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17 Everlasting⑦

   ◇




 詩集から顔を上げれば、暗がりが車窓に貼りついていた。終点近く、やはりひとはまばらである。日が落ちるのは、もうずいぶんと早い。五時半、まっ暗闇。空が曇っているのも原因だろうと思う。今夜は雪が降るらしいから。


 ずっと遠くにガソリンスタンドの灯り。すぐにスライドアウトする。いつもの合図だ。あのガソリンスタンドが見えたら、車掌のアナウンスがまもなくの到着を告げる。本を閉じる。


 結良は隣で寝こけていた。わたしの肩をまくらにして、いまだけはずっと幼い子どもみたいだった。結良、と呼びかける。やんわりと瞼をあげる。


「寝ちゃってた……」


 いもうとは目を擦りながら、ちいさく呟いた。いつものことでしょ、と笑いかけると、そうなんだけど、と眠たそうに結良も笑う。熱に満ちたからだが、わたしの肩から離れていく。


「もう着くの」

「うん」


 あくびを噛み殺しながら、結良は足元の紙袋を持とうとする。その手を制して、


「持つよ」とわたしは紙袋をひとつ。「もういっぱい休んだから」

「いいよ、そんなの」

「大丈夫だって」

「うーん」結良は笑って、「じゃ、はんぶんこ」


 わたしは右手に、結良は左手にそれぞれ袋をさげる。で、先頭車両のほうに移ろうと動き出すと、


「おねえちゃん」と呼び止められた。いもうとが右手を差し出している。

「手、つなぐの」

「うん。ぐうぜん、どっちも片方空いてる」


 返事を待たずに、結良はわたしの手を握った。じんわりと、体温の高いいもうとの手。そのまま引っ張られて、どんどん先頭車両まで進んでいく。数か月前にはわたしが握って連れていくほうだったのに、いまは真逆の構図である。すこし不甲斐ない。その何十倍も、うれしい。


 すでに何人かの乗客が、いちばんまえのドア付近で列をなしていた。それにならぶ。


「おねえちゃん、携帯持ってる?」

「なに、それ」荷物を置いて、コートをまさぐる。「あるよ、もちろん」

「ならいいや」


 歯を見せて笑う。一丁まえに忘れ物がないかまで確認してくる。それは、ちょっと生意気なんじゃない? こころのうちで肩をすくめる。


 と、やにわにブレーキがかかって、わたしはふらついてしまう。結良が近くの手すりを掴みながら、ちゃんと支えてくれる。


「やっぱり、まだ調子悪いでしょ」

「うん」わたしは素直に肯く。「でも、荷物は渡さないから」

「つよがりぃ」


 そりゃ曲がりなりにも姉なのだから、見栄くらい張る。つよがってなんぼだ。


 空気の抜ける音がして、ドアが開いていく。ふたりして暗がりのプラットフォームに降り立つ。電車が動き出すより先に線路をこえて、駅舎に入る。


 わたしたちは歩き続けて、すぐに凍える十二月の屋外に抜けた。街灯のすくない道を、いまとなってはめずらしく手をつないで帰る。むかしに戻れるような気がする。違う、むかしではなくて、これはいま、それか未来の話だと思いなおす。だって、むかしと違って、手をつないでもらっているのはわたし。


「このまま、まっすぐ帰ろうか」と、結良がいう。「夕飯はおとうさんに買ってきてもらおうよ。お寿司とかリクエストして」

「いいけど。でもどうせ、どっかのスーパーで割引で売られてる安いやつだよ」

「寿司は寿司でしょ。おいしいよ」

「そうかも」

「家に着いたらさ……」

「うん」

「お風呂に入って、それから一緒にゲームしない? 今日買ったやつ。二人でプレイできるの」

「それは……どうかな。わたし、たぶん下手だよ」

「だいじょーぶ、手取り足取り教えたげるよ。前作経験済みだから」


 どうやらなにかの続編らしい。いよいよ付いていけない気がする。結良と違って、わたしは滅多にゲームで遊ばないから、なおさらわからない。ソシャゲとかいうやつですら遊んだことがなくて、友達との会話についていけないことがしばしばあるような人間なのだ。


 それでも、と思う。たまにはいいかもしれない。


「わかった」わたしはちいさく肯く。「一緒にゲームしよ。でも、ちゃんと教えてよ、操作方法とかわかんないだろうし」

「うん!」


 結良は明るく返事をした。こころなしか、ちょっと歩くペースを速めて。


 足がもつれそうになりながらも、わたしは結良のペースに合わせる。


 合わせてあげないと、こんどは結良が転んじゃいそうだから。


 ねぇ、結良。


 あなたは、わたしの愛しい、ただひとりのいもうと。


 いま、わかったの。


 わたしは、結良がいないと生きていけない。


 結良がいないと、生きちゃいけないんだ。




   ◇




 むかしはどんな家に住んでたっけ。


 マンションの、四階だったと思う。そこで父と、母と、わたしで暮らしていた。3LDKの手ごろな賃貸。夫婦の寝室と、わたしの部屋、それと父の書斎まで揃っている。いまよりずいぶん市街地に近くて、交通の便もよいし、ずっと三人で暮らすには充分な家だった。


 わたしの目の前には、ひとつドアがある。簡素な一枚板のドア。ドアノブを捻り、手前に引くと、なつかしいリビングが現れる。


 平均的で、どこにでもあるような、ふつうのリビングだ。いま住んでいる家より散らかっていて、そう見れたものでもないけれど。ダイニングテーブルの真上に照明がぶらさがっており、ぱちんと壁のスイッチを押せば、痛々しいくらいの白い明かりで部屋を照らす。隅にこぢんまりとたたずむ観葉植物の緑が映える。わたしは椅子に腰を下ろして、テレビの電源を入れた。午後五時のニュース番組をやっていた。髪を清潔に整えた男のアナウンサーが、まじめくさった顔でなにかの事件を報じている。録画した番組の一覧を開く。てきとうなバラエティ番組にする。


 はたと思い至る。



 あぁそうだ、またこの夢だ。

 誕生日の夢。



 小学三年生のとき。

 わたしは、母に殴られた。

 ケーキをぐちゃぐちゃにされて、プレゼントをずたずたに切り裂かれた。

 あの夜の夢。


 悪夢だ。

 いうまでもない。


 午後六時。

 母が帰宅。


 思わず玄関に駆け出したわたしは、機嫌のよい母に抱きかかえられる。でも、そのとき、強い香水のにおいに顔をしかめてしまったから。


 母が豹変する。

 頬を、胸を、腹を、殴られる。髪を引っ張られて、頭を振り回されて。

 誕生日ケーキはぐちゃぐちゃに捨てられた。プレゼントの児童書だってハサミで八つ裂きにされる。

 刃物を突き付けられる。

 足を蹴られる。

 唾を吐かれる。

 服を破かれる。


 段々と思い出していくのだ、どんなことをされたのか。


 今日になって、夢はクリアになっていた。思い出してしまっている。あの日のことを、あの母がわたしにした本当の所業を、そしてその形相を……


 母は泣いていた。


 わたしを殴りながら。わたしを殺そうと包丁を向けながら。


 ふかいかなしみと、つよい殺意。


 それでも、わたしは殺されなかった。刺されるようなことはなかった。あたりまえだ、もしそこでずぶりと刺せるなら、母はわたしを殴るなんてこと、していない。


 母は泣きながら包丁を放り投げる。押し倒されたわたしの耳元に刃物が滑る音がして、次の瞬間には右頬を殴られた。わたしは意味もわからず泣いていた。死にたいと思った。殺してほしかった。



 どうして。

 どうしてわたしを殴るんだろう。


 おかあさんは。

 おかあさんは、どうして娘のわたしを殴るんだろう。



 口のなかを鉄っぽい味が支配する。永遠とも思えるような苦痛に満ちた時間を、わたしは彷徨っている。わけもわからず泣いている。



 どうして。

 どうしておかあさんはわたしを産んだの。

 どうして、わたしは生まれてきたの。



 覚醒するのは、決まっていつも、ひときわ強く殴られたとき。


 それは、わたしが初めて死のうと思ったとき、だった。

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