【アップ✨】2026年6月7日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります☕️
初めまして、天川裕司です。
ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。
また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。
どうぞよろしくお願い致します。
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬
【アメーバブログ】
https://blog.ameba.jp/ucs/top.do
【男山教会ホームページ】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【YouTube】(ユメノ記)
https://www.youtube.com/@%E6%98%9F%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%B1%E3%83%A9-v5x/videos
【ノート】
https://note.com/unique_panda3782
【YouTubeドラマにつきまして】
無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、
お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。
基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。
創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪
出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬
でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、
どうぞよろしくお願いします(^^♪
【本日のメッセージ】
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=ODwlS8HVAiM&ra=m
【ブログ】
https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12969668519.html
聖書と讃美歌を閲覧できます。お気軽にどうぞ(^^♪
聖書
『ダニエル書』(第九章一〜一九節)
『ペテロの第一の手紙』(第一章三〜一二節)
讃美歌〜♫
讃美歌188番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=onplvuPQzFs&ra=m
讃美歌257番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=eXaVZy_fFu8
2026年6月7日 礼拝説教 聖書箇所
この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。
ペトロの手紙一1章10節
さて、わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように七十年という年数のあることを悟った。
ダニエル書9章2節
はじめに
「聖書」は、神の霊に導かれた者たちが書き記した「文書」。特別な啓示を学ぶ光栄。
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「この救い」とは、言わば、今なお続いている、キリストの恵みの御業の内にある「救い」。信仰者は、すでに、キリストの恵みによって救われた者でありながら、なお、完全な救いに至る道の中にいる。それは、この意味では、かつての「預言者たち」も同様であった。けっして、「預言者たち」は、単純に過去の人、昔の人ではなく、聖霊によって今なお語っている人々である。「この救い」に「ついて」とは、「この救い」の時を「超えて」「向こう」でとも訳される。じつに、「預言者たち」は、「主」なる神の召命と霊の導きにおいて、今を生きる「わたしたち」に「向かう恵み」を「あらかじめ語った」。しかも、「探求し、注意深く調べた」とは、絶えず「探求し、注意深く調べ続けた」結果である。使徒ペトロにとって、「預言者たち」の声を聞くことは、神の言葉(悔い改めに至る啓示)を「探求し」続けること。それは、不断の祈りにおける探求。
聖霊降臨の日には、預言者ヨエルの言葉をもって語り出し、ダビデを預言者と呼んだ。それは、聖霊に導かれれて、十字架にかけられたイエスをキリストと証しする神の言葉の実現を信じ、探求し続けた結果である。エマオの途上で、主イエスは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちたちの言ったことをすべてを信じられない者たち」(ルカ24章25節)と嘆いた。が、復活の主に見え、聖霊の恵みによって変えられ、回心した、使徒たちは、大胆に、預言者の声をもって、十字架と復活のイエスを「神がすべての預言者の口を通して予告しておられたメシア[キリスト]の苦しみ」(ペトロ:使徒3章18節)、「この人こそ神の子」(パウロ:使徒9章20節)と証しした。
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「預言者たちは」、何を調べたのか。それは、「自分たちの内におられるキリストの霊」が、「キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、」「それがだれ(もしくは「何」)を、あるいは、どの時期(もしくは「状況」)とを指すのかを調べた」。主イエスご自身、先の言葉に続いて、「メシア[キリスト]はこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と問いかけられた。「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書いてあることを説明された」(ルカ24章26,27節)。
キリストの教会は、「使徒や預言者という土台の上に建てられて」(エフェソ2章20節)いる。「そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿」「キリストにおいて」「共に建てられ」「霊の働きによって神の住まいとなる」(同21、22節)。使徒の「教え」(神の国の到来と悔い改めを告げる福音)と、預言者の「探求」(主の臨在における悔い改めに至る祈りと啓示)が一致するのは、ただ、キリストの苦難を証しするゆえ。
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ダニエルは、捕囚の地バビロンで、「文書を読んでいた」。この「文書」は、預言者エレミヤの書であり、そこに「エルサレムの荒廃の時が終わるまでには」「七十年という年数があることを悟った」。ダニエルにとって「年数」を知ったことは、「主なる神への祈り」と「罪の告白」に導かれることであった。預言者の言葉を読むことも、主のみ前に祈ることも、必ずしも、即、神がいつも答えておられるという実感に結びつくものではない。むしろ、ダニエルは、自分と民の不信と不義ゆえの隔たりを覚えながら、「わたしの神よ、御自身のゆえに、救いを遅らせないでください」と懇願する。このダニエルも、主の啓示を幻において見た、「主の」預言者であった。
おわりに
今、わたしたちは、神の言葉として「苦難と栄光」の主イエス・キリストを証しする「使徒と預言者」に聞く。ここに、まことの神の力と恵みを知る「救い」と「祈り」の道がある。
(Mynote)
二〇二六年六月七日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『スコットランド教会新カテキズム』
「第五の戒めでは、何が禁じられて居ますか。」
「私たちの上に立てられたすべての人達への、あらゆる罪深い不服従と不敬虔な態度です。」
両親を始め、目上の人を信仰に於いて正しく敬う事、即ち愛する事が教えられる。全ての人がこの事を守る事が出来れば、罪による悲しみ、苦しみは無い。その悲しみ、苦しみがあるのは人の罪の為で、各自が先ず自分の信仰について神様とイエス様の前で反省し、思い当たる自分の罪を悔い改める必要がある。この事は聖書の時代から現代まで変わらずそうである。
(公同礼拝)
『ダニエル書』(第九章一〜一九節)
『ペテロの第一の手紙』(第一章三〜一二節)
聖書とは、いわゆる書物である。預言者と使徒が書き残した書き物である。そこに記された内容を、先ず信じるか信じないか、が信仰に於いて問われる。これは他人を介さない各自の問題に在る。
上記を踏まえて、聖書には「真実の救い主であるイエス・キリスト」の事が明確に記されてある。この事を読み、知った上で、この事を先ず信じるか信じないか?そして同じく聖書に記された全ての内容、御言葉を、信じるか信じないか?この「信じる」と言うのは即ち「知る程に信じる事」に在る。人として、人の常識に於いて「その事を知って居る」と言える程に信じる事、その様に信じる事が出来れば、全ての人はその聖書に記された事を大事に取り、この現実に於いてメインに持って来て、生活の一部として内容を取り込み、詰り聖書の内容(神様とイエス様が全ての人に教える事)を実践する様に成る。口で信じても心で信じて居ない為、或いは、幾ら自分で信仰厚く全ての御言葉を信じて御心に沿って生活して居ると思っても、思ってるだけでその実まだ信じて居らず、いざと言う時に人間の常識を取り、人の間で常に注目される物事・決まり事・価値を大事に取り、信仰生活を送る事が出来て居ない場合もある。
イエス様は「自分の十字架を背負って私に付いて来なさい(私に従いなさい)」と全ての人に教えた。苦しみから逃れようとして教会に来たのに、尚も罪人としてそんな苦しみ・つらさを背負わされ、イエス様が経験された様な十字架での苦しみを、ここから又経験せねばならないなんて!と、多くの人は躓く。しかし罪からの救いを祈り願い求める上では、この罪が齎す苦しみ・つらさ(自分が人として願い思って居る理想の人生とは違う人生、罪の人生)を経験し、そこから脱する事、救われる事を経験しなければ、その「罪からの救いを祈り願い求める」事は成就しない。
人の理想は、宗教を自分達の理想に都合好く仕上げる。そこには救いしか無い様に留め勝ちで、何からの救いから…と言う点が漠然として居る事も多い。人生のつらさ・苦しみからの救いとしてその「救い」を形容する場合もあるが、聖書が教える救いはそれではない。この点を信仰に於いて、明確にする必要がある。この点で考える事をやめ、面倒臭くなり、与えられた人生の上でずっと右往左往に躊躇して居る事が人には多いのである。
各自が、自分は罪人である事を先ず認め、神様の前で屈服する処から(上記に繋げる形で)信仰生活が始まるのである。
これ等の信仰に於ける様々な必要点と問題は、イエス様の弟子(十二弟子)にしても、周りに集った預言者や使徒にとっても、かなりハードルの高い必要点・問題だった。だからその点についてイエス様に多くの人が時間を掛けて尋ね、聴き、教えを乞うた。そのイエス様の教えは変わらず、聖書に今日も記されて在る。そこに信仰に於いて必要な事が全て明記されて在るのに、それ等の事を認めず、解らない・信じないと言って居る人達に対し、イエス様は、
「ああ、愚かで心の鈍い為、預言者達が説いた全ての事を信じられない者達よ。キリストは必ず、これ等の苦難を受けて、その栄光に入る筈ではなかったのか」(『ルカによる福音書』第二四章二五節〜二六節)
と弟子達を始め、全ての人を嗜め、励ました。
これはイエス様が十字架に付けられ、三日目に甦った時のエピソードがベースになって居り、あれだけ「救い主は甦り、栄光に入る」事をイエス様が自ら弟子達に説き明かしたのに、弟子達はもうその説き明かしを忘れ、人間の主観・常識に囚われ、その視点・感覚から「三日目に甦られた事」を不思議に問うて居た。預言者の説き明かし・記した事を頭では覚えて居ても信じる事が出来て居らず、飽くまで明確な印を欲しがる上で、「見ないで信じる者は幸いである」とトマスに教えたイエス様の諭しと人の本性を、そのまま踏襲して居る図に在る。
聖書に記された事、即ち、預言者が神様に教えられ記した事を探究する・経験すると言う事は、頭で覚える事に無く、経験として知る事に在る。その点から「知る程に信じる事」が生まれ、その姿勢を以て信仰生活を生きたものにする。
【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/
Table Caffe〜
榎本保郎牧師 ミニ説教1 「まず第一にしなければならないこと」
https://www.youtube.com/watch?v=q0lc_w0zV-I&t=1s
「わたしはよみがえりです。いのちです。」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=7bqAl-LCXzQ
ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop
イエス・キリストの生涯をたどる旅 II (1)
https://www.youtube.com/watch?v=vPB9SBXalPA
ユメノ記
https://www.youtube.com/@%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%A6%E3%83%A1-v5x/videos
(お暇な時にぜひどうぞ)
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サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬




