07 恋④
◆
思い出したくない記憶が多すぎる。高一の冬は、とくに。
体調を崩したいもうとの世話に追われ、やつれていた――というだけなら、簡単である。手いっぱいで、苦しくて、なにをするにも無力感に打ちひしがれて、わたしは結良のためになることをひとつもできない。ある日は熱を出して寝込んだかと思えば、翌日にはいきなり起きて、ぷつんと、まさになんの前触れもなく暴れ出すいもうとに殴られて、いくつも青あざをつくる、というようなことが数えきれない。それでも、結良の、母を喪ったという半身を捥がれるような気持ちを思えば、こんなものは大したことではなかった。すくなくともそのときは、そう思っていた。
でも、しかし、半身を捥がれたのはわたしも同じだった。
結良のおかあさんは、わたしにとっても大事なおかあさんで、初めて愛せたおかあさんだった。わたしの実の母よりずっと彼女は「おかあさん」で、だからだいすきで、愛しかった。
そんなおかあさんが死んだ。
闘病虚しく、あっけなく死んだ。
思い出せない。思い出したくない。わたしも泣きたかった。だれかに心のうちから湧き出てくる衝動をぶつけたかった。暴れ出したかった。それでも、わたしはおねえちゃんだったから、泣かずに結良のそばにいないと。しゃんと立っていないと。
あのころ、どうしてわたしはそんな無茶ができたのか。
いまでも不思議だけれど、だからってどうせ、完璧にはできていなかった。
わたしに片思いしていたあの子に、あんなひどい言葉をいったのだから。
わたしはクズだ。
最近こうして、都度、記憶の封を切っているのは、どうしてなのだろう。まるで飽きない自傷みたく、奄々と脳を刻んで倦んでいるのは。
でも、もし、すっかり記憶を呼び起こせたなら。
わたしはもうすこし、わたしをすきになれるのだろうか。
◇
すでに二十時を過ぎていた。
歌集をすっかり読み終えてしまって、いよいよ『マンキュー経済学』に入門して経済学徒になろうとページを繰っていたころ、寧々先輩はやっと目を覚ました。
といっても、ぱっちり起きたわけではない。むくむくとからだを動かして、とろんとした目でわたしを見ると、
「あれ……」舌足らずな口調である。「なんでいつきちゃんがいるの……」
「うーん、むずかしい質問ですね。どこまで記憶ありますか」
「小五の夏……」
「ひとまず学童期から思い出しましょうか。卒アルどこです?」
先輩はくつくつと笑って、ベッドのうえに両手をついて上体を起こした。それから頭痛がするのか顔を歪めて、ごめんけど、と呟く。
「お水もらえる?」
「座っててください」
わたしは経済学の書を置いて、グラスに水道水をついでくる。先輩はそれをゴクゴク飲み干して、「けほっ」と若干むせたら、
「これお酒?」とトボけたことをいう。
「浄水にアルコール入ってるなら、そうですね……」
なんとか言葉を返したものの、表情が引きつっているのが自分ではっきりわかる。このひと、酒で脳が焼かれたのではあるまいか。
「お酒がね、あるんだよ」と、先輩はふらふらと立ち上がろうとする。「冷蔵庫にいっぱい……」
「え、いやいや」わたしはそれを制して、「まさか、まだ飲むとかいいませんよね。止したほうがいいですって」
「賞味期限が」
「何か月前に買ってんですか」
「十年前……」
「それはもう化石ですって」
がはは、と先輩は豪快に笑った。あたまのネジが飛んでいる。
「いやぁ、なんか、たのしいな。ひさしぶりにたのしい」
先輩はまたベッドに倒れ込む。今度は仰向けの大の字になって。
「ちょっと、もう寝ないでくださいよ」
「なんで?」
「帰るんですから、わたし。鍵閉めといてもらわないと」
「えー、帰るの、いつきちゃん!」
がばっ、とまた上体を起こす。さっきから寝たり起きたり忙しいなと思いつつ、わたしは車のキーとスマホをアウターにしまって、
「もちろん、帰りますよ」と立ち上がる。「愛しのいもうとが家で待ってるので」
「愛しの先輩もいるだろぉ」
「うーん、だれのことだろうなぁ」
「いつきちゃーん」
アウターの袖を軽く掴まれて、ぶんぶんと振りまわされる。わたしは呆れ半分、たのしさ半分で、
「もう、勘弁してくださいよぉ。なんだかんだで二時間以上待ったんですからぁ」
「あはは、じゃあもう二時間いられるでしょ」
「じゃあって、どういう計算なんですか……」
あと二時間もいたら二十二時を回ってしまう。その時間から車で帰るのは、さすがにだるい。
まだ先輩はわたしの腕を振りまわしている。わたしにはこれがうまく振りほどけない。かなり脱力して、なんだかため息まじりに、
「ていうか」と、思っていたことを訊いてみる。「どうして今日、そんなに飲んでるんですか? それも結構早くから……」
「あぁ、それはねぇ」先輩は、ぴたりと腕を振りまわすのをやめる。「え、いいの? それ訊いちゃったら、もう帰さないよ」
「いや、帰してくださいよ」
「朝帰り確定コースだぜ」
「いますぐ帰りますから」
「彼氏にフラれた」
「……」
「彼氏にフラれた」
二度も軽いトーンでいうと、先輩は自嘲気味に肩をすくめた。
彼氏にフラれた。
短い言葉。文節としてはふたつ。
彼氏に/フラれた。
わたしの脳内でリフレインする。
額に手を当てる。
「……………………」
長い沈黙のあと、わたしは「はぁ」とため息をついて。
「お」
と、先輩が目を輝かすのを横目に。
ゆっくりと。それはもうゆっくりと。
クッションに腰を下ろす。
「おー!」先輩が両手で万歳をした。「今日は飲み明かそう! 朝まで!」
「飲みませんよ。わたしまだ十九ですから。お茶とかないんですか?」
「ないよ。お酒ばっかり」
「……」絶句。「あー。じゃあ、隣、コンビニでしたよね? なにか買ってきます。ついでに夕ごはんも」
「わたしも行く」
先輩は鉄が熔けたようなかわいらしい笑顔をする。で、かばんを漁って財布とスマホを持つと、準備万端というふうに立ち上がった。
出発する前に冷蔵庫をふたりして確認する。本当に発泡酒ばかりだ。ざっと見て十本は保管されている。酒に飲まれた大学生のこれは末路といったところだろうか。とはいえ発泡酒一辺倒というわけではなく、いちおう、ワインも一本ある。
「前はこんなじゃなかったですよね」
「ここ一、二か月かな。メンタルやられてて」
先輩の言葉を深くは追求せず、とにかく夕ごはんを買いに出る。仔細はあとで訊けばよい。いま必要なのは、気が飛ぶほど長くなりそうな夜をこえるための、かんたんな下準備だ。
エレベーターに乗り、
「財布」と、わたしがいう。「車に置いてきてるので、取ってきますね」
「どこに停めてるんだっけ」
「裏手のコインパーキングです」
「あぁ、うん。いいよ、別に。コンビニくらいおごるよ」
「いいんですか」
「駐車料金も払うよ、さすがに……」
「明日になっても」一階に着く。「覚えててくださいね」
「自信ないな」
ぐっと冷え込んだ夜。寒さが身に沁みて、喉のあたりが透きとおるような感覚がある。ふたりしてさっさとコンビニに逃げ込む。
先輩のおごりだから、高いものを選んだ。とはいえ、たいして食欲はなかったので、軽いサラダと高めなトクホのお茶を数本買ってブルジョワぶったていどである。それも人のお金でぶっているから、完璧にカタチだけ。あとついでにシュークリームもカゴに入れた。
先輩はチーズと柿の種、あとその他もろもろの手ごろなつまみを。それから店のなかをふらふら歩いて、歯ブラシなど日用品を取る。わたしのだという。
「コスメは……」
「あぁ、ないですね」
「もしコンビニのでよかったら、選んできて」
「うーん」いよいよ気が引けてきた。「車から財布もってきます」
「気にしなくていいよ。お金はあり余ってるから」
「なら叔父さんにツケないでくださいよ」
「親父が払ってくれるよ」
取り急ぎ、最低限のセットを揃えた。ちなみに、先輩は家族のことを親父・おふくろ・兄貴と呼ぶ。むかし観た不良ドラマに影響されて、いまだにクセが抜けないという。
会計を終える。これで準備は整った。急ごしらえで雑に間に合わせた感は否めないが、突発的な宅飲み(なお、飲むのは先輩だけ)なので仕方ない。さっさとコンビニを出る。
またエレベーターに乗り込んで、今度は四階までガタゴト上昇していく。先輩はずっと上機嫌で、赤らんだ顔のままずっとしまりのない笑顔を浮かべている。わたしはいもうとに連絡して、「朝帰り確定」と送った。即、既読。ギリギリかわいいキャラがクラッカーをぶっ放しているスタンプ。
ごめん、結良。たぶん想像しているのとは百八十度ちがう。
心のなかで苦笑しつつ、スマホをしまった。エレベーターは四階に止まる。けったいな音を立てて扉が開く。
◆
先輩を意識しはじめたのは、いつだったか。きっと、先輩に彼氏ができた、そのあとのことだ。こと明確に、このときから、とはっきりさせるのは無理だけれど、いつのまにやら、すきだった。
どうしてすきになったのか、と訊かれると、これもむずかしい。先輩に彼氏ができたこと。それがきっとトリガーなのだろうけれど、それは意識したきっかけであって、すきな理由ではない。
つまるところ、隣にいてたのしかった。大学でも、バイト先でも、なにかと一緒にいることが多くて、その時間がしあわせで、いつのまにか恋になりかわっていた。そういう話で済むのだと思う。
アプローチはしなかった。あたりまえだ。彼氏がいるひとに、ふつう、そんなことはしない。それに、たとえ彼氏がいなかったとしても――打ち明けなかったと思う、この恋は。
叶うとか、叶わないとか、それ以前の話だ。わたしは先輩をすきになったけれど、先輩はわたしに恋しない。だから、なにも起こらない。わたしの慕情はちゃんと無意味だ。
恋を飼い殺しにするのは、けっこうたのしかった。
すきだ、と心のどこかで思いながら、でも報われないから気づかないフリして、わたしは先輩にとっての親友でいた。喉奥の息苦しさと、胸元で広がる甘酸っぱさ。伝えられないまま秘匿する恋は、特別だった。そして、特別な恋が、ゆっくり心のどこかに沁み込んで、そのままシミすら消えたあと、いつか忘れてしまったらいい。そういうあきらめを知りたかった。
それが最善だと思った。わたしは、恋に踏ん切りをつけるとか、そんなことは本当にどうでもよくて――ただ、先輩にとっての親友で――他人よりちょっと特別な、そういう人間になりたかった。
恋は抜きで。
贅沢だ。
あたまから離れない気持ち。
触れたい/触れてほしい
抱きしめたい/抱きしめてほしい
キスしたい/キスしてほしい
飼い殺しにするなら、きちんと首輪をつけるべきだ。だからずっと押し込んできた。いまでもそうだし、これからもそうするつもりだ。
だってこの恋は、絶対に報われないんだから。