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09 恋⑥

   ◇




「つまりですね、カントはそれまでの経験的な認識の捉え方を批判して、アプリオリな思考枠組みを――」

「うがぁ、わからん!」


 先輩は『純粋理性批判』を投げて、五本目くらいのお酒を煽った。わたしはもうお腹の底から笑いながら、カント云々の綴られたウェブページを閉じる。


 今日一日で換算すると、先輩はどれくらい飲んだのだろうか。人体における一日の許容摂取量はとっくに超えていそうだが、とにかく酔った勢いでカントを読んでわかるはずがない。


 わたしはまだ二本目なので素面に近いが、これでもカントは何言っているのか理解できないのである。本当、アルコールが入っていない状態でもさっぱり。なぜ『純粋理性批判』なんぞ読もうと思ったのか。


 時刻は二十三時を回っていた。わたしはお茶とお酒を交互に飲んでいるので二本目で済んでいるが、先輩は酒ばかりかっくらっているのでどうしようもない。そろそろ倒れるのではないかと戦々恐々の心持ちだが、まだ会話はできるので脳は動いていそうだ。強いお酒を入れいていないからかもしれない。


 今日わかったが、先輩はけっこうな酒豪らしい。さすがにカクテルみたいな度数の高い酒を浴びるように飲めば潰れてしまうが、五度くらいのお酒なら冗談ではなく「ジュース」なのだろう。ただ、きっと先輩の肝臓は今日一日で一か月分の仕事をしている。それは紛うことなき事実だ。


「はぁ……」と、先輩はうなだれている。「あたま冷やそ」


 ちいさなバッグをまさぐって、煙草とライターを取り出すと、窓を開いてひとりベランダに出ていく。


「さむっ」と叫びながら、がたがた閉める。


 煙草か。あの煙草は、だれに教わったのだろう。お兄さんはお酒好きだが喫煙者ではないはず。だったら、あぁ、きっと例の男だろうなと思って、ちょっと笑えた。先輩は去年も飲んでいたが吸ってはいなかったはずだし、あの男で煙草を知ったなら辻褄が合う。


 気づくとわたしは立ち上がっており、あとを追ってベランダに出ていた。容赦のない極寒の針が全身を突き刺して、泣きそうなくらい痛かった。靴下の裏で凍ったような床を踏みつけて、出てくるんじゃなかったなと素直に思った。


 暗闇に向かって紫煙を吐いていた先輩は、わたしが出てくるなりにやりと笑って、「吸う?」と箱を差し出す。吸いませんよ、とだけ断って、欄干に体重を預ける。ぎしし、と不安な音を立てたけれど、もちろん杞憂だった。


「今日はありがとね」と、先輩はいった。焼ける煙草の先端が、暗がりの中で蛍のように揺れた。わたしはかぶりを振って、


「気にしないでください」と笑う。「ここに遊びに来るの、ひさしぶりで、けっこう楽しかったですし」

「やさしいねぇ、いつきちゃんは。損するタイプ」


 冗談めかして、煙を吐いて、室外機のうえに置かれた灰皿にとんとんと灰を落とす。彼女のその小慣れた所作に、なんとなく憂いを抱く。今日一日を切り取ってみると、あまりに早死にするだろうに、生活習慣病発症のお手本みたいな生活だった。


 わたしは呆れ気味に頬杖をついて、深い闇色の空を見上げた。町を飲みこむような暗い夜空に、丸い月がくっきりと浮かんでいる。


「今日は満月だったね」と、横で先輩がつぶやいた。「今年最後の満月か」

「きれいですね」

「うん」ふぅ、と吐く。「すごくきれい。煙草やめようかな」

「脈絡ないですね……」

「まずいんだもん、だって」

「じゃ、なんで吸ってるんですか」

「さぁ。呪いかな」

「はぁ」


 夜風が吹いて、わたしたちのからだを真っ直ぐ劈いていった。肩を縮ませながら、わたしは「そういえば」と、なんとなく訊いてみる。


「どうして相談してくれなかったんですか」

「うん?」

「彼氏のこと。話ぐらい聞いたのに」


 本心だった。男の話はあまり聞きたくなかったけれど、だからといって今日、事後報告的に「実は悩んでました」といわれたのは寂しい。我ながら、ずいぶん身勝手である。


 先輩はかすかに唸って、困り顔のまま笑みを浮かべた。それで、灰を、また灰皿に落として、


「たしかに、そうなんだけど」と前置いて、「でも、いつきちゃん、ずっと反対してたでしょ。あたしがあいつと付き合ってるの」

「そんなこと……」首を傾げる。「いいましたっけ、わたし」

「いってないけど、わかるよ。わかってたよ。あたしが彼氏の話するたび、呆れたような、困ったような顔してたもの、ずっと」


 だからね、と先輩は一拍置いて、続ける。


「いざ相談したらさ、そら見たことかー! みたいなこといわれそうで、情けなかったんだよね」

「いいませんよ、そんなこと」


「うん、いわないと思う」先輩はくつくつ笑って、「本当はね、いやだったんだ、巻き込みたくなかったの。あたしのしょーもない悩みに、いつきちゃんを付き合わせたくなかったし……なにより、こんなしょーもないことで病んでるあたしを、見せたくなかった、んだと思う。


 白状するとね、わかってたんだ、あいつにとってあたしはセックスの附属品で、からだしか見られてなくて、これは恋愛なんかじゃないんだって。でも、逆にあたしだけはちがう、あたしは愛されてるんだって、そういう幻想を見てもいた。騙されてるのに、気づかないようにして、恋をしようと思った。それで、馬鹿見て、今日みたいになってんだからさ……あんまり、見せたくなかったんだよね、いつきちゃんには……」


 夜空に溶けていく煙は、脳を焦がすにおいがした。先輩は伏目がちに、乾いた笑い声を震わせて、


「ごめんね」といった。「見栄張ってたんだ、あたし。これでいちおう、()()だから」


 頭を下げてほしいわけではなかった。先輩に謝られたって、わたしは返す言葉がない。


 それでも。わたしはどこかで救われた気持ちだった。


 わたしは、たぶん、先輩にとって。


 きっと、特別でいられたのだろう。


 いままでも、ずっと。


 だったら、もう、それだけで報われているのだ。


「大丈夫ですよ、先輩」わたしは穏やかに、言葉を紡げる。「わたしは控えめで、物わかりのいい後輩ですから」

「ふふ」先輩は若干声を弾ませて、「そうだね。いつきちゃん、そういう子だった」

「それに、なんだかんだで、ぜんぶ話してくれましたから。それだけでいいです、わたし」

「そりゃそうだよ。もし別れたら、真っ先に話すつもりだったから」


 灰皿に火を潰して、先輩はいつもみたく屈託のない笑みを浮かべる。そうだ、と思った。わたしが恋したのは、この笑顔だ。




「シャワー浴びて寝ちゃうか。明日も大学あるし」


 暖房の効いた部屋に戻るなり、先輩は伸びをしてそういった。で、存外しっかりした足取りで部屋を歩き、風呂場――ではなく、お兄さんの部屋に入る。


 レパードの様子を見に行ったのだろう。わたしも覗いてみる。


「最近、寂しい思いをさせがちだったからね。本当に寂しかったのかは知らないけど」


 それから先輩は目視でケージの点検をして、問題なかったらしい、「よし」と呟くとまたリビングに戻った。


「いつきちゃんもシャワー浴びるでしょ? 着替えどうしよっか。あたしの着れるよね」

「うーん……入りますかね。胸のあたりとか、とくに」

「生意気いってんじゃねーよ」


 ふたりして笑う。先輩はベッド下の収納で服をさがしながら、ちょっとだけ間を置いて、やんわりわたしを振り返る。


「ねぇ、いつきちゃんってさ。すきなひととか、いるの」

「うん? いますよ。先輩です」

「ふふ、知ってたけど」手を止めて、またわたしに背を向ける。「面と向かっていわれると、恥ずいな」

「うわ、気づいてたんですか? サイテーですね」

「言葉キツっ」


 シーツの上に、服を二セット並べている。わたしはそんな先輩の背中を見つめながら、「でも」としっかり唱えた。


「でも、今日できっぱりあきらめます、先輩のこと。わたしはずっと、先輩のことがすきでしたけど……そういうの、今日で終わりにします」


 聞いて、先輩はくつくつ笑う。救いだった。冗談めかしたように、


「えー、それ、なんか、あたしがフラれたみたいじゃない?」

「ふふ、そうですよ。わたしがフッたんです、わたしが」

「一日に二度もフラれちまったよ……」


 と、着替えを一式渡される。


「先にいいよ。下着まで貸してあげる」

「ちょっと屈辱的ですね」

「おい」


 肘で小突かれた。笑いながら、逃げるように脱衣所へ駆け込む。


 しんと冷えた脱衣所で、わたしは穏やかな心持ちのまま裸になる。末恐ろしいほど凪いだ心境は、いつかの恋の高鳴りを拭い去って、やさしかった。風呂場に入り、すぐにシャワーで髪をすすぐ。


 永遠のなか、毛先のずっと先端まで清めるように。


 こういう場所で流す涙なら。


 神様だって、赦してくれると思う。

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