出会い
私は、小さな貿易会社に勤めている。
結婚して五年目、子供もないままに夫は交通事故で他界した。ショックで長い間、職場にも顔を出せなかった。
小さな所帯で迷惑をかけたのにもかかわらず、人情派の社長が私の戻るのを待っていてくれた。
実は社長も妻を病気で亡くし、再婚をした経験があった。なので、鬱にならないように早く普通の生活に戻った方がいいと、ほとんど毎日のように連絡をして来てくれた。
そういう訳で、まだ悪夢と現実との区別がつかないような状態のまま、職場へ復帰することになった。そして物語の始まりは、会社に戻って一年が過ぎた晩秋の頃のことだった。
貿易会社と言っても、私の職場には、大きな会社との契約がたくさんあるわけでもない。テナントビルの一角に入った小さなオフィスだ。ブランド物や化粧品などの輸入を依頼して来る個人の顧客も多かったし、時には医薬品を扱うこともあった。
社長が営業役で、社員の内訳は、社長補佐の加藤という男性と主に経理業務をする恵美子、そして貿易事務処理を担当している私こと圭の三人だ。面倒な事は男性たちに振ればよい状況で電話番と事務処理をこなしていたため、私は日本語と簡単な英会話ができればこと足りた。
職場では恵美子と二人でいることが多かった。同じ三十代前半の私たちは何かと気が合い、社長も加藤も親切だったので人間関係には全く問題がなかった。
月曜日のその日は、朝から大雨だった。
濡れそぼる落ち葉の上を踏み転がしながら、私は好みの小型車で職場に辿り着いた。気温はこの秋一番の冷え込みだとラジオで言っている。
朝、慌てて出して着たロングコートからは、洋服ダンスに入れてある防虫剤の香りがかすかにした。事務所の鍵を開け、中に入ると暖房のスイッチを入れる。
留守番電話の赤いランプが灯っていたので、それを再生しながら窓にかかるブラインドを開けていると、「おはよう!」と言いながら恵美子がやって来た。
レコーダーには社長から遅刻するというメッセージが入っていたので、いつもなら淹れてもらえるはずのコーヒーがない。
加藤からのメッセージは、自宅から直接展示会に出かけるとの内容だったので、私は恵美子と二人分のコーヒーを、廊下の突き当たりにあるベンディングマシンで購入しようと提案した。
廊下に出ると、どうやら暖房設備が故障したようすで、かなり空気が冷たかった。身を縮めるようにして歩き始め、ふと隣のオフィスの前を見ると扉の前に誰か人がいる。
隣は語学学校で、英語の他にもフランス語やドイツ語などを教えていると聞いていた。赤や黄などの大きな文字で、宣伝文句と教室名の書かれた扉の前に立っていたのは、痩せた外国人男性だった。
どうやら傘も持たずにやって来たらしく、髪もコートもびしょ濡れだ。
ふと目が合った瞬間に「Hi」と言うと、「Good morning !」と返事が返って来た。私も同じように挨拶を返そうと思ったけれど、どう見てもGoodな状況には見えなかったし、何だか体が細くて頼りない感じの男性だった。髪は薄茶色で目はブルー。仕草がどことなく子供っぽく見える。
私は気の毒に思ったので、コーヒーを買う前にオフィスへ戻り、タオルを貸してあげることにした。
「どうぞ、使って下さい」と言ってタオルを渡すと、彼が日本語で「ありがとうございます」と言った。
さっき英語の時にはそう感じなかったのが、ハスキーな声でなかなか雰囲気がいい。
じっと見ているのも変なので、私はコーヒーを買いに出かけることにした。
コーヒーの入った紙コップをふたつ持つと、濡れた髪を拭く彼の横を軽い会釈だけで通り過ぎ、そのままオフィスに戻った。
部屋に入って自分の机に向かい、廊下の様子を恵美子に話すと、暖房の故障のことについて管理事務所に電話をすると言い、番号を探し始めた。
机に向かうとすぐに加藤から急な用事の電話がかかって来て、処理をしている内に時間が過ぎた。
コーヒーを買って来てから十五分も過ぎただろうか。社長が誰かと仏語で話しながら出勤して来た。社長の後ろからついて入って来たのは先ほどの男性だ。
状況は察しがついた。
「おはよう、お疲れ様」と私たちに向かって言いながら、鞄を自分の机の上に置くと、社長は「どうぞ」と加藤の席を手のひらで男性に示し、座るよう勧めている。
「ほらこの人がね、びしょ濡れでそこに立っていたんだ。まだ隣は開いていないし、何だか廊下は寒いし気の毒でさぁ、ここの方が温かいし、コーヒーくらい御馳走してあげようかと思って連れて来たんだよ」
気のいい社長らしい態度に、私は恵美子と顔を見合せながら笑った。
恵美子が暖房設備の故障については管理事務所に連絡済みであるとことを告げると、社長が「早く修理を寄越さなかったら、賃貸料を値切ってみんなにケーキをご馳走するよ」と言い、コーヒーを淹れるために小さな厨房へと入って行った。
恵美子は未婚の独身女性らしく、少し緊張した面持ちで隣に座った男性をちらと眺めていた。私も気にはなるけれど、仕事もしなければならない。
手書きの書類を積み重ねていると、男性がキャスター付きの椅子を漕ぐようにして、私の斜め後ろへやって来た。
「あら、なあに?」
つい日本語で話しかけてしまったけれど、彼はそれをちゃんと理解し「なんでもありません」と笑いながら答える。
そして遠慮がちに「ここ……スペルが違います。aじゃなくてeです」と指摘して来た。
「あら、そうだったわね、どうもありがとう」
どうして、この外国人が勝手に私の書類を覗いてスペルを直したりするのかと、ちらと思いはしたけれど、間違いを直してもらっておいて文句を言える筋あいではない。
そこへ社長がコーヒーを淹れて戻って来ると、男性は席から立ってカップを配るのを手伝った。
このオフィスでは男女平等というよりも、レディーファーストが適用されているので、いつもこんな風である。
(しかし、それを知らないこの男性が、お客の立場なのにさっと動くのは、どうしてかしら? 白人だからってみんながそうという訳じゃないと思うけど、やはりこの男性の国でも、それが普通なのかしら? それとも、そういう性格?)
外国に暮らしたことのない私には、そういう点がよくわからない。
社長は自分の席に座ると、コーヒーをすすりながら男性と話し始めた。
「おいしいでしょう?」
「はい、おいしいです」
「あはは。僕は昔、パリのカフェで働いていたことがあるんです」
「そうですか。僕はフランス人ですけど、パリはよくわからないのです。田舎で暮らしていましたから」
「ほお、フランスの田舎ですか? どの辺りで?」
「北の方です。Le Havreって知っていますか?」
「んー、聞いたことはあるなぁ。でも、北の方はよく知らないのですよ」
「水が出ています。温泉があって、ホテルもあります。Saint-Amand-les-Eauxは、知りませんか?」
「お水は知っていますよ。有名ですね」
「はい。その近くに住んでいました」
「なるほど」
「田舎で、きれいなところです」
「ほう。で、どうして日本へ?」
「日本が好きだったのです。桜とか着物、お寺、そういう写真をたくさん見ました」
「日本語がお上手ですね」
「ありがとうございます。ベルギーの大学へ行って学びました」
「ほう、そうでしたか。ベルギーで日本語を?」
「はい、五年間、勉強しました」
「へぇ、それは大したものですね。日本には、もう長いのですか?」
「はい、七年います」
「それで、フランス語を教えていらっしゃる?」
「はい。でも英語を学びたい人が多いので、英語も教えています」
「なるほど。そうかもしれませんな」
「フランスは遠いですから」
「えぇ、えぇ。ところで、どうして今日はこんなに朝早く来られたのですか?」
「面接があって来ました」
「なるほど。しかしお隣りは十時くらいからしか扉が開かないのですよ」
「そうですか。電話をした時、時間を尋ねるのを忘れたのです」
「それは、あちらも迂闊だな。それじゃあ、ここの方が暖かいですから時間までいたらどうですか?」
「いいのですか?」
「構いませんよ。狭いけど風邪を引くよりましでしょう? ぼくも午前中は来客の予定がないし、応接室で本でも読んでいらっしゃったら?」
「ありがとうございます、でも、何かお手伝いをします」
「いやいや、そんなに気を遣わなくていい」
「スペルチェックくらいならできます」
「あぁ、なるほど」
「してもいいですか?」
「そりゃあ、ありがたいが……」
社長がそう言うと、男性はまた椅子を転がしながら私の横に移動して来た。
彼に声を掛けようにも、考えてみれば、名前もまだ聞いていなかった。
「あなた、お名前は何と仰るのですか?」
「ドミニクです。あ、でもみんなミミと呼びますから、それでいいです」
「ミミさんね?」
「あ、さんは付けないで。変だから」
「分かりました。ミミね?」
「はい、その方が話しやすいです」
「こちらがエミコで、私がケイ。やっぱり、さんをつけなくても結構です」
「ではケイ、そこのペ-パーを見せてください」
「えぇ、スペルチェックをしてくださるのね。では、こちらの書類をお願いしてもいいかしら?」
「はい。いいですよ」
「加藤さんの席が空いているから、あちらの机を使った方が広くないかしら?」
「いいえ、ここでいいです。そうしたらモノを動かさなくて済む」
「あらそう? でも……」
「邪魔ですか? 僕」
「いいえ、そういう訳ではないけれど」
「じゃあ、ここで仕事をします」
「………」
私が本当に言いたかったのは、こんな風に傍にいられると、何だか恥ずかしいというか居心地が悪いというか、落ち着かないということだったのだ。
けれども、それを誤解のないようにどう表現したらよいものか、すぐには思いつかなかった。
その日、ミミは小一時間をスペルチェックに費やし、みんなにお礼を言ってから隣の語学学校へと向かった。
帰りにでも寄るかと思ったけれど、顔を見せなかった。
私には、何となくそれが肩すかしのような気がしたけれど、外国の人だからそういう性格なのだろうと忘れることにした。
ところが今から思えば、それがミミとの出会いの日となったのだ。