◆◆悪口
【あの日から5日後の屋上】
「人ってね、自由に見えて全然自由じゃないんだ。自分の価値をしっかりと認識して生きるのと、価値なんか気にしないで形振り構わず生きていくのか。それしかないんだよ」
どちらが正しいのか、どちらが間違っているのか果たしてどちらがマシなのか。そこに明確な基準なんてあるのか。その二つの生き方しか出来ないのか。
答えなんて分からないけど。
「それは、違うと思う。価値とか生き方とかそんなくだらない物の考えなんかで生き方を量ってはダメだと思うぞ」
多少、きつい物言いだっただろうか。彼女の顔が露骨に歪む。「なにも知らないくせに」そう言われた時と同じ表情だ。
だけど彼女は今度はなにも言わない。今の自分は彼女のことを理解している。だって俺と彼女は同じ立場で同じ悲しみを分かち合っていた仲なんだから。
「そうかもね。君と平津さんは少なくとも価値も認識していないし、形振りも構っていないものね。どっちにも異ならない新しい生き方。羨ましいね」
そんなことはない。なんて軽はずみな事は俺にも言えなかった。代わりに目を逸らして、別のことを考える。
今の幼児化してしまった平津姪菜にはこの世界はどう見えているんだろう。そして俺の事は一体どう見えているのだろう、と。
「私にはそういう生き方が出来なかった。ときどき思う自分がもっとバカだったら良かったのに。って。そしたらもっと上手に生きていけたのに」
生徒会長の日向の瞳から流れる涙は夕焼けのせいで輝きどうしようもなく美しかった。
◇◇◇
【あの日まで後4日】
頼むから早くしてくれと俺は心の中でそう何度も言葉を反復させていた。軽蔑した視線。側を通る度に起こるひそひそ話。そういった重圧に耐えながら俺は姪菜を待っていた。
「やっぱり教室で待っているべきだったのか。いやだけどそれはダメだろ。平津を一人にするなんて歩く時限爆弾放置するようなもんだ。気持ちが落ち着かねえ」
昼休み。俺はトイレに行きたいという姪菜に付き添い女子トイレの前で彼女の帰りを待っていた。しかし5分、10分経っても彼女が出てくる気配がない。女子ってこんなトイレ長いのかよ。改めて男で良かった。
第一教室にはいたくない理由もある。どうやら姪菜の様子に違和感を持っていた生徒達が独自の調査をした結果、先生を問い詰め、俺と姪菜は恋仲でそういうプレイをしていると答えたらしい。
おかげで教室での俺の立場は『変態』である。つーかなに生徒の機密情報漏らしてんだあの年増。先生失格だろ。虐め推薦ってことでPTAにでも訴えてやるか。
「けいた? どうしたのそんな怖い顔して」
「うわっ。いきなり話しかけんなよ。ビックリするだろ」
トイレの入り口からひょっこり顔を出し俺に疑問を向ける姪菜に嘆息する。とりあえずトイレから離れよう。半ば放置ぎみに早足でトイレから離れる俺を犬のように後ろから姪菜が追いかけてきた。
「ねーねー!けいた聞いてよー」
「あん? どうした? 」
俺の肩をポンポンと叩いた姪菜に顔を向ける。彼女はその光景を思い出す様に語り出した。
「今トイレに行ってたんだけど女の子がいっぱいいたんだよ」
「普通じゃねえか。むしろ男がいたらビックリするぞ。特に姪菜は真っ先に悲鳴を上げろよ。危ないから」
「うん。そしたらけーたが真っ先に助けにきてくれるもんね」
人を正義の味方みたいに言うな。そんな価値観を上げられてもこっちとしては困る。でも、そんな純真無垢な笑顔を向けられたら否定できるわけもなく
「それで、なにかあったのか?」
咄嗟に話題を変えた。肯定も否定もしない。それでいいのだろう。誰も傷つかない全うな方法。生きてきていつの間に身に付けてしまった方法。
『あんた気に入らない。卑怯もの。結論を決めようとしない。勝負することから逃げてる。誰かと争うことが嫌いなんでしょ? あんたは人が嫌いなんでしょ私は他人に流されるだけのあんたが嫌い』
なんて昔に言われた事を思い出した。発言者は今俺の隣を陽気に歩く女なのだが。だけど俺の考えは変わらなかった。
楽しんだりするのは悪いことじゃない。だけど一緒になって悲しむ必要もない。俺はそこまでの人間関係は求めていない。付かず離れず。それがモットー。何度も喧嘩しながら関係を続ける恋人同士なんて正直バカだと思うし。
「んーとね、集団で洗面台の前で女の子達が固まってた」
「化粧とかそんなんだろ。化粧なんかしたって心のどす黒さなんか消えないのにな」
「違うよ。っていうかけーた女の子嫌いなの? そうじゃなくてなんか凄い怖い感じだったの? 怖くて私会話聞いてて動けなくなっちゃって」
光景を鮮明に思い出したのか、話を終えると姪菜は俺の手を握ってきた。振りほどこうとは不思議と思わなかった。
「それで?」
この段階で俺はなんとなく会話の内容が分かったが俺は姪菜に続きを促す。
「うん。『あいつマジむかつく』とか『ちょっと頭がいいからって調子のんな』みたいな事をずっと言ってたんだよ。怖いでしょ」
「ようは陰口か。まぁ女子の間なら普通なんじゃねえの? よく分かんないけど」
それが当たり前なのだ。年を取れば人間は学習していく。悪口を本人の目の前でなど言わなくなる。それが大人になるってことなんだろう。皮肉だけどな。
「普通じゃない」
それはとても力強く姪菜が言った言葉だった。幼児化した姪菜が初めて気持ちを込めた一声だった。
「普通じゃないよ。悪口を言うなんてそんなの当たり前じゃないよ」
手を握る力がつよくなった。そうだ。そうだよ。俺はバカだ。なにが悪口を言うのが当たり前だ。ふざけんな。そんなの全然当たり前なんかじゃなかった。
当たり前ではないことが当たり前に起こると人はそれを普通だと認識してしまう。全く恐ろしい話だ。まさか今の姪菜にそれを教わるとはな。
いや素直な心を持った子供の姪菜だからこそ気づけた観点か。いやはやこれは俺も謝らなくちゃいけねーよな。
「ごめん。軽率だった」
「許す。けいただから」
けいただからって理由で許されていいのだろうか。まぁいいか。
「誰の事で悪口言ってたとか分かるか? いや分かんないよな。姪菜はまだここの生徒のこと把握してないし」
「うん。でもね。『生徒会長だからって偉そう』とか言ってたよ?」
姪菜の返答に俺の足はピタリと止まる。本当に自然と止まってしまった。気持ちに反して体が言うことを聞かない。
「本当かよ?」
「うん。生徒会長って前に話した人だよね」
不安げに話す姪菜に俺は首を縦に振った。
「まずいことになったな」
どうやら悪口の対象は生徒会長の日向らしい。
何故だろう。ただ席が隣でたまに会話するだけなのに。
こんなことで胸がざわついてしまうのは。