02 ミサンガ②
◇
水で鎮痛剤を流しこむ。だいたい月に一度、痛みとともに彼女のことを思い出すのはいつものことだった。思い出す、といっても、これほど詳しく回想することはめったにない。冬、それも十二月のあたまぐらいにしか、こう詳しくは思い出せない。
ふだんなら、さっと、あぁそういえばそんなこともあったと呟くだけだ。いまとなっては、そのていどの記憶である。先に旅立ってしまったひとは、わたしが暮らしを折り重ねていくうちに影の薄らいでしまっていつか消えていく。ずっと忘れないでいるなんてことはできない。人間の記憶は、きっとそういうふうにできている。
でも、それを口実に忘れてしまうのは、かなりひどい裏切りだ。だから思い出さないといけない。たまに思い出して、記憶をくっきりさせないと。その営みに、痛みというのは存外ちょうどよかったりする。
午前八時。大学に行く時間だ。水曜は一コマから授業が入っている。
家を出るのは、いもうとが一番早くて、次に父、最後にわたしである。これは後期に入ってからの話で、まだわたしが車の免許を持っていなかったころは、いもうとより早い時間に家を出ていた。電車を使うとまっすぐ大学の最寄り駅まで行けなくて、途中、路線を変えないといけない。つまり無駄に遠回りをしてしまうので、それなりに早い時間の電車に乗らなければ間に合わない。
そのぶん車はらくだ。それまで一時間半かかった通学を、たったの三十分にできてしまう。快適といえばかなり快適である。ひとつ問題があるとすれば、わたしがドの付くほどに運転嫌いであるということだろうか。
慣れてしまえばどうってことないと父はいう。初心者マークのついているうちは、怖いくらいがちょうどいいとも。
いや、残念ながら慣れとかこわいとかそういう話ではない、とわたしはきつく反駁する。というか、わたしはただただ運転が嫌いなのであって、慣れないからとか、こわいからとか、そういうことをいっているのではない。
場合によっては命を預かる、というのが嫌いだ。自動車というのは露骨に命を左右する。鉄の塊が時速数十キロで縦横無尽に動き回るのだ、冷静に考えてひとの技術と良心のみに委ねてよい機械ではない。
家の鍵を閉めて、本当に閉まったのか引いて確認する。ドアはガッと大きな音を立てて抵抗するので、安心して車に乗り込み、エンジンをかける。体調が悪いときの運転はかなりこたえる。抑うつに拍車がかかり、はぁ、と両手で顔を覆うとエンジン音が遠くに聞こえる。
……よし、行こう。
ハンドルを握り、わたしはじんわりとアクセルを踏んだ。
Ⅱ
お昼は光海さんと食べる約束をしていた。父の二度目の再婚相手であるところの彼女は、大学近くのちいさな福祉施設で働いている。おおよそ二週間に一度くらいの頻度で光海さんと予定のあうことがあり、今日がちょうどその日だった。二コマ目の講義が終わるなり、わたしはさっさと荷物を纏めて立ち上がる。
朝からの陰鬱な気分が晴れないまま、わたしは大学を出た。寒空のもと、徒歩である。車は駐車場に置いたまま。午後の講義はひとつもないが、遠出しないのだからわざわざ車に乗って向かうこともない。それに極力運転はしたくなかった。
キャンパスはちいさな町の小高い丘のうえに建っている。坂をくだってすぐの交差点にはこぢんまりとした大学の看板が雑居ビルの二階に取り付けてあり、「ここを左」とか書いてある。氷の粒を吹きつけてくるような風に、赤いマフラーがなびく。首をちぢこめて歩く。
二分ほど歩いたところの郵便局で、光海さんと落ち合った。水色の事務服のうえにしなびたコートを羽織って、背中を丸めている。光海さん、と声をかけたら、ちいさく左手を振って唇をつりあげる。
「寒いね、今日」
「寒すぎます」うまく笑えない。「なに食べますか?」
「ご要望は」
「あたかかいのがいいです」
「うん、よし」
だったら行ってみたいところがあるの。光海さんはふらりと歩き出すから、それについていく。通りをそれて人通りのすくない路地に入る。
こうして光海さんとランチに出かけるようになったのは、後期の授業がはじまった十月からである。彼女の職場とわたしの通う大学が近い、というのはまったくの偶然で、もとは父から聞いた話であった。
授業開始の三日前だったか。リビングでテレビを観ながらくつろいでいた父は、天啓が降ってきたかのように、いきなり告げる。「光海さんの職場、お前の大学のすぐ近くらしいぞ」――わたしはすぐさま光海さんに確認を取った。ラインが返ってきて、本当にそうらしいことがわかる。あとで詳しく調べると、光海さんの職場のホームページで、案内地図に大学の位置がしっかり記載されているほどだった。ラインの文面では彼女もすっかり驚いているようすだった。
で、どうせ近くにいるなら一緒にお昼でもどう、と誘われたのがはじまりである。わたしは二つ返事でオーケーした。わたしはけっこう、光海さんのことがすきだった。どういうところが、と訊かれると答えに窮してしまうが、とにかく二人きりで会いたいと思えるくらいにはすきだ。それ以前にも光海さんと出かけることはあったが、二人きりというのはなかなかない。だいたい父か、いもうとか、そうでなくとも確実に、彼女の一人娘であるひよりちゃんがいた。
それが悪いわけではない。わたしはひよりちゃんのことがだいすきだし、きっと結良とおなじように、わたしの大事な家族だと思える。彼女たち家族と過ごす時間はとうといもので、わたしの言葉をあたたかくさせる。
でも、どこかで光海さんを友達のように感じるふしがあることも、また事実だった。歳の離れた友達。そりゃあだってしかたないことだろう、とひとつ言い訳させてもらうと、わたしたちは十歳とすこししか違わないのである。あまり親娘という雰囲気ではない。
光海さんと、家族としてではなく、いち個人として親しくしたいというのは、だから自然な話だと思う。まだ苗字を衣笠のままにしている彼女を、いまのうちに知っておきたい。そうして、月に二度くらいのランチがはじまった。
今日で五度目のお出かけだった。いつも光海さんが先行して、同僚から聞いたという店に連れていってくれる。かなり助かる。わたしは大学まわりで外食することがあまりないので、お店には疎い。
実家から微妙に遠い大学に通うと、どうしてもそうなる、と思う。大学近くにアパートを借りる学生が多いなかで、ちょっと遠い場所から――それも前期は本数のすくない電車で――通っているとなると、おなじ学科でもどこかお客さんのようになってしまった。わたしは基本、参加者側で、どうあってもお店を選ぶとかそういう立場にならない。
しばらく歩くと、それなりに賑わっている定食屋が現れた。最近できたんだって、と光海さんが教えてくれる。どうやら釜で炊いたご飯が売りの店らしく、店先の手書き看板にも「羽釜」の字が大きく踊っていた。
それなりに並ぶかと思ったが、タイミングがよかったのか、すんなり席に通された。外とはうってかわって暑いくらいの店内は、入るなり味噌汁のかおりがした。
が、内装は和食店というよりカフェといった趣で、洒落たランプ型の照明が天井からぶらんと吊り下げてある。壁には異国の景色が描かれた油絵がいくつも架けられ、加えてウォーホルがモチーフにしそうなスープ缶すら飾られていた。いよいよ「羽釜」で米を炊きそうな雰囲気ではない。
で、わたしたちが座ったのは、奥まったところにある四人がけのテーブルだった。若干暗めの席で、例にもれず油絵が飾られているが、ここだけ絵柄が浮世絵調だ。幾人かの西洋の画家が浮世絵に感銘を受けて絵を描いたことはよく知られていることだが、きっとそういう延長線上でつくられたものなのだろう。またはただよう味噌のかおりに、ささやかながら調度を合わせようとした末のこれは結果かもしれない。
「すぐに座れてよかったね」と、光海さんがメニューを開きながら、「ちょっと暑いけど」
わたしは苦笑いした。ちょうど空調が直接あたる場所だった。寒いよりずっといいが、それにも限度というものがある。
「なに食べよう」
「わたしは……」
別にメニューを開いて、ながめる。いくつか載っている写真を見るかぎり結構な量があって、その割にリーズナブルだ。とはいえ食欲はあまりわかない。
しばらく悩み、結局はてきとうに、
「生姜焼き定食で」
「いいね。だったらわたしは……」
決めた、と店員さんを呼ぶ。光海さんは竜田揚げ定食を頼んだ。
店員さんが去って、
「いつきちゃん」と呼ばれる。
「はい」
「今日は、その、あんまり連れまわさないほうがよかった?」
はた、とわたしはお冷やに伸ばしかけた手を止める。光海さんが覗き込むようにわたしを見ている。そんな視線から逃げるようにすこし目を伏せて、つい笑ってしまった。
「いえ、そんな」気にしないでください、と続けて、「わたし、光海さんに会いたかったんです」
「それは……」目をそらして頬を掻く。「そう。でも、体調が悪いのに無理したらだめだよ」
「大丈夫ですよ。ご飯食べたら、もう家に帰りますし」
わたしのあっさりした返事に、光海さんは眉尻をさげて困り顔している。なんだか見透かされているようでちょっぴりくやしい。
「本当に大丈夫ですから」
わたしは口笛でも吹けそうなくらい軽やかな口調でいった。それからごまかすみたいに、間髪入れず、
「そういえば」とつなぐ。「もう来月ですね」
「あぁ、うん」
光海さんは姿勢を正して、しっかりうなずいた。
もう来月。
どちらかというと、ようやく来月、かもしれない。年を跨いで、いよいよ光海さんたちが引っ越してくる。
ここ数か月、初の顔合わせから結婚まで、それなりのあいだを取ったのにはもちろん理由がある。引っ越しの準備と、結良の慣らしだ。いざ家族になって一緒に暮らそうといっても、居をひとつにするのはそう楽な作業ではない。結良にとってはなおのことである。
だから複数回にわたる「お泊り会」を執り行って、どう環境が変わっていくのか、あの子自身が知っていく必要があった。家族も増えてよりにぎやかになるだろうし、なにより小学生のひよりちゃんがやってくる。
高学年目前とはいえ、まだ元気いっぱいの女の子である。きっと家も散らかりだすだろうし、そうなると結良とうまく暮らせるかどうか。実のところ、わたしと父はかなり心配していた。
が、数度のお泊り会を経てまったくの杞憂であるとわかった。結良はなんと、ひよりちゃんの前ではずいぶんできたおねえちゃんになるのだ。家の空気が変わっても動じることなく、かえって活き活きしだすほどである。そんな結良の立派に成長した姿に、わたしを含む大人衆が胸をなでおろしたのはいうまでもない。
そういうわけで、いよいよ来月、年明けからすこし経ったころに引っ越してくるのが決まった。とはいえこれは当初の予定通りというもので、場合によってはうしろにずらすつもりでいた。結婚というのは、とくになにもなかろうが手間のかかるものらしく、もとより余裕をもたせている。余裕といっても、最低限度だが。
だから、もう来月、ともいえる。いまごろ光海さんは引っ越しの準備に追われているといい、間に合うかなぁと苦笑している。
「荷物はぜんぜん多くないんだけどね。でも、服を段ボール箱に詰めたり、いらないものを処分したりしてると――つい、ね。手が止まっちゃって」
彼女は両手の指を突き合わせて、あはは、と力なく笑う。
「わかりますよ。いろいろ思い出しちゃうっていうか」
「うん。よくないよね。さっさと片付けちゃわないと」
「まだ来月、ですよ」
「そうだね」
彼女は肩をすくめて、それから「あ」と口をちいさく開けた。どうしたのか訊くと、いきなり悪戯気な笑みを浮かべて、鞄をまさぐりだす。