雨色の思い出
そうして、遂に引っ越し用の箱がやって来た。
通常なら船便にするところけれど、家具類は持って行かないと言うミミの荷物は少ないので、航空便にするようにと社長から指示があった。
ミミの荷物をまとめ、会社へと運んだのが八月最後の日。
三日後に、パリへと旅立つことが決まっていた。
夜、ミミがベッドの中で尋ねて来た。
「ねぇケイ。僕が行ったら、たまには会いに来てくれるの?」
「そうじゃなくて、社長が日本との間を往来して欲しいって言っていたわよ」
「ケイは、それを信じてるの?」
「だって社長が……」
「パリと日本を移動するのは、僕じゃなくて荷物だと思う。もちろんお金も」
「それもだけど、やっぱり出張はあるのじゃない?」
「インターネットで会話もできるから、まぁいいんだけどね」
「ミミは日本へは、もう来ないと思っているの?」
「社長は僕たちのことも心配しているんだよ」
「そうかしら?」
「うん。だからパリに支店を作るのを、こんなに急いだんだと思う」
「……」
「ねぇ、僕がいなくなったら、ケイは普通に結婚する相手を探すんだよね?」
「そうねぇ。私は、それを望んではいるんだけど、具体的にはどうすればいいのか分からないのよ」
「そうかな。ケイなら街を歩けばすぐに見つかると思う」
「そんな……ミミが出て行ったすぐ後では無理よ」
「ケイはねぇ、周囲のことやなんかを考えすぎなんだよ」
「そうかしら?」
「そうだよ。生きている時間はその人だけのものなんだ。だから大事にしなくちゃ」
「それは分かるわ」
「だからね、周りの人がどう思うとか、そんなことは後で考えればいいんだよ。ケイが好きなことをすればいい」
「そうかもしれない。でも私、好きなことが何かも思い浮かばない状態なの」
「じゃあ、探せば?」
「何のために?」
「生きるためだよ」
「なるほど、そうね。でも私は、生きるためには、こういうブランクも必要だと思うの」
「そうかな?」
「うん、そう思う」
「時間の無駄かもしれないと思うけど」
「ううん、そうじゃないのよ。だってね、昨日の続きで今日があるでしょ? どんなに悲しくてもお腹は空くし、眠くもなるし、そういう自然の欲求は湧いて来る。そうするとね、時間に流されたり、ずるずると考えが埋もれてしまって、どこで区切って切り替えればいいのか分からなくなるの」
「ずっと引きずってしまうっていうこと?」
「そうね、そういう感じかな。だからね、そこに空白の時間があれば気持ちを区切れるのよ」
「じゃあケイは、僕がいなくなった後、空っぽになるんだ」
「そうかもしれない」
「僕と一緒に、パリに行こうとは考えなかったの?」
「私だって一緒にいたいわ。でも私には無理だもの」
「どうして?」
「だって英語だって下手だし、フランス語なんて絶対に無理」
「そうなんだね。僕はケイに愛されているかもって、少しだけ思っていたんだけど」
「ミミの事は、とても好きよ。でも外国では暮らせない」
「社長はね、この台詞を計算していたんだよ」
「え?」
「もういいんだ、ケイ。お休みなさい」
「お休みなさい、ミミ」
翌朝起きると、ミミはいつものミミに戻っていて、昨夜の話など何もなかったようだった。そうして出発の日まで特に何も変わらず、いつものミミでいた。
いよいよ出発という日。
ミミはフライトが夜なので、会社へ一緒に出勤した。
玄関を出る前には強く抱き締め合い、最後のキスをした。
旅立ちを湿っぽくしたくないと思い、涙がこぼれそうになるのを必死に我慢して、出来るだけ明るく振る舞うことにした。それでも、オフィスに到着するまで、車の中はお葬式のようで、一言も言葉が出て来なかった。きっとミミも、同じ気持ちだったのではないかと思う。
オフィスでのミミは、お昼前まで社長と加藤とミミの三人で応接間にこもり、出発前の最後の打ち合わせをしていた。
歓送会を辞退していたミミのために、お昼には社長の奢りでミミの大好きなお寿司が届けられ、シャンペンが抜かれた。
加藤からは、祭り半てん、恵美子からは朱塗りの合わせ手鏡が、社長からは「レプリカだけど……」と剣豪の描いたという雀の絵の掛け軸が贈られた。ミミは「ありがとう」を言いながらみんなの頬にキスをした。
私や恵美子が、何度も空港まで見送りに行くと言っても受け付けず、ちょっと旅行へでも行くような感じでタクシーに乗り込むと、一人で旅立って行った。
片づけを終えて帰宅の準備をしている時、心配した恵美子が、何度も「大丈夫?」と尋ねてくれた。
私は早く一人になりたかった。
帰宅後、ミミがいなくなった部屋の隅に座り、ひとりで声を上げて泣いた。
そしてミミがいたということを確かめるように、痕跡を探して部屋を歩いてみる。
歯ブラシや洗面用具は、新しいものを揃えるから処分して欲しいと言い残されていたので、まだそこにある。そして、ミミの為に空けたクローゼットはも空になっていて、ミミの好んだ香水の残り香だけが漂っていた。
ふと、その隅に封筒が置かれているのを見つけた。
手に取ると、一生懸命に書かれた「圭さま」という文字が読み取れた。
また新しい涙が溢れ出して来た私は泣きじゃくり、指で涙を払いながら、ミミの書いた手紙の文字を一つずつ目でたどった。
ありがとう、ケイ。
僕はケイと出会えて幸せでした。
いろいろと難しいわがままを言ったけれど、ケイは、いつも僕を助け、包んでくれた。
本当はずっと一緒にいたいと思う。
愛しているから。
でも、ケイには僕と一緒にいるよりも、もっと幸せになって欲しいと思うから、今度は本物の友達に戻ろうと思います。
ケイの引き出しを勝手に開けてごめんなさい。
でも、アクアマリンのペンダント・トップを二つ買ったの。
雨粒の形だったから。
最初に出会った日と、僕の最高の思い出になった日が雨だったんだよ。
せめて思い出にしたいから、ひとつをケイの引き出しに入れて行きます。
次に会う時には、きっと幸せになっているように、このペンダントに願いを込めて。
Je t'aime,
Je t'adore,
bisous,...
ミミ Dominique
その場に崩れるように座り込んで、ひとしきり泣いた後、私は引き出しを開けてみた。
そこには、確かに包装された箱があって、開くと中から涙の粒のような形のアクアマリンが出て来た。この色なら、きっとミミの瞳の色をくすませないと思う。そう思うと、また涙がこぼれて仕方がなかった。
私はミミのスーツケースに、浴衣と帯、そして彼の欲しがっていた腕時計を入れておいた。
「今まで、本当にありがとう。体に気をつけてね」という短い手紙を添えて。
パリなら、もっと素敵なものがたくさん見つかると思うけれど、それしか思い浮かばなかったのだ。
今夜、私が眠っている間にミミはシャルル・ド・ゴール空港に到着し、フランスの人に戻って行く。
(自分で選んだくせに、私は女々しいわ……)
そう考えてから苦笑いをした。
女に女々しいとは言わない。
これを聞いたら「日本語は難しい」と言いながら、きっとミミは笑っただろう。
こうして私たちの恋は終わった。