03 ミサンガ③
「このあいだ、誕生日だったんでしょ?」
「え? あぁ」急な話題でびっくりする。「そうでしたね。気にしてませんでした」
「自分の誕生日なのにそんな無関心なこと、ある?」
「この歳になると、あんまり数えたくなくて」
「うそ。十九歳がそれいわないでよ」
きゃっきゃとたのしそうに笑いながら、光海さんは正方形のちいさな紙袋をテーブルに置いた。これはひよりから、と短く説明してくれる。
「開けても?」
「もちろん」
ピンクのマスキングテープで留められているのを、爪の先でやさしく剝がす。袋を逆さにしててのひらに中身を出すと、ミサンガだった。赤と青と黄で編まれた、平べったいミサンガ。
どくん、と心臓が跳ねる。
光海さんが、
「去年、学童保育で作ったのを覚えてたみたいで……」と微笑む。「いつきちゃんの誕生日を教えたら、はりきっていくつも作っちゃって。そしたら作るより、選ぶのにずっと時間かかったの」
どうかな、と光海さんは訊く。
わたしは自分にしかわからないような大きさで深呼吸して、うれしいです、と返した。
「ちょうどほしかったんですよ、ミサンガ」
光海さんは一瞬、きょとんとした顔をして、それからすぐにくすりと笑った。
「あるんだ、そんなこと」
「もう、本当ですよ」するりと紙袋にミサンガを戻す。「お礼、伝えてください。すごく気に入りましたって」
「うん、わかった。伝えとく」
それから、と彼女はもう一枚、紙袋を出す。今度は二回りほどさっきの袋より大きい。
「わたしからも。大したものじゃないんだけど」
「開けさせていただきます」
「はい、どうぞ」
今度はブックカバーが出てきた。それもふつうの、布やフェイクレザーのものではなく、和紙でつくられたものだ。
存在は知っていたが、実物を見たのははじめてだった。紙とはいうが和紙なのでしっかり丈夫、かなり使い込んでも実用に耐える。どころかこれは使うたびに折り曲がってしまって皺が出て、そうして手に馴染んでいくのを愉しんでいくような、そういう種類のブックカバーである。
「なにがいいのかわからなくて」と、光海さんは首を傾げて、「面白そうなのを見つけたから、どうかなぁと思ったんだけど……」
「これもほしかったんです、わたし!」
いいつつ、さっきと声の調子がまるで違うと我ながら。ただ、光海さんはそのことに気づかなかったようすで、わたしの反応にほっと息をついている。
「ならよかった。ちゃんとほしいもの、訊けたらよかったんだけど」
「どんなものだってうれしいですよ」とは前置きして、「大切に使いますね」
ゆったりと光海さんが肯いたところで、料理が運ばれてきた。わたしは受け取ったふたつの紙袋をトートバッグにしまって、ひとまず場所をつくる。
生姜焼き定食は、もちろんメインの生姜焼きが真ん中に据えられて、味噌汁と、それから漬物が数種類ついている。それからご飯のお供として、佃煮が小皿にある。で、売りであるところの羽釜ご飯については、お盆のうえにミニサイズのお釜があって、ふたを開けるとふんわり湯気が広がる。しゃもじで掬い取って緑色の茶碗によそう。見たところ、だいたい二杯ぶんくらいの量があるらしい。
光海さんの竜田揚げ定食も同じである。メインが竜田揚げに置き換わっただけで、量はさほど変わりない。わぁ、と感嘆の息をもらしている。
「いただきます」
まず汁物から手をつける。プラスチックの箸で軽くかきまぜると、味噌のかおりが立ちのぼる。くちびるの先端ですする。食道のじんわり温められるのを感じる。
つぎに、生姜焼き。てらてらしたタレがよく絡まった豚肉をひと口かじると、生姜の上品な風味が口腔にひろがる。うまい。そのまま茶碗によそっておいたお米を口に運ぶ。ふっくらした米と濃い目の味付けがよくあって、もちろんおいしい。
「おいしい」
と、光海さんがうっかり漏らすほどである。向こうは生姜焼きではなく竜田揚げだが、白米によくあう献立であるのに違いはない。
それから、わたしたちはほぼ無言のまま、黙々と食べすすめた。いつものランチならもうすこし談笑するところなのだが、今日にかぎってはふたりとも寡黙だ。店がアタリだったということだろう。おいしいものを誰かと食べるとき、それが特段にうまいか、はたまたカニだったかした場合にはこうなる。当然のことだ。仕方ない。あきらめて食べるのに集中したまえ。これは宇宙の摂理である。
あぁ、補足すると、漬物もうまかった。
会計はもちろん割り勘である。光海さんは「奢れたらいいんだけど」と申し訳なさそうにいうが、気にしすぎだと思う。というか、払わせてくれたほうがわたしとしてもすっきりする。数十分ていどとはいえ一緒に町へ繰り出して、それでただ奢られるままというのもあまり気乗りしない。
店を出ると、すっかり忘れていた冬の風がわたしたちを切れ味よく吹きつけた。思わずマフラーに首を引っ込めるが、そうしたら光海さんに「カメみたい」と笑われた。光海さんもわたしと同じように縮ませていた。
「ミケランジェロと呼んでください」
「お、じゃあわたしはラファエロ」
光海さんはうれしそうに肩を揺らした。なるほど、彼女は案外、喧嘩っ早いやつが好きらしい。
こんなに寒い日でも、定食屋にはもうずらりとひとが並んでいた。本当にタイミングがよかっただけらしい。これに並ぶのはきつかったな、と行列を横目に歩き出す。
郵便局まで、また数分くらいかかる。その落ち合ったところで、こんどは別れることになる。呼吸すると肺胞をつんざかれるような空気だが、食後であればすこし耐えられる。それに――こういう透き通って、微妙な湿り気すらないしんとした空気は、きらいじゃない。むしろ冬で唯一、気に入りのところだった。
目的地にはすぐ着く。四角いポストのとなりで、光海さんはひとつくしゃみをする。
「風邪ですか?」
「どうかな」不敵な笑みだ。「わたしの風邪は喉からだから」
「無理はしないでくださいよ。これから職場に戻るんですよね」
「うん。いつきちゃんはお家に帰るんでしょう?」
「そのつもりです」
「気を付けてね」
「光海さんも。お仕事、がんばってください」
ありがとう、とやわらかく微笑んで別れのあいさつをしたら、彼女は踵を返して郵便局から去っていく。わたしは寒さに丸まったその背中に、
「光海さん!」と、呼びかける。「また誘ってください」
「うん、またね」
ふりかえった光海さんがほがらかに左手を振った。わたしはそれに右手で応えて、また彼女が歩き出したのを見ると、大学のある方角に足を向ける。
◇
車に乗り込むと、すぐさまエンジンをかけた。しばらくして空調から生ぬるい風が吐き出されて、それが次第に熱を孕んでいく。
ブルートゥースで接続されたスピーカーから、『Got to be there』のAメロが流れる。わたしは助手席にトートバッグを置き、なんとなくちいさな紙袋を取り出した。ひよりちゃんからの誕生日プレゼント。手首か、もちろん足首にも十分巻ける長さのミサンガだ。赤と青と黄、三種類の糸で編まれている。
あまりに見覚えのあるような代物で、つい笑ってしまった。でもきっと、今日渡されなければそう思わなかっただろう。
ミサンガは、ふつうからだに身に着けるものだと思う。そのうえ手首か足首かで願いの意味もかわるらしいが、詳しくは覚えていない。でも、そのくせにあえてキーストラップにしたら、実際どういう願いごとが似合うのだろう。どういう願いごとなら、おかしな切れ方しないで済んだのか。
ちょっとずるい疑問だ。別にミサンガのせいじゃなかろうに。
ただ――ミサンガというのは、本質的にはずるいおまじないだ。お願いごとを叶えるために、切るつもりで身に着けるくせして、切ってしまったら意味がない。自然に、ちょっと目を離したすきにふっと切れていること。いちばん重要なのは、そこだ。
でも、そんなことは絶対にありえない。いつか切れてほしいと願っているのに、そのうえ手前で切れろだなんて傲慢で、身勝手だ。それに……もしふいに切れてしまったとして、そこにちっとも作為がないなんていえるだろうか。身に着けた瞬間、わたしたちはこの細い糸の束に、もとより切れることを運命づけているのに。
きっとミサンガを巻いた時点で、願いごとはゆがめられているのだと思う。このおまじないは――願いというのが元来そういうものであるように――自分勝手で救われない。
それでも、ひとは結ぶことに意味があると思いたがる。わたしだってそうだ。どんなにむつかしいお願いごとでも、しっかり結んで託してしまって、それが切れたときを夢想する。
し・あ・わ・せ・に・な・れ・ま・す・よ・う・に。
わたしは貰ったミサンガを、右腕にきゅっと結びつける。
誰が、とか、どういう意味で、とか、いまはまだ考えられない。願われる側は困るだろうが、それでもわたしのわがままをちょっとは聞いてほしい。しあわせの定義だって、放っておいたらいくらでも変わるものでしょう。
わたしはサイドブレーキを外して、ギアをドライブに入れる。ゆっくりアクセルを踏み込みながら、これが切れたら、なんて考える。
そういう、ずるいおまじない。