

「ねぇ、どうして日本のテレビって、こんなにうるさいの?」

「あぁ、バラエティ番組のことね。どうしてかしら? 注目させようという思いから、あんな声を出すタレントがいたり、大げさな効果音を入れたりするのじゃないかしら?」

「ふーん。でも、そういうのが嫌いな人も多いよね?」

「そうね。だけど好んで観る人もいるわよ」

「そう? ヨーロッパにはないと思うよ」

「じゃあ、テレビはもっと静かなんだ」

「うん。こんなには騒がない」

「お国柄かな? とりあえず今夜は映画の放送もないようだから、スイッチを切っておくことにするわね。あ、何か音楽でも聞く?」

「うん。できれば、静かなのがいいな」

「クラシックでもいい?」

「うん、いいよ。できるだけリラックスできるのがいい」

「リラックスねぇ。んー、森の音のBGMは?」

「うーん。海だと、もっといいかも?」

「海ねぇ……。あ、これは? 魚座の人のためのCD」

「それ聞いてみたい」

「よし、決まりね」


 波の音の混じった音楽が気に入ったのか、ミミは目を閉じソファに深く身を預けていた。じっと見ていても、普通の男性の顔だ。

 どこから見ても複雑な状況の中で暮らしているようではないし、きれいな男性だと思う。けれど、もしもこれが恋心だとしたなら、世間で言う不倫のような関係になってしまうので、今は避けたい。もちろん、そういう気持ちになる前に理解しなければならないことがあるのはわかっているけれど、もしも好きになってしまったら、その何もかもを無視してしまう可能性だってある。

 今、冷静に判断をしておかなければ、身を投げ出した後では遅いのだ。

 だからと言って、今夜ミミが誰か他の友人のところへ行ってしまうのも嫌だと思う。

 一緒にいたい気持ちはある。でも、そうとは言えない。

 どう言えばいいだろう?

 会社の同僚としての責任、などという言葉はそぐわないかもしれない。でも友人なら今夜泊めてあげてもいけなくはないだろう。

 私は、それを結論にすることにした。

「ねぇ、ミミ。今夜泊まって行くのでしょう?」

「いいの?」

「いいわよ」

「ごめんね、迷惑をかけちゃって……」

「いいのいいの、友達だもん。それにテレビを運んでもらって、おまけにセッティングも。

今日は、ずいぶんと助けてもらったわ。どうもありがとう」

「どういたしまして。じゃあ、これでオアイコ?」

「そう。おあいこ」

「ねぇ、明日なんだけど、朝ごはんを作ってもいい?」

「んー、いいけど、私はあまり食べないのよ」

「卵があったら、パンケーキを焼くよ」

「あら、パンケーキなの? 私、大好き」

「じゃあ、たくさん焼こうか?」

「うーん、でも私、朝だと2枚くらいしか食べられないと思う」

「そう? なら、少なめに焼く事にするよ」

「ありがとう」

 お礼を言いながら、何だかほっとした気持ちになっていた。


 こうして会う度に、ミミの存在が私の中で少しずつ大きくなって行く。

 それは好意を持っているせいなのだろうとは思う。でも、この感情が友情なのか愛情なのかについては、まだ決定していなかった。

 いっその事、進めようとか引こうとかいう考えを持たずに、しばらく心を漂わせてみるのもいいかも知れないとも思う。


 そこで不意に、ミミの携帯電話が鳴った。なんとなくミミの奥さんではないかという気がした。けれども会話は全部フランス語なので、何を話しているのか全く見当もつかない。

 ただ、ミミが途中で怒ったのには驚いた。会話の内容が気になるけれど、電話は十分近く続き、その時間がとても長く感じられた。

 ミミは電話を切った後、会話の内容を教えてくれた。


「電話は妻だった」

「そう。なにか怒っていたみたいだけど、大丈夫?」

「僕じゃなくて、あっちが怒っていたんだよ。何だかね、自分のテリトリーを荒らされた猫みたい」

「あらそう?」

「うん。ちょっとおかしいよね? だって、人間は自由でしょ? どこのレストランへ出かけようと関係ないと思うんだ。それからね、『もう帰って来ないで』って言うんだよ。そんなことを言われれば帰りたくないけど、僕の財産は、みんなあそこにあるんだ」

「………」

「どうしようかな」

 そう言われても、私には答えることができなかった。

 ミミを助けてあげたいという気持ちはある。でも、私が何とかしてあげるからここへ来れば? と言えるところにまで、気持が辿り着いていないのだ。

 今の中途半端な状況が、私を動けなくしている。

 今夜、ミミがここにいる事には問題を感じない。でも、明日は? 明後日は? 本当は、もっときちんと考えなくてはいけないのだろうとは思っている。だからと言って、ミミとの関係をどうしたいのかさえ、私には、まだはっきりと分からないのだ。

 このままいられるなら心地よいと思う。それでも、この感情が恋愛なのか、友情なのかがはっきりしない以上、私には、ミミがGIDだという事や、彼を取り巻く環境が作り出すトラブルに対応できる自信がなかった。

「ミミ、ごめんね。私には、どうしてあげたらいいのか……」

「いいんだよ。ケイには出来るだけ迷惑を掛けたくない」

「迷惑だなんて。友達でしょう?」

 そう言いながら、自分の言葉の中に白々しさを覚えて胸が痛くなった。

 今の自分を好きではないと思う。でも、どうすればいいのだろう。

 私は、いたたまれない気持ちになって、思いついた事を口にした。

「ねぇ、ミミ。もしも本当に家に帰れなくなったら、荷物くらいなら預かってあげられるわよ。」

「え? 荷物?」

「うん。だってね、私のところには物が少ないもの。ただ、この部屋まで運ぶのは大変かしら? でも抱えて来られるものなら、ここにも置けるわ」

「そう、ありがとう。とりあえず、妻の弟に電話をしてみるよ」

「弟さんがあるの?」

「うん。義弟は話が分かるから、問題があったら夜中でも来てくれるし、時々は泊めてもらっているの」

「そうだったの」

「うん。教室の仕事を探すのも手伝ってくれたんだよ」

「それは、頼り甲斐があるわね」

 そう言われてみると、自分の手の届かないところにもミミの世界があって、なんだか寂しいような情けないような気がする。もしかすると、私は世界でたった一人のミミの味方、というようなうぬぼれた勘違いを起こしかけていたのかもしれない。或いは、ミミが外国人であることとか障害があるということで、勝手に立場を低く位置づけていたとしたら、恥ずべきことだと思う。

 私の中にいる嫌な私を早く追い出したくて、なんとなく気持ちは焦っていた。

「荷物は、ここでもいいし、義弟さんのところに頼めるのなら、私の車を使ってもいいのよ」

「そう? それは、とても助かる」

 そう言うとミミは、義弟に電話を掛けた。

 

「駄目だな。家の方は留守番電話だし、携帯電話は電源を切ってある」

「あら、そうなの?」

「うん。どうしようかな」

「明日、掛けなおしてみたら?」

「そうだね」

「今夜は、もう何も出来ないわね」

「うん。何だか疲れちゃった」

「じゃあ、早めに休みましょう」

 私は本来、夜に入浴をする習慣があるのだけれど、明日の朝、ミミが出て行った後でシャワーを浴びる事にした。


 翌日、目が覚めると、キッチンから甘いパンケーキの香りが漂っていた。ミミは約束通り、私のために二枚と自分のために五枚のパンケーキを焼いていた。

「ちょっとミミ。あなた五枚も食べるの?」

「うん。だって僕はケイよりずっと大きいでしょう?」

「そうだけど……」

 昨夜は、あんなに深刻だったのに、今朝のこのあっけらかんとした態度は、どうなのだろう。

 頭の切り替えが上手なのだという事は分かったけれど、何だかおかしくなって笑ってしまった。

「五枚って、そんなにおかしい?」

「いえ、そうじゃないの」

「じゃあ、何で、そんなに笑っているの?」

「ごめんなさい」

「いや、いいんだよ。ケイが笑っていると、僕も嬉しいから」


 私は、はっとした。

 そうなのだ。私も同じだ。ミミが幸せそうにしていると私も嬉しいし、苦しそうだと同じように胸が詰まる。

 もしかすると恋なのかもしれないという気がして来た。でも、慎重に考えたい。私は臆病なので、自分の気持ちを手探りしているような状況では何も伝えたくなかった。


 食事を終えると、ミミは義弟のところへ出かけてみると言い、私はミミの電話を部屋で待つことにした。

 朝食の後片付けを済ませ、シャワーの後、洗濯をしながら掃除機を掛けると、後は何もすることがなくなった。

 テレビをつけてみる。チャンネルを変えてみてもミミの言った通り、ただ騒がしいだけの番組が続くので、またスイッチを消した。

 そろそろランチのことを考えようか、と思ったところへ電話が鳴った。

「ミミです」

「はい。で、どうだった?」

「それが、弟は今夜から旅行へ行くんだって」

「あらそう?」

「うん、スキーなんだ」

「で、どうするの?」

「鍵を預けてくれるから、しばらくはここにいられることになったの。それで荷物の件は、スキーから帰って来た後で、話し合いをして決めることになった」

「そう、それなら良かったわね」

「うん。一人でちょっと寂しいけど」

「弟さんは、いつまで旅行なの?」

「二日の夜に帰って来るって」

「じゃあ三十一日に、ここで一緒に年越しをしてから初詣に出かけない?」

「うん! そうしたい」

 ミミの声が明るくなった。

 私は、また中途半端なことをしようとしているような気もしたけれど、私だって寂しいのだし、何も同情心からそうしたい訳ではないということを自分に確認していた。

 でも、ミミのように素直には言えない。

 ふんわり浮かんだミミの笑顔に「あなたが羨ましいわ」と呟いた。


 大晦日の夜、ミミがシャンペンを抱えてやって来た。


「まぁ、そんな高いものを持って来なくても良かったのに」

「ううん、これね、買ったんじゃないの。クリスマスの日にもらったんだよ。こっちに住んでいたフランス人が国へ帰るので、ボトルをみんなに分けてくれたの」

「へぇ、そう。それはラッキーね」

 ミミから受け取ったボトルを冷蔵庫に入れて、私は年越しそばの準備を始めた。

 キッチンで働いていると、ミミがやって来てあれこれ尋ねる。

 私は、この時間をとても幸せに感じていた。


「ケイ、なんでお蕎麦を作っているの?」

「あら、知らなかったんだ。これは、年越し蕎麦と言って縁起ものなのよ。細くて長いでしょ? だから、こんな風に生きられますようにって」

「ふうん。でも、それならスパゲティでもいいよね?」

「う~ん、まぁ、そういう事になっちゃうけど……。でも、ここは日本だから、お蕎麦なのよ」

「ふふふ、嫌だなぁ。ケイって、時々冗談が通じないよね」

「あら、冗談なの? お蕎麦は、好きじゃないのかと思ったわ」

「あ、ごめんね。そういう意味じゃなかったんだよ。ケイが大好きだから、ケイの作ったものはみんな大好き!」

 そう言いながら、ミミは両腕を回し、私を後ろから抱きしめた。本当は驚いてドキッとしたけれど、ここでどういう反応を示したらよいのか分からず、それでも線を引いておきたいために、振り向く形でそっと体を離してから言葉を続けた。

「それにね、もしかすると引越し蕎麦と同じように、主婦が忙しいから夜食がお蕎麦になったんじゃないかとも思うの。違うかな?」

 私は、できるだけ冷静に見えるように話を続けた。ただ、ドキドキしているのは私の方だけで、ミミの方は、まったく平静の様子だった。


 ミミは私たちの関係について、この先、どうしたいと考えているのだろう?

 はっきりと言葉にしなければ意思が伝わらないこともある。なんとなく流されて生きて行くのは楽だけれど、ずっとこのままというわけにも行かないだろう。

 私の心は、はっきりミミに傾いて行っていることが感じ取れるようになって来た。例えば今のように抱きすくめられると、ドキドキしても嫌悪感はなく、温かいと感じられるようになっている。

 普段なら外国人というのはやたらと体に触れるので、そこが苦手だと私は思っている。

 例えば友人の範囲だと、手を触れる事は平気でも、肩に触れる事には別の感覚があって嫌なのだ。だからと言って、それを言うのは井の中の蛙のように見えて恥ずかしい気もするし、過敏な反応のようにも思えていた。


 お蕎麦は、おいしく出来た。

 ミミはフォークとスプーンを器用に使い、熱いと言いながらも、きれいに平らげてくれた。

 一般的にアジアの人間以外は、麺をすするということをしない。

 そういう習慣がないから出来ないという理由もそうだけれど、中には、みっともないと、はっきり言う外国人女性もある。

 私は、出来るだけ音を立てないように食べていたのだけれど、向かいで見ていたミミが、「気にしないで」と言う。

 言葉にしても通じないことがある一方で、言葉にしなくても理解が出来るという感覚が心地いい。それは普通、日本人同士の会話にだけ感じる事なのだけれど、ミミのこういうところが好きだと思う。


 後片付けの後、少し早かったけれど、神社に出かけてみることにした。

 除夜の鐘の鳴る中を、両脇に並んだ屋台の灯りに照らされながら歩く。周囲は人でいっぱいだったから、気が付くと私は自然にミミと手をつないでいた。

 着物を着た人たちを見かけた時にミミが言った。

「ねぇ、ケイは着物を着ないの?」

「一応は着るけどね、あまり機会がないの」

「ふーん、そうなんだ。じゃあ、今日着ればよかったのに」

「そうね。でも、思いつかなかったのよ」

「僕、着てみたいな」

「あら、そう? でも私、男物は持っていないのよ」

「いや、そうじゃなくて、お花のたくさんついた着物がいい」

 ここでようやく「そうだった」と、ミミがGIDだということに改めて気が付いたような気がした。


 私はミミを好きだ。それは、もう間違いがない。恋愛対象の異性として意識していないかと言えば、していると思う。

 けれどもミミは、自分を女性だと認識していて、しかも同性愛者だと言う。

 GIDの人には、同性愛者が半数くらいいるかも知れないとも聞いたけれど、私には実感が湧かない。

 これを本当に理解するのは容易ではないと思う。

 なぜなら外見が男性なので、彼らが女性を愛すると言えば、一般的な恋愛に思えてしまう。ところが女性から異性を相手の恋愛と同じように恋愛感情を抱いてしまっても、それは、一方的な思いでしかないかもしれないのだ。

 ミミを好きになっても、彼の持つGIDというトラブルも受け入れなければ、恋愛は出来ない。

 私は同性愛者ではないので、そこで既に恋愛をする資格がないようにも思えてしまう。

 一体、どうすればいいのだろう?

 今なら引き返す事が出来る。未亡人という肩書を持っただけでも、もう充分に人生は複雑だ。この上、面倒な事を抱えるのは気が重い。

 でも、ミミといると幸せな気持ちになるのも本当の事だと思う。このまま結論を出さずにいるというのは無理なのだろうか? 

 長くは続かないと自分でもわかっているくせに、また、ずるい考えが頭の中にもたげて来ていた。


 ちょうど階段を上って鳥居をくぐり、境内にたどり着いたと思ったところで新年を迎えた。

 ミミが、私の手を引いて、何百年も生きて来たような大きな樹の陰へと誘って行く。私は何が起こるのかと緊張はしたけれど、抗う気持ちはなかった。

 心とは裏腹に、繋いでいた手のぬくもりが、私の気持ちをミミへとまた一歩近づけていたのだと思う。

「あのね、フランスと同じように挨拶するだけだから、キスしてもいい?」

 そう訊かれた時にも、迷うことなく頷いた。

 ミミは「Bonne Année!(新年おめでとう)」と言ってから、私の右と左の頬に交互に四度もキスをして、同じ調子で唇にも小さくキスをした。私は、ミミが小さく立てる音を、何だか可愛らしいと思った。

 男と女。

 私には、既に固定観念があって、動かすのはとても難しい。でも、全てをニュートラルに捉え直してみるのはどうだろう?

 頭の中に、ふと、そんな考えが浮かんだ。そうすることで、もう少しミミとの関係を考えるのが、楽になるのではないかとも思う。


 その後、今度は私がミミの手を引いて、神さまにお参りし、おみくじを引いた。

 ミミは中吉、私のは小吉だった。

「まぁ、どちらも悪くないわね」

 そう言うと、「占いまでが習慣になっているなんて、日本人は面白い」とミミが笑った。

 近くの木に、花のように結ばれた他のおみくじと並べて、私たちも枝を選んで結んだ。

 きっと知らない人たちから見れば、私たちは普通の国際カップルなのだ。私の心の中は、温かく甘いものと、苦くて飲み込みにくいものが混じったような感じがしていた。

 でもそれは、私自身の心の動かしようで微妙に変化する。来る時よりも更に増えた人混みの中を歩きながら、ミミの手のぬくもりに心を委ねていた。


 アパートに戻ってから、私たちはシャンペンで乾杯をした。

 ミミが、パリでは、新年を迎えた瞬間にエッフェル塔に取り付けられたたくさんの電球が灯されて、とてもきれいだったと学生時代の思い出を語る。

 私の学生時代の思い出には先の夫と共に過ごした時間が多く、長い間、心の底に封じ込めてあった所為か、普通の会話として上手に話す自信がなかった。


 人は、いろいろな経験を経て、話が上手になるのだと思っていたけれど、実はそうではないのかもしれないと近頃思う。

 特に悲しい事や辛い事は、経験すると、似たような境遇の人の胸の内を慮って話せなくなってしまう事がある。

 私のように少し時間が経っている者は、それなりに痛みを経験しているから、誰かが傷に触れてもやり過ごす術を知っているけれど、そうではない人もあるのだ。

 年齢や立場によっても悲しみの種類が違う。

 どちらが悲しいかと比較しても仕方がないけれど、そう言えば、私の悲しみと先の夫の母親の悲しみも同じではないと感じる瞬間が何度かあった。身近な人を亡くすと、大抵の人がしても仕方のないような後悔に苛まれるものだと思うけれど、痛みがどこにあるのかさえ、きちんとは掴めない。そういう人たちを前にすると、どう話せばよいのか、全く分からなくなってしまうのだ。


 ミミとの会話の中で言えば、病気を抱えながら過ごした年月について聞いても、私は上手に理解することが出来ていないのかもしれないと思っていた。それを思えば、自分からそういう種類の話題に近づくことに憶病になってしまう。

 恋をすると、相手に嫌われるのが怖くて、だんだん無口になって行くように思う。

 そう。

 この時、既に恋をし始めているという自覚があった。


 ミミがチーズを食べたいと言うので、冷蔵庫の中から数種類のチーズとドライフルーツ、ナッツ類などを出してお皿に並べた。

 それを低いテーブルに置き、シャンペンを飲みながら、私たちはそれぞれのソファに長くなっていた。

 CDを選んだ後、ミミが明るすぎると言い出し、飾り用のランプを一つだけ点け、他の灯りをみんな消してしまった。

 ジャズヴォーカルが甘い声を張り上げると、切ない気持になる。私は、音楽のボリュームを落とした。

「何で、音を小さくするの?」

「会話が聞こえないかな、と思って」

「ケイは、話がしたいの?」

「うーん、そうね、お話していると楽しいわ」

「そう。音楽が嫌いじゃなければ、いいんだよ」

「音楽は好きよ。でも、せっかく一緒にいるからと思って……」

「うん、わかった」

「シャンペン、おいしいわ」

「ケイって、お酒に強いよね?」

「そんなことないわよ。すぐに眠くなるの」

「そう? 気が付かなかった」

「前にも眠っちゃったでしょ?」

「うん、そうだけど、他の日本人の女の子たちよりも強いと思うよ」

「ふ~ん、そうなの?」

「うん。時々、友達と飲みに行くんだけど、泣いちゃう子もいるから困ってしまう」

「へぇー、そうなんだ」

「周りの人が見ているから困るよ」

「そうよね。何か悩んでいるのかな?」

「そうじゃなくてね、お酒を飲むと悲しいことばかり思い出して泣きたくなるんだって」

「そうなの? 周りの人は驚くわよね。ミミが悪いことをしたみたいに見えるし」

「そうなんだよね。だから、彼女とはあまり飲みに行かないことにしたんだ」

 私は、また少し、ミミの生活の知らない部分に触れたような気がした。

 そう言えばこれまでは、仕事と家の往復以外の部分について、あまり尋ねたりはしなかった。


「ミミは、よく飲みに行くの?」

「僕は、あまり飲みに行くのは好きじゃないけど、英語のクラスで教えている友人たちは、みんな飲みに行くんだ。それも、サービスみたいな感じで」

「サービス? どういうことなのか分からないわ」

「あのね、外国人と一緒に飲みに出かけたい女の子がいるんだよ。少し英語で話すのを人に見せると格好いいみたいで」

「へぇ、そうなの」

「うん」

「何だか、ちょっとおかしいわね」

「うん。僕は、そんなことはしないけど、ベッドに入る子もいるんだって」

「そう。もう、そのお話はいいわ。何か違う話がいいな」

「ケイのことを訊いてもいい?」

「んーと、内容によるけど、いいわよ」

 そう正直に答えると、ミミは笑った。

「そういう言い方が好き」

「そう?」

「うん、ケイらしい」

「あら、私にはわからない」

「そうかもしれないね。自分のことは分かりにくいから」

「自分の顔さえ自分で見ることが出来ない……なんて誰かが言ってたわよね」

「そうだね。光が鏡に反射するみたいに、人と会話をしている内に分かって来ることもあるかな、とは思うけど」

「そうね。でも、その反応がまっすぐだと分かりやすいけど、人って複雑だものね。分かったと思ったら違ってた、なんていうこともあるから難しいわ」

「うん。でもね、間違っていたら直せばいいんだよ。日本人は、せっかちな気がする」

「そうかしら?」

「うん。時々だけど」

「そうなんだ」

 ミミは、シャンペンをふたつのグラスに注ぎ足しながら質問をした。

「ケイは、前に結婚をした人が死んでから、恋人はいなかったの?」

「いきなり、ストレートな質問ね。……いなかったわ」

「ずっといなかったの?」

「いないわよ」

「そう。どうして?」

「どうしてって……。そうねぇ、毎日が職場との往復だけでしょ? 出会うチャンスもなかったし、恋愛なんて思いつかなかった」

「でも、寂しかったでしょ?」

「えぇ、それはね」

「そう。今も、寂しい?」

「今はねぇ。寂しくないと言えば嘘かも知れないけど、仕事もしているし、ミミのような友達もいる。それに、ここへ引越して来てからまだ落ち着かないから、インテリアを考たりしている内に勝手に時間が過ぎちゃうの」

「ふーん。そうなんだ。恋人は欲しくないの?」

「探して見つけようとは思わないの。でも、もしもチャンスがあったら恋人が出来てもいいかな、って思い始めているところ」

「そうなんだ。良かった」

 ミミが嬉しそうに言うので、つられて笑ってしまったけれど、こんな風に正直に話してしまって良かったのかとも思う。

 私たちはシャンペンの酔いが回っていい気持ちになり、別々のソファでブランケットにくるまったまま、朝まで眠ってしまった。


 元旦の遅い朝、私たちはお雑煮を食べ、夕方には、お屠蘇を酌み交わした後、大晦日に作ってあった幾種類かのお節料理を食べた。

 その後、私が年賀状の整理を始めると、ミミは義弟の部屋に帰って行った。



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