04 恋①
Ⅲ 恋
月曜日。四コマ目の講義が終わると、その時間を狙いすましたかのように電話がかかってきた。トートバッグのなかで、マナーモードなりに精一杯ぶるぶる震えている。
わたしの携帯に電話をかけてくるのは、たいてい結良か父のどちらかである。前者の場合は帰りの時刻を訊かれることが多く、後者はまず確実に買い物の依頼だ。今日の電話もそのどちらかだろうとあたりをつけて、なにげなしに携帯を取り出すと、びっくりした。
寧々先輩だ。
めずらしいとは思いつつ、電話するほど急ぎの要件なのかもしれないとすぐに出る。耳に当てて「もしもし」といってみるが、なぜか返事がない。
それからしばらく無音だった。なにかの悪戯電話だろうか、それとも電話が切れてしまっているとか。いったん離して画面を確認するが、しっかり通話中になっている。もう一度、
「もーしーもーしー」と大きく。「どうしたんですか、先輩。遊んでるなら切っちゃいますよ」
「うぁぁ」
うめき声が聞こえた。こういう先輩の声は、一度だけ聞いたことがある。
講義室の時計を見やると、まだ四時を回ったばかり。「なにをやっているんだ、あのひとは」と呆れていたら、友達が手を振って出ていくのが見える。耳にスマホを当てたまま振りかえす。
「先輩、いまどこにいるんですか?」
「うぅん? いまぁ?」ぐにゃりと間延びした声。「いまねぇ、えりゅれぇかぁ」
「えりゅれーか?」
「まってるねぇ」
一方的に切られた。なんということだ。どこかもよくわからない場所に呼び出しをくらってしまった。わたしは講義室の青白い蛍光灯を見上げて途方に暮れた。
さて、どうしたものか。
おそらく、あれは酔っている。それもべろんべろんだ。あのゾンビ映画一本で千回は聞けそうなうめき声は、寧々先輩がひとりでは立っていられないくらい酔ったとき特有のものである。
十月の中旬だったか。かなり遅くに寧々先輩の番号から電話がかかってきた。いぶかしんで出てみると、まったく知らない女性の声がして、「あ、橘さん?」と訊かれる。いちおう、はいと答えると、いまから車を回せる、と。
詳しい事情を聞くに、その日はサークルの飲み会があって、羽目を外しすぎた寧々先輩は酔いつぶれて動けなくなってしまったという。そうしたら、はた迷惑なことに、あのひとはわたしが迎えに来てくれるとかいった。勝手に、わたしの関係ない飲み会で白羽の矢を立てやがったのである。
まぁまぁ、いつきちゃんに電話かけてよ、来てくれるから。
電話の主は、それを真に受けた同じサークルの三回生だった。そのひとも相当アルコールが回っているみたいで、ところどころ呂律の怪しいところがあったが、会話自体はなんとか成立する。話を聞き終わったあと、スマホで時間を確認した。二十三時を過ぎている。
「寧々先輩に代わってもらえますか?」
と、わたしはため息まじりにいった。その三回生は「ろくに喋れないけど」と前置きして、どうやら近くで寝ているらしい寧々先輩に声をかけてくれる。すこしして、
「うぐぅ」と、うめき声が聞こえた。「たすけて、いつきちゃん……」
「いや、あの」なんだか頭痛がした。「いま何時だと思ってるんですか」
「五時……」
脳が完全にイカれている!
「無理ですよ、さすがに。うち遠いの知ってますよね」
「あたまいたい……」
こっちのセリフだった。わたしは頭に手を当てて、軽い頭痛を自覚する。
「ていうか、こういうのって彼氏とかに頼むもんじゃないですか」
「今日は夜勤バイトぉ」
「じゃあ家の近い友達とか、ほかにいないんですか」
「いないよぉ。あたしにはいつきちゃんだけだよぉ」
かなしくて吐きそう……と聞こえてくる。うそつけ、飲み過ぎただけだろ。
「わかりましたよ。店どこですか?」
結局、わたしが折れた。こんな真夜中に車を出すのは気乗りしなかったが、泥酔状態の寧々先輩を放置するのも気分がわるい。それに寧々先輩はわざわざ三回生のひとに電話させたのだ、行かずに断るというのは、かえってその三回生さんに申し訳ない。
こういうわけで、その日はわざわざ夜中に着替え、はるばる先輩を拾いに行ったのである。
閑話休題。
いまの話に戻そう。平日の午後四時。おそらくは十月のときのようにお酒が回りきった寧々先輩から電話を受けて、ひとまずわたしは居場所を突き止めることにした。ヒントらしきものは、ある。「えりゅれぇかぁ」とかいう見事に舌ったらずな言葉である。
ふむ、えりゅれーか、えうれーか……あぁ、と天啓が降りてきた。エウレーカ。ギリシャ語か。ユリイカ、ヘウレーカともいうけれど、あの発音の感じは「エウレーカ」で当たりだろう。
で、近くの飲食店にそんな名前のところがないか検索すると、すぐ見つかった。
BARエウレーカ。大学から車で五分くらいの場所にある、ちいさな店だ。
写真を見る限りでは、洒落た感じの内装で、どうやら豊富なカクテルが飲めるらしい。わたしはお酒に明るくないのでよくわからないが、けっこう有名なバーのようである。問題は、まだ営業時間外というところだが――他に当てもないので、行ってみるしかない。
いちおうの目的地が決まったところで、アルキメデスのように快哉を叫ぶことはできなかった。わたしは沈鬱な面持ちで講義室を出た。
◆
寧々先輩に彼氏ができたのは、わたしが大学に入ってすぐのことだった。たしか、今年の五月くらいのことである。彼女はうれしそうに――しかも、「いちばん最初に報告したくて」とかいいながら――わざわざ電話で教えてくれたのをよく覚えている。
人生ではじめての彼氏に浮かれていた先輩は、訊いてもいないことを矢継ぎ早にまくしたてる。いわく、おなじ学部で一個上の先輩らしく、わたしはもちろん知らない男だったが――寧々先輩のほうは去年からよく世話になっていたとか、なんとか……
白状すると、わたしは寧々先輩の話を、そのときだけは聞く気になれなかったし、実際、聞き流してもいた。きっとあのひとは出会いのきっかけとか、意識しはじめた瞬間とか、どっちが告白したかとか――べらべら喋っていたのだろうが、思い出せない。というか、先輩が開口一番に「彼氏ができて」などと言い出したあたりから、もうちっとも記憶にない。
どういう拷問だ、と思ったことだけは覚えている。その、名前も顔も素性も知らない男の話を延々と聞かされるという時点でずいぶん苦痛だったし、そのうえ語り手が寧々先輩で、しかも惚気が入っているとなるとげんなりしてしまう。
なぜ、げんなりか。
断っておくと、わたしは――別に、寧々先輩のことが、すきというわけではなかった、はずだ。いまはどうか、と訊かれるとノーコメントで通したいが、まぁすきだろうが嫌いだろうが、どうでもいい話である。ともかく、すくなくともそういう類いの嫉妬ではない。
わたしはもっと単純に、先輩をひがんでいたのだと思う。
寧々先輩の一言目、高層ビルの屋上から落としたスーパーボールみたいに弾み切った「彼氏」の、「か」の音。
耳にした途端、彼女がいっとうすてきな恋愛をしていることくらいすぐにわかった。世界がきらきらして見えて、あぁ季節の花ってこんなに美しかったんだ! とか、人生ってこんなにすばらしかったんだ! とか、そういう月並みな感動を小躍りしながら叫んでしまいそうな、陽気な恋。
わたしはそれが羨ましかった。あいにく、わたしはろくな恋愛を経験したことがない。中学時代のファーストキスは行き着く先が真っ暗だったし、どころか高校時代にもかなり捻じれた恋を――いや、ちがう、わたしはとくに恋愛していない。というのも、わたしがまだ女子バスケ部のマネージャーをしていたころ、ある三角関係に巻き込まれたのである。
図式自体は明快である。まず、女バスにわたしの同級生がいて、便宜上A子とする。で、A子に思いを寄せる……えっと、たしか柔道部のB男がいる。ただし、A子はB男を迷惑がっている。これで一方通行のベクトルができる。まぁそれだけならわたしに実害が出ないのだが、問題はここからである。
ある日の部活終わり、B男がA子にしつこく話しかけていたら、案の定というか口論になった。興味のない男にいちいち付き纏われていたら、こわいし、気持ち悪いし、温厚といわれていたA子であっても流石にキレる。キレるというか、泣く。あたりまえである。
そうなってしまうと、女バス一同、もう見ておれんと総出でA子の加勢をすることになった。当然の運びである。それ以前からもずっとA子に同情的だった女子の面々は、わたしも含めて、そしてもちろん、わたしと同じくマネージャーだった寧々先輩も加わって、一斉にA子サイドにつく。自分勝手に言い寄るひとりの男V.S.一年生から三年生までしっかり合わせて計十七人の女バス一同。情勢は火を見るより明らかだった。
が、それでも食下がったのがB男の恐ろしいところである。やつはこの状況になって、いまだに「A子と話をさせろ」というのだからとんでもない。ぶっちゃけ、全員引いていた。特に一年女子の表情はすさまじかった。全員一様に眉をひそめて、嫌悪感がもろに出ていたから。
で、まぁ、泥沼だった。女バスの面々を挟んで、A子とB男の対決(と形容するのは非常に不本意であるが)はヒートアップするばかり。A子も泣きじゃくって、声も悲鳴とほぼ同じものになっていく。いよいよ収集がつかなくなって、誰かが顧問を呼ぼうと言い出したとき、B男がまさかの爆弾を投げた。
「じゃあおまえ、ほかに好きなやつがいるのかよ!」
「……いるよ」
A子はそのとき、なにか決意したように、濡れた瞳できっとやつを睨みつけた。
が、――その言葉に、B男はともかく女バス一同もざわつきだしたのは、補足しておきたい。
というのも、B男の問いかけ自体は前にも何度かあったものである。それを訊ねたのはB男にかぎらず、当然というか、相談に乗っていた女子の数人も似たようなことを問うている。
これに対するA子の答えは一様で、「いないけど」だった。いないけど、あいつのことは好きじゃないし。いままでは誰にも彼にもずっとそう答えていたのである。
だのに、本当は意中の相手が「いる」という。しかもあまりにキッとした表情だったから、その場にいた全員がその場かぎりの嘘ではないことを悟る。
B男は、うろたえたようすで、
「だ、だれだよ」と。「じゃあいってみろよ、ここで」
まさか答える義理はない。そんなこと全員わかっていたが、だというのに彼女に視線を集中させてしまったことは、その場にいた誰も言い逃れできない事実だった。本当にひどいことをしたと思う。
「わたしが、好きなのは……」
と、彼女はいいかけて、ためらう。それでもこうなってしまうと逃げ場がなかった。彼女はまた顔を上げて、それからちらりとわたしを見て、いった。
「いつきちゃんだよ」
青天の霹靂である。
ここに、唐突ながら三角関係の構図が完成してしまった。
……わたしが巻き込み事故に遭うかたちで。
わたしはまさしく稲妻に打たれたような心持で、しばらく声が出なかった。他のやつらはというと、おなじように絶句していた。みな一様に彼女を見て、驚愕したような困惑したような表情を浮かべていた。
視線から身を守るように、彼女は顔を覆って一層に泣きじゃくった。こんなの、口に出したらいつきちゃんに迷惑がかかるし、でも彼のことは好きじゃないし、わたしが好きなのはいつきちゃんで、だから……彼女は言葉を嗚咽交じりに紡いで、やがて崩折れてしまう。
そんな彼女を支えたのは、他の誰でもなく、寧々先輩だった。地面に倒れ込みそうになったA子の腕を、先輩は咄嗟に掴んで、それから赤子をあやすようにその頭を撫でてあげる。彼女が落ち着くのには時間が必要だったが、やがて穏やかな調子に戻っていく。
「今日は帰ろう、みんな」
と、やさしく寧々先輩がいった。すると一帯に迸っていた緊張がようやく解けはじめ、呼吸しやすくなる。
それから寧々先輩はA子を立たせて、わたしに目配せした。A子はほかの女子に引き取られて、寧々先輩はそのままこちらに歩いてくる。
「いつきちゃん」と、小声で。「明日でも、いつだっていいから、彼女と話してあげてね」
「わかってます」
わたしは深くうなずいた。うまくやれる気はしなかったが、とりあえず。
で、その日は微妙な雰囲気のまま解散となった。A子の帰路については、部でいちばん仲のよかった女子に一任された。B男は最後まできまり悪そうにしながら、体育館のほうへと消えていった。
その後、わたしは本当にうまくやれなかった。A子とろくに話し合う機会もつくれなかったし、この状況は結局、わたしがバスケ部をやめるまで変わらなかった。そして、お話はやがて有耶無耶になり、よくわからないまま収束する……
……そうであったら、まだましだった。