08 恋⑤
◇
テーブルに積みあがった本を先輩はどっさりと抱えて、すぐ床に下ろす。本の山ができて、しかしやっつけで重ねたからあっさり崩れて散乱した。そういう雑の積み重ねで汚くなるんですよ、と部屋を見回しながらいってみるが、どこ吹く風といったようすで、
「酒だ!」と冷蔵庫に駆け足で向かう。
「本当に飲むんですか?」わたしはコンビニ飯を広げながら、「ほどほどにしてくださいよ。早死にしちゃいますから」
「骨は鞆の浦に撒いて」
「あぁ、それいいですね。わたしもそうしてもらおうかな」
先輩はお酒を片手に、にやついた顔で戻ってくる。まず選んだのは、五度のイチゴサワー。で、どっかとベッドに腰かけると、その勢いでパシュッと封を切る。
「死んだらふたり、海の底だね」
先輩はお酒を一気に煽る。やはり無茶な飲み方である。わたしはサラダの蓋を開けながら、なにかあったら119、と心のなかで念じた。
「五パーなんてね、ジュースだよ」
言い捨て、缶を置く。それから柿の種に手を伸ばして、いそいそとパーティー開けにした。一粒もらう。
「お酒、そんなにおいしいんですか」
「なに、飲む?」
「だから、飲みませんって」
「まじめだなぁ。わたしは中学のときから兄貴と飲んでたけど」
「お兄さんも、アウトローですよね。いまどこにいるんですか」
「たしか……フランスに赴任してるんだったかな。子持ちの未亡人と暮らしてるって」
「はぁ」と、箸がへんな割れ方をする。「あ、へたくそ」
「芸術的だね」
指を鳴らして絶賛される。片方がトンカチの形になって、割ったというより折ったような割箸だが、酩酊するとアーティスティックに映るらしい。
「その、なんですか、未亡人っていうのは……」
「うん」
「国境を越えた恋とか、そういう」
「あー、どうなんだろ。兄貴のタイプはネパール人だけど」
「ネパール」
「でもヤってるよね、確実に。行く先々で女つくってるし」
「相変わらずですか」
先輩のお兄さんはかなりデキるひとで、仕事で海外を飛び回るなんてザラである。しかしそのぶん欠点があって、どうしようもないプレイボーイだ。
ふつうにしていれば気さくな、感じのいい好青年という印象を受けるし、きちんと良識もある(というのは、未成年に手を出さないとかいう最低限の話だが)。だから、だと思うが、それなりにモテてしまって、しかも誘いを断らないから、あまたの国で女の子としょっちゅう遊んでいるらしかった。
「あいつはまぁ、女の敵だね、うん」先輩は笑いながら、お酒をひとくち含む。「よく仕事できてるよね、ほんと」
「フランスですしね」
「しかもパリ。花の都」
それから、先輩はちょっと真面目な顔になって、
「兄貴のすごいところはね、禍根を残さないところなんだよ」とため息をつく。「これがマジでね。いまでも付き合ってた女の子全員と仲がいいし、たまに連絡くるし……ふつうだったらどこかの国で刺されてるけど、いまだにピンピンしてるしね」
「まぁ、恨みは買いそうなもんですよね」
「結局、お互いにとって〈遊び〉のラインを引くのが上手いっていうか。そういうところなんだろーね。ちゃんと笑ってすませられる落としどころがわかってるっていうか。それが善いか悪いかは別にして」
でも未亡人はさすがにな、と先輩はまたお酒をひとくち飲んだ。で、ぼんやり写真立てを――わたしが動かしたせいで明後日の方向を向いている――見つめて、ベッドのうえで膝を抱えた。
わたしはサラダを軽くつつきながら、そのようすを観察しようと試みた。写真立てを直すわけでもなく、先輩はとろんとした目で見つめるまま、動かない。いたたまれぬ気持ちになる。
結局、耐えきれなくて、「だいたい想像つきますけど」と口にする。
「どうしてフラれたんですか、そいつに」
「ん、あぁ」先輩は苦い笑みを浮かべて、「鬱陶しいっていわれた、ふつーに」
缶に口をつけて喋ったせいで、くぐもった声。微妙に傾ける。華奢な喉がうごく。かたり、とテーブルに戻す。
「知っての通り」先輩は無理にトーンを上げて、「女癖が悪かったんだよね。いや、そりゃもう、さんざん。三か月くらい前かな。どうやら浮気しているらしいぞ、ってのは気づいて。会えないし、返信遅くなるし、たまに一緒にいても誰かとラインしてるし、ていうかデートもホテルに直だし……で、あいつがシャワー浴びてるあいだに通知見たら、女の子だし。だから探したんだよね、その浮気相手」
「……」サラダがまずくなってきた。「……それ、見つかったんですか?」
「同じ学科の四回生」
「うげぇ」
「ほんと、『うげぇ』って感じ。まさかね、まさか同じ学科とは思わないじゃん。せめてバ先の女の子とかさ。学内にしてもちがう学部とかさ。浮気してるっつっても、わたしのまったく関係ないところでしてると思うじゃん。マジでびっくりして。で、まぁ、学部の友達に協力してもらって証拠を集めてね、今日の朝、問い詰めにいったんですよ!」
そしたらさぁ、と先輩は語気を荒げて、声を低くし、
「『鬱陶しい、別れようぜ』って……ふざんけんなよぉ!」
いきなりお酒をひっくり返して、写真立てにぶっかけはじめた。
「ちょ、ちょっと、先輩っ」
「もうほんとやだぁ……」
「タオル、タオルどこですか」
空っぽになった缶を放って、先輩はベッドに倒れ込んでしまった。仕方ないので探して、洗面所からハンドタオルを一枚持ってくる。
不幸中の幸いというか、残っていたお酒はそれほど量がなく、だからぶちまけられたイチゴサワーは悲惨な状況ではなかった。テーブルから滴り落ちてブラウンのカーペットにも染みているが、これはもともと色がついているのでいうほど目立っていない。
とにかく拭き取って、きれいに片付けてしまう。写真以外に汚れたものは見たところなさそうなので、ほっとしてタオルを洗濯機に放り込んでくる。
「先輩」
と、ベッドでうつぶせの姿に呼びかける。こもった返事が聞こえる。隣に腰を下ろす。
「……」
声をかけようにも、言葉が浮かんでこなかった。時の流れが空中分解して、永遠とも思えるような、夜。しんと静まり返った部屋のなかで、わたしは先輩のそばにいる。すこし虚しい。
やがて先輩は横向きになって、わたしの腿に背中をあずけてきた。いつもは飄々とした態度の先輩が、幼子のように背中を丸めて縋ってくる。うれしかったし、反面、かなしい。わたしがいま、ここにいられるのは、すべて見知らぬ――先輩の処女を奪った男のおかげだった。
それでも、と思う。わたしはしあわせだ。
だから、今日で、こんな恋は終わりにしよう。
先輩は、
「どうすればよかったのかなぁ」と、つぶやいた。「ねぇ、どうすればよかったと思う、いつきちゃん……」
そんなの、決まってる。
わたしを、すきになればよかった。
わたしなら、あなたを泣かせたりしなかったし、いまみたいに酒に溺れさせたりもしなかった。
あなたが会いたいときにはすぐ会いに行ったし、きちんとすきだと言葉にできた。
からだではなく、あなたを見つめられた。
浮気なんてしなかった。
……
血で染め上げたような写真が、まだ健気にも写真立てに収まっている。
「……飲みますか」
「え?」
わたしは冷蔵庫までさっさと歩いて、勢いよく開けると、とりあえず甘そうなお酒を二本選んだ。どちらもひっくり返されたイチゴサワーと同じブランドで、肝腎のフレーバーはキウイとライチ。わたしはキウイが苦手なので、そっちを先輩の前に置いて、こんどはクッションに座る。
「先輩には、まだアルコールが足りてないんです。もっと飲まなきゃダメなんですよ」
「え、え」上体を起こして、先輩の目は赤く腫れている。「なに、どうしたの急に。いつきちゃんも飲むの?」
「ジュースなんでしょう?」
わたしは肩をすくめて、先輩の丸い瞳を見つめた。宇宙よりずっと黒く、果てしなくて、艶やかな瞳。それが途端に輝いて、先輩は泣き笑いして、
「だいすき、いつきちゃん」
わたしも。
わたしも、すきだ。
だいすきだ。
「冗談はいいですから」手元のライチサワーに視線を落とす。「さっさと乾杯しましょうよ。じゃないとわたし、気が変わりそうです」
「それは困るな」
わたしはタブに人差し指を引っかける。ぐっと力を込めたら、案外さっくり開いてしまって、空気の逃げる音が響く。
「はじめてのお酒だね」
「まぁ」わたしは苦笑する。「ぜんぶ忘れちゃいましょう」
缶を掲げる。気分を持ち直したらしい先輩は、こんどは芯から明るい声で。
もちろん、わたしだって愉快な気持ちで。
「乾杯」
と、薄っぺらなアルミ缶をぶつけた。