アルバイト
火曜日はまだ曇りがちだったのが、水曜日は朝からいいお天気になった。
晴れた秋空を見上げると、ほっとした気分になり、愛車でオフィスに向かう。
地下のパーキングからは、直接エレベーターでオフィスのある五階まで上がることができる。エレベーターを降りると、左手にちょっとしたスペースがあって、飲料水やタバコ等の自動販売機が並んでいる。そのまま真っ直ぐに進むと、左右に建築事務所や歯科があり、次が例の語学学校、そして突当りが私の勤める山村貿易だ。
小さなオフィスである上、同じ顔触れでもう何年も働いているので、全員が事務所の鍵を持っている。
誰が先に出勤しても扉を開けられる方が便利だという社長の考えだ。けれども大抵は恵美子か私が一番に出勤していて、ブラインドを開いたり留守番電話を聞いたりしている。
その日は恵美子の方が早かったらしく、すでにオフィスの鍵が開いていた。
私は「おはよう」と声を掛けながら、部屋に入ってびっくりした。
恵美子と共に、ミミがそこにいたのだ。
どういうことかとミミに尋ねると、今日からアルバイトとして雇われたのだと言う。
週に三回、隣の語学学校で働くことになったのだけれど自宅からは距離があり、交通費が片道分しかもらえないので、食事をしたらもうお金が残らない、と社長に泣きついたらしい。
そこから先は察しがつく。また社長の世話好きの癖が出たのだろう。
語学学校に合わせて週に三回、午前中の二時間だけ、ここでアルバイトをすることになったのだそうだ。
私の貸したタオルは洗濯され、透明のポリ袋に入れて手渡された。何だか、そういう気持ちの細やかさが日本人みたいだと思う。
恵美子は苦笑して首を振りながら、毎朝お掃除の人が来てくれるというのに丁寧に机の上を拭いていた。
ミミは嬉しそうに「よろしくお願いします」と言って、日本人の真似をしているのか、私に頭を下げる。
「えぇ、それはいいけれど、ずっと私の机の横に座るわけには行かないでしょう? どうしたらいいかしら?」
先日の居心地の悪さを思い出し、最初に気になったことが口を衝いて出た。
「社長が、とりあえず下のオフィスで机を借りてくれると言っていました」
そう言えば以前、管理事務所から、使わない机と椅子があるが必要ないかと訊かれたことがあったのを思い出した。
恵美子がミミに言う。
「あなた、自分で行ってみる? 社長が出勤して来る前に持って来ちゃえば?」
「はい。さっき行ってみたら、まだドアが閉まっていたので、もう一度行こうと思っています」
「あら、そうだったの。じゃあ、後でお願いするわ」
その行動力に感心をしながら、さすがは外国人だという気がした。
結局、その日は管理事務所の人が来なかったので、ミミは私の横に座って仕事をした。
日本語もよくできるし、憶えも早かったので仕事はよくできるだろうと思う。ただ、二時間という勤務時間は中途半端だったので、たくさんの仕事は頼めない。
けれどもミミは嬉々として働くし、大人しいのにも関わらず、明るい空気を持ち込む。なかなかのムードメーカーだった。
社長は、時折思い出したようにフランス語で会話をし、得意げな顔をした。
私は(何だ、そんな目論見もあったのか)と思ったりもする。けれど誰も悪い気はしなかった。
年末の忘年会には、入ったばかりのミミにも参加してもらうことになった。
この日は全員が電車で出勤する決まりだったので、私も駅まではタクシーに乗り、電車で出勤をしていた。
社長が苦労をして、何とか金曜日に場所を見つけられたことで、加藤はゆっくり飲めると喜んだ。
加藤は、あっさりしているが気がつかない性質ではない。料理や飲み物に不足がないようによく気を配り、女性は飲みすぎるといけないからと、まめにお水やお茶を頼んでくれたりもする。特にハンサムではないけれど温厚そうな顔立ちで、いい家庭人なのだろうなと思えるタイプの男性だ。
恵美子や私が入る前からこの会社で働いていたということもあり、あまり詳しく尋ねるのも憚られるが、元は大手商社のエリートだったらしい。ところが上司の汚職が発覚し、一緒に引責するような形で退職したのだそうだ。年齢は四十代半ばで、社長とは遠縁だけれど親戚関係にあると聞いている。
忘年会は、鮨屋の座敷のお鍋で始まり、二次会へも出かけることになった。カラオケ好きがいないので、アイルランド人の経営する小さなパブへ行く。
ここは音楽の趣味が良く雰囲気もいいので、一人で来る男性や女性客も多い。私も以前は、恵美子や友人たちと、時おり立ち寄った。
夫が亡くなってからは迎えに来てくれる人もなく、かえって友人と外で飲むようなことはなくなった。
社長とミミは、ここのマスターと英語で話をしている。英語は聞き取れても、世界の情勢の事など、私にはよくわからない。以前は、夫の読む新聞を横から覗いては、解説をしてもらったりしていたけれど、思い出に触れそうなことは全て排除して来た。
この一年余りで住まいや家具も替えたし、新聞も止めた。
忘れたいというよりは、引きずると生きて行かれないくらい気持ちが沈んでしまうから。
加藤が、恵美子と私に外国の冗談を披露してくれる。
「新婚の奥さんと犬の違いは、なーんだ?」
「あら、何かしら?」と私が言うと、恵美子は「背の高さ!」と答える。
「いや、それもあるだろうねぇ。でも答えは違うなぁ」
加藤はクイズだと言うけれど、ジョークなのだから、どうせ答えなんて当たりっこないのに決まっているのだろうと私は思う。
「ね、じゃあ加藤さん、答えは?」
「それはねぇ……新しい犬は、一年後も帰宅したら飛んで来るけど、新婚だった奥さんは飛んで来なくなるんだよなぁ」
なるほど、と言って恵美子も私も笑った。
こういう罪のない冗談を上手に選ぶ加藤のセンスの良さは、素敵だと思う。他の状況ならその場に合わせて、また違うジョークで盛り上げるのだろう。
ふと加藤が時計に目を落とし「そろそろ上り電車が最終の時刻に近付いているよ」と教えてくれた。この人は、きっと外では酔えない人なのだろう。
私が社長に声を掛け、そろそろお開きということになった。
そのお店まで奥さんが迎えに来てくれるという加藤を残し、他の四人で駅へと向かった。
周辺には商店が並んでいる。
昼間は魚市場に近く賑やかなのが、今はシャッターが降り、その質感が空気をもっと冷たく感じさせるような気がした。
楽しい時間が過ぎ、家に帰ると、また一人だ。
師走とは、こんなに寂しいものだったのかとふと思い、沈みそうな心をまた引き上げるように、思いを払いのけながら駅までの道を歩いた。
一人でいるのは淋しいけれど、みんなと一緒にいても淋しく感じられることがある。そういう時には、淋しさがもっと強く感じられた。
下り線に乗る恵美子を社長が送ることになり、上り線に乗る私は、同じ方面から来ているミミに送ってもらって帰ることになった。
方向が自然にそうしたので、深く考えることもなく、私はミミと肩を並べて歩き出す。
私の住む所へは車だと二十分ほどで辿り着けるのが、電車では遠回りになるため、乗り換えを入れて四十分ほどもかかる。
駅からの帰りは急な上り坂なので、タクシーでなければ、かなりきつい。料金も大した金額にはならないので、直接タクシーで帰ることも出来たのだけれど、なんとなく、みんなと電車に乗る方を選んだ。
下りよりも先に到着した電車に乗って、ミミと私は開かない側の扉の車窓から、社長と恵美子に向かって手を振った。
やがて扉が閉まり、上り電車が動き出したタイミングで、下り方面のホームにも電車が滑り込む。車両は重なり合いながら遠ざかり、もう二人が見えなくなったので、車両と平行に並んでいる長いシートの背にもたれ、ミミと並んで座った。
ミミと私は似た年齢だろうと思う。
でも育った国や背景が違うから、感覚にずいぶんと差があり、それをお互いに自覚している。そういう訳で、会話のない時にもあまり緊張せず、こういうものだと思える空気がそこにあるような気がした。
詰めようと思っても詰まらない間隔だけれど、それを分かって接していれば心地よい距離だと思えた。