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05 恋②

   ◇




 とりとめもなく過去を思い出していると、ふいにぶつかる壁がある。名前である。


 名前を憶え続けるのが、むかしから大の苦手だった。そのとき、その瞬間だけなら憶えていられるのだけれど、翌日になるとするっと記憶から抜け落ちているというのがよくある。


 脳の記憶容量がすくないのか、それとも無意識のうちにデリートするのか。どちらにせよ、記憶をしっかり留めておく習慣があまりない。ことに人名は記憶するに割くリソースがない。線路に飛び降りた彼女や、寧々先輩のようなひとなら、別だが。


 車で大学を出てから、なんとなく高校時代のことを思い返していても……「A子」の名前が、ちっとも浮かんでこない。記号じみた言葉でごまかしてはいるが、それは無意味だ。


 名前がないなら、存在しないに等しい。わたしは彼女と、それから彼女に付き纏っていた男のことをまだ覚えているが、その存在すら記号化されて表情の失せた無名のデータに帰しているのが実情だ。記号は記号でしかなく、生ではない。彼女はわたしのなかで生きていない。


 薄情だ。わたしのからだには血が通っていないと思う。




 BARエウレーカには駐車場がないようだから、裏手のスーパーに停めた。例のバーはとある雑居ビルの地下にあって、店先にはCLOSEDの看板がぶらさがっている。


 とはいえ、怪しげなピンク色の照明が漏れ出ているので、誰かはいるようである。ひとまず寧々先輩がいるかどうか、それだけ確認して、いなかったらすぐに帰ろう。すこしだけ身なりを整えてから、腹を決めてドアを開ける。がちゃあらん、と開閉に合わせてベルが鳴った。


 スピーカーからジャズの流れる、落ち着いた雰囲気の店だった。間取りは狭く、細長い長方形の部屋にカウンター席が六つほど並んでいるのみ。カウンターの奥では身なりをぴしと整えた四十代くらいの男性がグラスを磨いており、わたしを認めるなり「いらっしゃい」と微笑んだ。それから、彼のすぐ目の前、ひとり酔いつぶれている髪の長いひとに向かって、


「寧々ちゃん」と呼びかける。「お迎えが来たよ。起きな」

「うぅぅ」


 先輩は喉を鳴らして呻きながら、ぐったりした顔つきでわたしを見る。


「あ……おかえりぃ」

「……どうも」


 呆れるのを通り越して、かなしかった。酒をかきこんでつぶれている先輩を見るのは初めてではないが、しかし平日の午後四時にこれというのは郷愁を誘うところがある。わたしは先輩の近くまで寄り、また寝入ろうとしているので肩を揺すって止める。


「先輩、しゃきっとしてください。どうしてこんな時間にぐでんぐでんなんですか」

「叔父さぁん」と、先輩はマスターに向かって、「いつきちゃんにコークスクリュー」

「一年生だろ?」

「十九です、まだ」

「コークスクリューブロー……」

「殺す気ですか」

「うぐぐ……」


 また呻いた。無理な飲み方をしたのだろうか、苦しそうに顔をゆがめてうなだれるのは、悪夢に魘されているようすに近い。


「お酒は出せないが」


 と断って、マスターがお冷やを出してくれる。それから、「すぐには起きないだろうから」と笑い、まぁ座れと目で促される。いうとおり、先輩はちっとも起きる気配がないので、あきらめて隣に腰をおろす。


「いつきちゃんだったね」と、マスターは目尻を下げて、「寧々ちゃんから話は聞いてるよ。よくしてくれてるみたいで」

「えっと」

「叔父なんだ。寧々ちゃんのことはちいさいころから知っていてね」


 むかしの姿を思い出すかのように、細い目をして寝入った先輩を見る。このマスターは口元を微妙にしか動かさないが、一方で目元は表情豊かなようである。


「先輩はいつからここに?」

「連絡が来たのは昼ごろ。おれが店を開けたのは二時で、それからもうすぐに来たかな」


 で、わけも告げずにお酒を頼んで、飲み続けて、無理な飲み方をしたのでいまこうなっているという。マスターはもちろん途中で止めようとしたらしいが、そのころには手が付けられないくらい先輩は酔っていた。そのままじゃんじゃんお酒を入れて、どんどんからだが赤くなって、脳を焼くほどの勢いで酔いが回ったころ、どっと倒れる。それからずっとこの調子で、グロッキーな顔して突っ伏していたとのこと。


「でも、四時には電話をかけるから起こしてくれといわれてね。テーブルに貼りついていたのを苦労して起こしたら、それがきみへの救助要請だったわけだ」


 救助要請。どちらかといえば投げやりな謎解きだったが、これで家に帰るつもりはあったのだろう。わたしを呼んだということは、つまりそういうことだと思う。


 それこそ彼氏に頼めといいたくなるが、いつものごとく、やれバイトだの五コマがあるだので呼べなかったのかもしれない。どちらにせよ、ろくな男じゃないと……わたしは心のうちで至極勝手に決めつけてしまう。


 事実、あまりいいうわさを聞かないやつだった。学部外に友人がいるでもなく、サークルのひとつにも参加していないわたしの貧弱なネットワークでさえ、悪い話をつかまえてしまうほどである。大多数は女性がらみの悪評で、新入生に手を出したとか、以前二股をかけていたとか、鬱陶しい話ばかり。いわく「人当たりはいいが女癖は最悪」というのが彼に付き纏ういわれで、一般理解のようだった。


 先輩はそういう男にだまされやすいほうだと思う。だまされやすいというか、すきになりやすい。ダメな男にしか恋できないというひとは一定数いるが、寧々先輩はその筆頭だろう。純粋で、やさしくて、無知で、ひとの心がわかってしまうかわいそうなひとだから、男を見る目はないに決まっている。わたしはそれが、むしょうにかなしくて、くやしかった。腹立たしかった。


 口蓋垂のあたりから腹の奥にかけて、いがいがした不快な感覚がある。冷やをひとくち流し込む。あまり気分は晴れない。


「ここって、いつオープンするんでしたっけ」

「あぁ、六時だよ」


 スマホを見ると、四時半を過ぎている。開店まではまだ一時間以上あるが、かといってぐーすか寝ている先輩のためにそれほど長く居座るのも気が向かない。五時になっても起きなかったら無理やり連れて帰ろうと腹に決める。


「とんだ時間外労働だな」と、マスターは声に出して笑って、「そういえば、寧々ちゃんとおなじ大学なんだろう」

「えぇ、まぁ」

「学部は」

「教育です」

「へぇ。先生になるのか」

「まぁ免許は取ろうかなって……小学校のやつですけど」

「立派だね」


 わたしは肩をすくめた。そう立派といわれるようなことは断じてない。わたしにはこれといった将来の展望がなくて、それなら大学で教免でも取っておくかと、そのていどである。


「俗にいうデモシカってやつです。たぶんふつうに就職すると思うし……」

「まぁ、人生、どうなるかわからないから」と、マスターはグラスをひとつ手にする。「たとえば、そうだな。おれの知ってるある男は、もともと美容師を目指していた。上京して専門学校にも通ったけど、就職先でうまくやれなくて。夢破れて地元に帰り、サラリーマンになったが、これもうまくやれない。五年働いたら鬱になりかけて、いさぎよく辞めたよ」


 話しながら拭いたグラスをかたんと置き、また別のグラスを取る。それをマスターは滑らかなベージュの布巾でおなじように磨きはじめる。


「それでね、いよいよどうするか、ってなって、友人に店を開いたらどうかといわれた。自分で好きなようにやれるほうが向いてるんだろってね。だけど、いまさらハサミを持つ気にもなれなかったから、美容室はダメだ。じゃあ、どうしよう。そうだ、飲食店をやろうってね」

「そのひと……」オチがわかって、くすりと笑う。「ずいぶんと思い切りがいいですね」

「そうだね、当時はすこしおかしかったんだと思う」


 マスターも、最後まで隠し通すつもりはなかったらしい。ちょっと陳腐な語り出しだったな、と笑いを含ませてこぼし、続ける。


「いまでもそうなんだが……あいにく独り身で趣味もなくてね。そのぶん貯金はあったから金は用意できた。あとは資格を取って、店の準備をするだけ。だいたい一年くらいバイトしながら物件を探して、勉強もして、で、ここにバーを構えた」


 きゅ、と鳴らしてきれいになったグラスを置く。いちど視線を寝こけている寧々先輩に移して、それからすぐわたしのほうを見やる。


「人生、どうなるかわからないよ。いまはデモシカってやつだろうと、いずれ本気になるかもしれないし……夢の見えない日々だって、いつか意味あるものに思えるかもしれない」

「そういうものでしょうか」

「おれは、そう思うよ」


 マスターは目元でにこりと笑う。と、わたしの隣でごそごそと動く音がする。


 寧々先輩が起きて、わたしを見ていた。どうやらさっきの話を聞いていたらしい、しまりのない笑みを浮かべて、


「あたしも人生相談したぁい」

「馬鹿いってないで、帰りますよ。また寝ちゃう前に出ましょう」

「えー、やだぁ、まだ飲むぅ」

「いいから、立ってください、ほら」無理やり腕を引っ張り上げると、

「あ、ミサンガぁ」と、寧々先輩は目ざとく見つけた。「右腕だねぇ。すきなひとでもいるの?」

「あぁ、そういう意味になるんですか?」

「ぐぁぁ……宮本武蔵の半導体宣言……」


 狂っている。アルコールの力で世界の真理にでもたどりついたのだろうか。


「あ、そういえば、お勘定は」

「ツケでいいよ」

「いえーい、叔父さんだいすきー」


 マスターは苦笑して、でも早いうちに払ってくれよ、と慌てて付け足す。いくら姪だからって甘やかしすぎだろうと思う。


「じゃあ、連れて帰りますね」

「うん、頼むよ」


 もはやからだに力が入っていない先輩に肩を貸し、わたしはBARエウレーカを後にする。ドアを引いて、からぁんとベルが鳴ったところでマスターが、


「あぁ、そうだ」と、思い出したように。「みっちゃんにも、よろしく」

「え?」


 訊き返しても、マスターはもう店の奥に消えていこうとしており無為である。


 みっちゃん。


 はて、そんな名前のひと、知り合いにいたかなと思いつつ、しかし聞き間違いかもしれないなとも。とにかくあまり気にしないで、わたしは呻きつづける先輩を肩に、車まで歩いていく。

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