06 恋③
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恋なんてものは、ちっとも叶わないくらいが実はちょうどいいと思う。叶えば最善だが、真実に恋が――それも、わが身のすべてを擲ってかまわないくらいの慕情が――報われるなんてことは、そうそうない。だから、結局、叶わないならちっとも叶わないほうが、いい。
高校時代、わたしにずっと片思いしていたあの子は、だれより不幸だったと思う。
どうしてわたしなんかをすきになれたのか。ちょっとわからないが、わからないからこそ恋なのか。どうでもいいが、とにかく、そのころ母がガンで死に、そのために著しく体調を崩したいもうとの世話に追われてわたしは部活をやめた。でも、そうして会う機会がめっきりなくなったところで、彼女はわたしのことをうまく忘れられなかったらしい。
きちんとフラなかったのが悪いのか。それともあの子のあきらめが意外と悪かったのか。原因なんて記憶の箱をひっくり返せばいくらでも出てきそうで、不毛だからやめるけれど、その結果として擦り減るのならやはり不幸だ。
擦り減る。「なにかあるなら力になりたい」という言葉は、たとえどれだけ本心に満ちていても軽々しく口にすべきではない。一年次の、二学期が終わるころだったと思う。放課後の廊下で急いでいたところに彼女と出くわして、わたしは面食らった。かなりひさしぶりの再会だったはずだが、部活に出ていたころからずいぶんギクシャクしていたわたしたちは、まるで初対面みたいによそよそしいあいさつをする羽目になった。
最近どう、と訊かれる。どう、と訊かれても返事に窮するばかりである。どうってことないよ、と答えるほかない。そんな返事に彼女はぎこちない作り笑いだった気もするが、それでも信じてくれたらしい。とにかく、「それならよかった」と微笑んでくれる。
心配してたんだよ。そのころ何度聞いたかわからないセリフを、彼女もまた例にもれずすらすらいう。親御さんが、妹さんが、おうちのことは……ありがたいけれど、だから面倒くさい。わたしは早々に切り上げたくて、なにより急いでいたから半ば逃げるように会話をまとめて、
「じゃあ、わたし行かないとだから」
かなり強引に立ち去ろうとする。「うん、そうだよね、そうだったよね」と、彼女も引き下がってくれる。きびすを返す。日が暮れかけている。毒々しい紫色の空が世界を夜で犯そうとしている。
数歩行って、
「待って」と、いきなり腕を掴まれた。驚いて振りかえると、どこか怯えたように瞳を震わせて彼女がひしと袖を掴んでいる。
「あの、ご、ごめん」小刻みに声が震えている。「いつきちゃん」
「なに?」
わたしはどんな口調で訊き返したのだろう。覚えていない。冷たいトーンだった気もするし、思いのほか穏やかに訊ねた気もする。どちらでも構わない気もする。
「あんまり時間ないんだけど」
「うん……」
「そっちも部活あるんじゃないの」
「うん」
「うん、じゃなくて」
わたしは腕を振り払った。彼女はいまにも泣きだしそうに顔をゆがめている。わたしはひどく困惑して、彼女のことが微塵も理解できなくて、腹が立ち、忌々しくて、思わず、
「迷惑、ほんとう」
夕焼けが死に、暗闇が残る。
「意味わかんないし」
「ごめん」
「うざいよ、それ」
「……」
「もうほっといてほしい。同情とかされても鬱陶しいし」
「同情なんかじゃ」
「同情でしょ、かわんないよ。面倒くさい」
「ちがう、わたしは本気でいつきちゃんの力になりたくて」
「本気でとか、力にとか、頼んでないじゃん。わたしがいつそんなこといったの。大丈夫だから。間に合ってるから。そういうのいらないんだって。迷惑なんだって。鬱陶しいんだって。うざいんだって。ねぇ、そんなのどうでもいいの。やさしくしてるつもりなんだろうけど、結局それただの自己満じゃん。いい子ぶってやさしさ振りかざして、ねぇ、それでなにがしたいの。勘弁してよ。逆に怖いんだけど。あのさ、ほんと、なに、なんのつもり、なんのつもりなの、もう関わらないでよどうでもいい! わたし暇じゃないんだから」
「いつきちゃん……」
「どうでもいい。どうでもいいよ、ほんとうに無理……」
凍てついた冬の廊下で、わたしという立体的な構造物がばらけて崩れていく感覚。雪の結晶のフラクタルが自明性を毀損し、月は軌道を喪失する。
掴まれていた袖を見る。細くて官能的な指で刻み込まれた浅いしわが、古い傷跡のように残っている。
「きもちわるい」
と、いった。わたしは彼女の顔を見ずにまた歩き出す。
全身がひっくり返って吐きそうだった。分裂しそうだったといってもよい。頭を割るような激しい頭痛と耳鳴りがして、どうして歩けているのかわからないくらいだった。わたしはばらばらに引き裂かれそうなからだを引きずる。あの子をひとり取り残して、真っ暗な夜の底へおちようとしている。
Ⅳ
部屋まで運ぶと、先輩はすぐさま暖房をつけて、ベッドに雪崩れ込んでしまった。で、突っ伏したかっこうのまま「きぶんわるぅ……」と喉のあたりで呻いている。
「布団に吐かないでくださいよ」
とだけ注意して、わたしはとりあえずそこらへんに先輩の荷物を放る。一人暮らしにはちょっと広すぎる部屋は、お世辞にもきれいとは言い難い。小さなかばんをそこらにてきとうに投げておいても、べつに構わないと思う。
間仕切りの引き戸の向こうには、お兄さんの部屋がある。とはいえ、いつも海外にいるお兄さんがこの部屋を使うことはまずないようで、だから実質的にはレパードの部屋だ。レパードというのは、先輩たちが飼っているボールパイソンのこと。
ひさしぶりに顔を見ようと思って、ちょっと部屋を覗いてみる。リビングとちがって日ごろからエアコンが稼働しており、ずいぶん暖かい。調度が少なく、簡素なシングルベッドと飼育ケージがあるぐらいの微妙に手狭な部屋は、相対的にきれいに見えた。で、手前にあるケージのなかでは、黄色と白の、まさしくバナナみたいな柄の大きなヘビがくつろいでいる。
ふむ、元気そうでなにより。
チェックも済んだので引き戸をとじて、ベッドに倒れ込んだままの先輩に、
「じゃ、わたし帰りますね」と、呼びかける。「お酒はほどほどにしてくださいよ。つぎからは気を付けてください」
返事はない。
「先輩?」
もう一度、声をかける。うんともすんともいわない。
「先輩、もしかして……」肩をゆする。「えー、寝てるんですかぁ」
寝ていた。本当にぐっすりだった。軽めに頬を叩いたり、強く揺すってみたりもしたが、一向に起きる気配がない。
困った。これでは帰れない。
わたしは途方に暮れて、へたりこんでしまった。部屋自体、四階で、アパートの入口もオートロックとはいえ……まさか泥酔した女子大生ひとり、鍵をかけられぬまま放置するわけにも……もう一度、起こしてみようと試みる。無駄だった。
とにかく、玄関の確認。もしかして、勝手に鍵が閉まるとか――なんてことはなかった。外からきっちりサムターンを回す必要がある。だから帰るには鍵を閉めてもらうか、それができないとわたしが閉めるしかないが、さて、どうしよう。先輩はぐっすりなので、起きるのを待つしかないが、それがいつになるやら。だからといって鍵をさがすのは泥棒っぽくて、というか人の家で合鍵なりを漁るのは人間として危うい領域に足を踏み入れてしまう気がする。
結局、わたしはリビングに戻ってきた。先輩はあいかわらず眠ったままで、起きていたときとはうってかわって安らかな寝顔である。
ひとつ、ため息。それからクッションを引っ張り出して、ぼすんと腰を下ろした。アウターのポケットからスマホと車のキーを取り出して、本が何冊も積まれたままのテーブルに置く。そのうちの一冊、『マンキュー入門経済学』が目を引いたので手に取ってみる。経済学部でもないのに、どうしてこんな本が先輩の部屋にあるのか。ぱらぱら開いて、よくわからないまま閉じる。
壁にかけられた鳩時計を見れば、午後五時半を回っている。先輩はいつ起きるのだろう。明日の朝まで起きないかもしらん。ぱち、とスマホを開いていもうとにメッセージを送信。今日、帰るの遅くなる。ごはんひとりで食べれる?
すぐ既読が付いて、秒でOKのスタンプが返ってきた。理由は訊かれない。なんなら朝帰りかも、と送る。返信は、微妙にかわいくないキャラが「ニシシ」と笑うスタンプ。
またスマホをテーブルに戻して、今度は本ではなくて、写真立てが目に入った。写真をむき出しのまま挟んでおくタイプで、数枚重ねて飾ってある。いちばんうえは、先輩と彼氏がどこかの展望台でピースサインしているやつ。それがちょうどわたしの目の前にあって、気分はよくない。
なるほど、これがうわさの野郎ですか。彼氏のほうは下半身に脳がありそうな顔をしており、どうしてこんなのを先輩が好きになったのかわからない。ひどいバイアスがかかっているから、そう思うのだろうか。でも、先輩が、こんな男に騙されているのが不可解で、なお許せなくて、だからってどうしようもなかった。それでも視界に入れたくないから、写真立てをひっくり返して、なにも見えないようにする。
これは、どういう罰ゲームなのだろうか。
わたしは天井を仰ぐ。あぁ、いもうとよ、思わせぶりなメッセージを送ってすまない。現実は実際、ろくでもないのだ。すきなひとの部屋で、そのひとの彼氏の気配を感じて、意中の彼女は泥酔して、寝こけて、そのせいで帰りたくても帰れない。脳が焼け落ちそうだ。こめかみのあたりがチリチリする。
またテーブルに視線を戻す。写真の白い裏面がみょうにくっきり浮いている。頭を振って、至極気にしないようつとめて、山積する本にむりやり意識を移す。聖書、『枕草子』、『遠野物語』、『バカの壁』、『重力の虹』、『レプリカたちの夜』、……なんだこの不条理なラインナップは。
さっきとは違う意味でめまいがした。とはいえ、なにかしら文字を読んでいたほうがいまは落ち着けるような感がある。とりあえず、テーブルのうえから比較的読みやすそうなものをさがしてみる。と、かわいらしい装丁の歌集がある。気分的にも、文字量的にも、これがいい。
春を待つ あやとりをする指さきの東京タワーのむこうの夜景
とはじまる、どうやら幼い娘との暮らしを詠んでいるらしい歌集の、どこに先輩は惹かれて買ったのか。文字を追っているくせに、気づけば先輩の影を見つけようとしている。こういう恋は、するものじゃないと思う。
春を待つ。
まだ春の遠い十二月の夜に、わたしは明らかにひとりぼっちだ。