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18 Everlasting⑧

 視界に飛び込んできたのはまっ暗がりの天井だった。深淵に押し潰された世界の虚ろな底で、機関銃のような心臓だけがうるさい。からだは執拗に酸素を求めて過呼吸になる。汗でべっとりしたシーツを汗まみれの手で掴んでいる。耳鳴りがする。


 ベッドから落ちるようにぞろりと抜けだした。床に這いつくばりムカデの様相でドアに向かう。腕をドアノブにぐっと伸ばして、がたんとやけに大きな音が響くも気にならなかった。だれかを起こしてしまいそうだとか、そんなひとの眠りを顧慮するほうにあたまが回らない。


 扉が開いて、階下から光の漏れているのがわかった。いまが何時か知らないが、とにかく一階のおそらくリビングにだれかいる。わたしは息を切らしたまま階段まで這いずって、しかし歩いておりられる自信はない。ひとまず上体を起こす。


 一段目に腰かけるようなかたちで座り込むことにした。それだけで体力が消え失せそうだったが、ここであきらめても仕方ないからひとつ下の段に足を伸ばして、両手をうしろに突く。ぐっと尻を浮かす。一段、下にからだを持っていく。これを繰り返しておりていく。


 階段が終わるころには、心拍数も呼吸も耳鳴りもいくらか落ち着いていた。わたしは一階の床に足をつける。壁に手を突いて、ゆっくり立ち上がる。


 光にさんざめくリビングを覗くと、ダイニングテーブルに突っ伏して父が寝ていた。発泡酒の缶とタンブラーと携帯を放ったらかしに、毛布を羽織ってぐっすりしている。テレビのまえでは結良がヘッドホンをしてゲームに夢中だ。壁掛け時計を見るに、いまは午前三時。新しくソフトを買ったからって、さすがに夜更かしがすぎる。


 父は寝ているからともかく、リビングに入ったところで結良もこちらに気づかなかった。父を気遣ってかヘッドホンをしているから、ほかの音が聞こえないのだろう。それにずいぶん集中しているようだし無理もない。


 わたしは床に落ちていたクッションを拾って、ゲームに熱中しているいもうとの隣に腰をおろした。そこでようやく結良は気づいて、ヘッドホンジャックに手を伸ばす。わたしはそれを制して、


「気にしなくていいから」と背後を振り返る。いびきも立てずに父が寝ている。


 結良は「そう?」とちいさく呟いて、またゲーム画面に視線を戻した。横スクロールの2Dアクションゲーム。プレイヤーはステージのそこここに落ちているあまたの武器を駆使し、最奥に待ち構えるボスを倒す。そういう硬派で正道なゲームらしい。


 わたしも寝るまえに遊ばせてもらったけれど、案の定、うまくはやれなかった。操作はシンプルでわかりやすいのだけど、いかんせん、どういうプレイングが正解なのかわからない。慣れていけばうまくなるよ、と結良はいうが、十九歳までほとんどゲームに触れてこなかったわたしがいまさら練習するというのも、どうかな。


 いまはゴーストハウス的なステージを攻略している真っ最中だった。わたしが一緒に遊んだのはもっと平和的で、それこそ背景に青空が見えるようなところだったのに、いまでは画面がずっと暗いし、敵の見た目も、ギミックも、すべてがおどろおどろしい。きっとBGMもマイナーで不協和音が盛りだくさんなのだろう。


 と、青や赤色の火の玉がぐるぐると回るギミックを潜り抜け、結良の操作キャラクターはセーブポイントに辿りついた。いもうとはヘッドホンを外し、ひと息つくと、


「おねえちゃんもやる?」と笑った。

「わたしはいいかな。音も聞こえないし」

「イヤホンに変えたらいーじゃん。部屋から持ってくるよ」

「うーん」苦笑して、「見てるだけでおなかいっぱいかなぁ、わたし……」

「そっかぁ」


 ここからいいとこなのになぁ、と結良はけっこう残念そうにぼやいた。察するに、ボス戦らしい。やっぱり気が引ける。それでもちょっとは申し訳ない気がして、わたしはいもうとのあたまを撫でた。くすぐったいとくつくつ笑う。


「それにしてもおねえちゃん、どうしたの。眠れない?」

「うん……」わたしは肩をすくめて、「のど乾いたし、なにか飲もうかな」

「なににするの」

「ジャスミンティー。買ってたし」

「わたしももらっていい?」

「うん」


 台所に立つ。電気ケトルでお湯を沸かしながら、もう戸棚に入れておいた箱を引っ張り出す。ディッシュラックには醤油皿だけ置いてあるが、洗ったのは父なので微妙に乱雑だ。すっかり乾いているからついでに片付けておく。


「雪、降ってたよ、見た?」

「ううん、見てない」

「もうちょっとだけ積もってた。明日はすごいだろうね」


 それだけいうと、結良はまたヘッドホンを装着して、どうやらボスらしい巨大な目玉と死闘を繰り広げはじめた。わたしが加わってプレイしたはじめのボスとはかなり違って、攻撃の密度がすさまじい。やらなくてよかった。


 ボスが第二形態に入ったころ、お湯が沸く。わたしは眺めるのを一旦やめて、いちどふたつのマグカップにお湯を入れる。で、温まったら流しに捨てて、またお湯を注ぐ。これにティーバッグを浸ける。紅茶を淹れるときのやりかただけれど、ジャスミンティーでもきっと同じ要領だと思う。


 で、蒸らしたほうがずっといいのも一緒だろう。しかしマグカップにそのままティーバッグを入れているから、ちょうどいい蓋がない。結局、さっき片付けた醤油皿を二枚出して被せることにした。見た目はよくない。


 一、二分待つあいだ、また結良のゲームを鑑賞。いくつも飛んでくる火の玉を華麗に回避して、反撃を加える。そして距離を取り、また攻撃を避けて……と、基本的にヒット・アンド・アウェイの戦法らしい。


 いもうとの腕前にほれぼれしつつ、頃合いになったので蓋とは名ばかりの醤油皿を外すと、胸のすくような香りがむわりと広がった。マグカップをふたつ持ち上げる。ちょっと重い。もとより重いマグではあるが、いつもより質量を感じる。


 テレビのまえのローテーブルまで運び、また結良のとなりに腰をおろす。そのころにはボスの体力ゲージが残り僅か。これで最後といわんばかりに、結良は攻撃を畳みかける。撃破。


「勝った」と淡泊に宣言し、撃破演出を眺めている。巨大な目玉がどろどろと崩れていき、背景の壁も爆発して紫色の空がのぞく。しかし、ようすがおかしい。巨大な目玉、その中核にひと型の影が見える。


「え、うそ、まだやるの……」結良はコントローラーを持ち直す。第三段階のボスは、さきほどと違ってかなりインファイト。ものすごいスピードで突進してくる。それに遠距離からの射撃が混ぜられてかなり辛口だ。さしもの結良も、初見では対応しきれず敗北を喫した。


 ヘッドホンを外して、


「おねえちゃん、見た、あれ」と、口をとがらせる。「あんなの聞いてないんだけど。ずるじゃん……あ、お茶ありがとう」


 コントローラーを置いて湯気立ち上るマグカップに手を伸ばす。熱いから気をつけて、というわたしの忠告に耳を傾け、いちおう息を吹いてからひと口含む。


「熱い……」

「でしょ」


 わたしは笑って、同じようにジャスミンティーをひと口。鼻から抜けるようなジャスミンの香りが心地よい。結良はヘッドホンを首にかけたまま、しばし休憩することにしたらしい。コントローラーを再度もつ気配はない。


「作戦立てるの」と結良はいった。「二段階目までは余裕だけど、最後のやつ、ムーブがぜんぜん違うから」


 それから、後ろを振りむいて寝こけている父を見る。で、結良にしてはめずらしく困ったような笑みを浮かべて、


「お父さんねぇ……さっきまで電話してたんだ」

「電話?」わたしはそのまま訊ねかえす。「電話って、だれと」

「それは知らない。でも、言い合いになってたみたいだから……」

「あぁ」

「おねえちゃん」

「うん」

「今日のこと、あんまり引きずらないでね」


 無理かもしんないけどさ。そういって、またいつもの屈託ない笑顔に戻る。その表情だけ見ていたい、と静かに思った。


 わたしは逡巡して、


「ねぇ、結良」と結局語りかけている。「わたしね、ずっとこわかったの」

「こわかったって」

「そう、結良にはあまり話したことないけど……たぶんわかるよね、わたし、実のおかあさんと仲が悪くて。たぶん、愛されてなかった。ずっとそう思ってた。それに今日、たまたまあの場所で再会して、口論になって――やっぱりそう感じた。だからこわかったの……わたしが生まれてきたのを、生みの親にずっと否定されている気がして。わたしが生きている意味がわからなくって」


 でもね、わかったの。そう続けるわたしの声は、自分でもぞっとするほど穏やかだ。口からするりと抜け出ていくことばたち。


「帰り道、結良に手をつないでもらって。結良に家まで引っ張ってもらって。むかし、わたしがあなたに、そうあろうと思っていたみたいに。だから、わかった。わたしは、結良のために生まれてきたんだって。わたしは……結良がいないと、生きていけないんだって。生きちゃいけないんだって……」


 いもうとは目を丸くして、わたしの顔を見つめていた。わたしはかわいいいもうとの、ずっと背後にある深い虚を見つめている。それは世界ではない、ずっと大きな絶望という根源だ。この子がいるから、わたしはその深みに連れ去られずに済む。本当に、そう思う。


 結良は視線をはずして、すこしうつむく。わたしはいもうとの手を握ろうとふんわりと、自分のからだではないような右手首を浮かす。それをふいに、ぱっと掴まれた。


「違うよ」と、結良がいう。「それは違うよ、おねえちゃん」

「違うって……」

「ぜんぶ。ぜんぶ違うよ、おねえちゃんがいまいったこと、ぜんぶ。見当違い。本当はわかってるんでしょ。おねえちゃんは、わたしのために生きなくていいの。わたしがいなくったって、生きてていいの。おねえちゃんが生きているのに、わたしはちっとも関係ない」

「どうして――」眼の奥が熱くなる。「どうしてそんなこというの……」

「おねえちゃん」


 わたしのうなじに結良の細い腕が回る。あまいシャンプーの香りがして、声を出して泣いてしまいそうになる。


 結良はやさしい口調でささやく。


「ねぇ、おねえちゃん。わたし、いまでもたまに夢を見るの。おかあさんが生きているときの夢。もし、おかあさんが死んでなかったら、っていう夢。きっと、ぜんぶうまくいってたと思うんだ。たとえば、中学の卒業式には感動して泣いてくれたと思うし、高校の入学式とか笑顔で写真を撮ってたと思う。それで、家に帰ったら話をしながら笑って、おいしいごはんをみんなで食べるの。そういう毎日が続いたら、すてきでしょ。わたしはずっと、しあわせだったと思うし、おねえちゃんにも、あんまり迷惑かけなくて済んだかも」


 どうしてだろうね、と結良は続けた。どうしてかはわからないけど、そういう夢から目覚めたとき、すごくかなしくて泣いちゃうんだ。おかあさんがガンで死んじゃったからかな。もうあのころには戻れないからかな。きっとさ、たぶん、どっちも正解だと思う。でも、最近は、ちょっと違うことも考えるんだ。


 あのしあわせが終わって、わたしたちはすごくかなしくなったけど。

 そのかなしみがあったから、いま、このしあわせが始まろうとしてる。


 だってそうでしょ。そうじゃないと、わたしたち、ひよりとか、光海さんとか、出会えなかったんだもんね。わたし、あのふたりがだいすき。もうすこしであのふたりと暮らせるの、しあわせだって思うの、本当に……おねえちゃんも、そうじゃない?


 おかあさんのことは、いまでも忘れられない。でも、だからこそ、ちゃんとしあわせになってあげたい。それがわたしにできる、たったひとつの恩返しだと思うから。


「ねぇ、えらいでしょ、おねえちゃん」結良はちょっと笑って、「わたし、こんなことが考えられるようになったの。きちんとことばで話せるようになったの。すごいでしょ。それもぜんぶ、おねえちゃんのおかげ。わたしがつらかったとき、わたしの手をしっかり握ってくれたから。どこか出かけるときも、家に帰るときも、わたしの手をつないで離さないでいてくれたから。


 わかってる。そうだよね。おねえちゃんは、わたしのために生きてくれた。おかあさんが死んで、苦しかったのはおねえちゃんもおんなじだったはずなのに。それでも、わたしのことを支えてくれた。ありがとう。


 それにね、わたしも――おねえちゃんみたいなことがしたいって、そう思ってる。おねえちゃんがそうしてくれたみたいに、もし今日みたいに嫌なことがあったら、手を握って、そばにいてあげたい。きっとそういうふうにしようって思うの。わたしも、おねえちゃんのために生きたい。


 だけど、だけどね。その気持ちが本当でも、絶対にそうでなくちゃいけないってことは、ないはずでしょ……わたしは嫌だよ、おねえちゃんをわたしの人生に縛り付けちゃうようなこと。おねえちゃんには、おねえちゃんの人生を、おねえちゃんのまま生きてほしい」


 だからね、ぜんぶ違うの。おねえちゃんのいったことは、ぜんぶ――結良はそう繰り返して、わたしからからだを離していく。あ、泣きそうな顔してる、といもうとは笑う。はずれだ。泣きそうな顔じゃなくて、わたしはちょっと、すでに泣いている。


「感動しちゃった、わたしのスピーチ?」

「どうかな……」

「つよがりぃ」結良は花が咲くように笑って、「わたしさ、生きている理由とか――そういうこむずかしいこと、正直よくわかんないよ。苦しくて、まえが見えなくなったときでも、わたしはうまくことばにできないから、たぶん、その、死にたいとか、生きたいとか、はっきりいえない」

「……」

「人生いいことばっかじゃないよね。これだけは自信もっていえる。悪いこと、たくさんあったし。だからって、悪いことばっかでもないけど」

「そっか。そういうものかな」

「うん。わたしはそう思う」と、結良は大きく肯く。「いいことも、悪いことも、この先きっとたくさんあって。そのせいで、どうして生きているのかが見えなくなることも、たぶんあるんだよね。わたしはそういう気持ち、あたまのなかでも整理するの苦手だけど……おねえちゃんは、できちゃうんだ」

「でも、出した答えは違うんでしょ」

「本当は、気にしないでほしいんだ、わたしのこと……おねえちゃんには、おねえちゃんのしあわせ、ちゃんと見つけてほしいから」

「わたしの、しあわせ……」


 右手首のミサンガを見る。結良のてのひらに一部隠されているけれど、これに願ったことが脳裏によぎる。



 し・あ・わ・せ・に・な・れ・ま・す・よ・う・に。



 しあわせか。曖昧模糊なことばだけれど、響きは悪くない。


「たとえばさ」と、人差し指を唇に当てて、「恋愛とか。おねえちゃん、美人だしモテるでしょ」

「そんなことないよ……」

「逆に近寄りがたいとかぁ?」


 結良はテレビに向きおなり、コントローラーを拾い上げる。勝てそう? と訊ねたら、親指を立てる。


 再戦、スタート。巨大な目玉がまた画面いっぱいに登場する。いくつも飛んでくる火の玉を避けながら、着実にダメージを与え、第二段階まではあっさり終わる。


 問題は第三段階。先ほどのように目玉の中核からひと型の影が現れ、高速で動き回る。でも、動きをよくよく観察していると、ワンパターンだ。合間あいまに挿入される遠距離攻撃も同じ。最初に見たときは面食らって負けてしまったが、動きにあまりバリエーションがないと見切れば、もう結良の敵ではなかった。


 そして、第三段階を危なげなくクリア。結良は「勝った」とまたも淡泊にいい放ち、コントローラーを太腿に置く。ひと型の影が爆発四散する撃破演出ののち、洗練されたレタリングで表示される一文。



 CONQUER THE NIGHTMARE



 主人公は宿屋のベッドで目が覚める。どうやらふしぎな悪夢の世界を探検していたというシナリオらしい。悪夢を抜け出した主人公は身支度を整え、新たな冒険へと旅立っていく。


 わたしはジャスミンティーを飲みながら、しばらく結良のプレイを鑑賞していた。途中から、うしろで寝ている父はいびきをかきはじめる。急にいびきを立てるから、まさか、と思う。いままで寝たふりをしていたんじゃあるまいな。


 時刻は午前四時に迫ろうとしている。きっと、もう悪い夢は見ないだろう。二階にあがってベッドに潜ってもいい。


 でも、まだしばらく結良の隣にいたい。今日ぐらいは、こんなふうに夜更かしさせてほしい。外ではしんしんと雪が積もり、世界をま白に染め上げる。また口に含んだジャスミンティーの香りは、永遠とも思えるほど胸に残り続けていた。

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