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16 Everlasting⑥

   Ⅵ




「本当に大丈夫?」と、光海さん。「家までちゃんと送ってあげたいんだけど……」

「いいですよ。明日お仕事でしょう」


 自動改札のまえでわたしは余裕ぶって笑みを浮かべた。ちっとも笑える状態ではなかったが、光海さんを――それになにより、ひよりちゃんを不安がらせたくはなかった。


「わたしには結良が付いてますから、ね」

「うん」と、いもうとは肯く。「安心して、光海さん。おねえちゃんはわたしが見てるから」


 頼もしいことをいってくれる。この子もずいぶん大きくなった。わたしが虚勢を張っているいまだからこそ、それがよくわかる。


「なら、任せるけど……」光海さんは渋い顔で、「ねぇ、無理はしないでね。元気だったらでいいから、帰って連絡して」

「わかりました」


 改札を抜けるまえに、膝を曲げてひよりちゃんの顔を覗きこむ。今日はごめんね、最後にこんな感じになっちゃって。そういうと、できた子だから、ううんとかわいく首を振ってくれる。


「気をつけて帰ってね、いつきおねえちゃん」

「うん……ひよりちゃんもね」


 短く別れを告げて、券売機で買った七百円ちょっとの切符を改札に通す。跨線橋の階段には午後四時の黄色い夕焼けが影を落としている。荷物を持ってくれている結良は、わたしのうしろから気遣うようについてくる。


「いつきちゃん」


 呼ばれて、振りかえる。光海さんが改札の向こう側で手を掲げている。


「またね」

「はい、また」


 笑顔で手を振る。彼女は眉尻をさげて微笑みかえしてくれる。今日はあなたの笑顔をたくさん見ることができました。かたちあるよろこびに打ち震える笑顔も、過去の暗やみを覗くような笑顔も。


 それで、わたしはしあわせです。


 ミサンガを巻いた右の手首が、ぎゅっと締め付けられる感じがする。


 いこうか、とわたしは結良に声をかけて、影色に染まった階段をひとつひとつ進んだ。いまにも吐きそうなからだを引きずって、どうして動けているのかわからない。多目的トイレでの光海さんのことばは慰めだったが、それは結局、こころの傷を癒せるくすりではない。この痛みをいつまで抱えておけばいいのだろう。どうすれば、わたしはもっと、息がしやすくなりますか。


 ふんわりとした十二月の風が、あまいにおいを孕みつつ橋の奥から吹いてくる。足がもつれそうなのを理性で統御して、それにも限界がある。手すりをつかむ。


「おねえちゃん」結良が不安げに、「無理しなくていいよ。歩きづらいなら肩も貸すから」

「ありがとう、でも心配しないで」


 わたしは大丈夫だから。自分に言い聞かせるようにそう続けた。橋を渡り、つぎは階段をおりていく。プラットフォームはもうすぐそこだ。一歩ずつ、ゆっくり進む。気の遠くなる時間。背中から差し込む夕陽にどんと押されて、転げ落ちてしまいそう。情けない。


「座ってなよ」プラットフォームに辿りつくなり、結良がいう。「まだ電車が来るまで時間あるから。あ、自販機あるみたいだけど、なにか飲む?」

「うん……じゃあ、ふつうの水」

「待ってて」


 ベンチに腰をおろす。プラットフォームの離れたところにぽつねんと自動販売機があって、結良は財布を握りしめ駆け足で向かっていく。


 わたしは足元に荷物を寄せながら、ゆっくり深呼吸した。実の母に会って以来、どれほどこうやって深呼吸したのか。数十分前とくらべて、気分はだいぶ落ち着いてきた。でも、実際はそう思っているだけで、ちっともからだは動かないし頭痛も引かない。気を抜いたら倒れてしまいそうだ。


 こういうふうになんて、まさかならないと思っていた。ここ数年で――とくにここ数か月で、あの母に暴力を振るわれる悪夢もあまり見なくなった。抜け落ちている過去をざっくばらんに思い出しながら、それだけであの悪夢と立ち向かえるような気がしていた。でも、幻想だった、ただの。


 過去と向き合う、というなら聞こえがいい。内実は、いまだに忘れられない苦しい記憶の一点をほかの記憶で塞ぎこむこと。


 高校時代のいやな恋の話を思い出しても、それはトラウマではない。


 だから、赦してあげる。わたしの過去のいやしさを。


 そううまくはいかない。


 わたしはわたしを赦さない。

 わたしはわたしを認められない。

 わたしはわたしをすきになれない。


 最初から、赦されてなかったんだから。

 最初から、認めれてなかったんだから。

 最初から、すきになってもらえなかったんだから。


 いとしい、母に。


 きっとだれでも、はじめて自分を抱きあげてくれた女性を母と呼ぶ。

 それがどんなにひどい女性で、どんなにわたしを痛めつけても。

 わたしをこの世界に産み落としたのは、ほかのだれでもない、あのひと。


 だから、あなただけには、わたしを愛してほしかった。

 そうでないと、わたし、どうして生まれてしまったのか。

 ちっともわからないんだから……


 ふざけないでほしい。最悪だ。わたしはあの女を母とは呼びたくない。自分の思い通りにならないと感情的になって、すぐに暴力をふるって、だのに父に咎められると被害者ヅラをする。あんなやつとは、もう十年前に縁を切っているのだ。母親ではない。


 踏切の音がする。上りの電車が来る時間だ。わたしたちが乗るのは、下り。ここで上りの電車は二分停まる。


 わたしはぼんやりとプラットフォームを見渡した。あまりひとはいない。数人が電車を待ちながら各々突っ立っている。


 電車を待つ数人のなかに、髪の長い少女がいた。寒空につんと鼻を突き出し、いまかいまかと電車が滑り込んでくるのを待っている。たったひとりで、その時を見計らうかのよう。


 あたまのなかで、声が響いた。いつきちゃん、いま、帰り?……


 彼女が笑顔でこちらを振り向く。


 時雨のように降り注ぐ踏切の音。


 遠い町で死んでしまった、あのひと。


 白い煙となって空に消えた、わたしの初恋。


 なつみちゃん。


 わたしは立ち上がろうと足に力を込めて――


「おねえちゃん!」腕を掴まれた。「どうしたの? 逆方向だよ、つぎにくるやつ」

「あぁ、うん……」心臓が跳ねている。「間違えてた、ありがとうね」

「いいよ。はい、お水」


 べち、と冷えた頬に冷えた水を当てられた。思わずへんな声が出る。結良に笑われる。


「もう、結良」

「ごめんごめん」


 ちっとも真心のこもっていない謝罪に、わたしはすこし、本物の笑みをこぼす。いもうとなりの気遣いだったのだと思う。やっぱり、気づけば結良はひとりの立派な女の子だ。


「でも、もうすぐだよね、電車」

「うん、そのはず」


 わたしが相槌をうつと、上り方面の電車が軋むような音を立ててホームに入ってきた。甲高い金属の擦れる音を響かせて、停車。半自動ドアが開くなり、それなりの人数が降りてきて、すくない人数が乗り込んでいく。そのなかのだれひとり、髪の長い少女ではない。


 で、それから「まもなく二番ホームに……」と下りの電車がくるアナウンスが流れる。結良が荷物を持ち上げて、わたしは地に足つけてゆっくり立つ。乗車位置表示の真上にふたりで並ぶ。ペットボトルの蓋を開ける。冬ざれのホームで冷えた水を流し込む。


「気分、どう?」と訊かれる。

「ましになったほうだよ、ちょっとはね」

「座れるといいね」


 朝のようにガラガラではないと思う。街なかから出る下り電車は、まだこの駅ではひとで満杯なのが常である。それでも、もしかしたら席のひとつやふたつ、ひょっこり空いているかもしれない。


 すこしして、下り方面の電車がやってきた。やかましい音を立てながら減速して停車、数人が降りてくる。そのあとにいそいそと乗り込む。


「おねえちゃん、空いてる」と、結良がロングシートの端っこを指さす。「ラッキーだね。いいよ、座って」


 遠慮する余裕はあまりなかったので、いもうとのことばに甘えて座らせてもらう。結良はわたしのまんまえで吊革を掴み、顔を覗きこんでくる。


「疲れたでしょ。寝てたら」

「あんまり眠くはないな」


 結良が持ってくれている荷物から、わたしの鞄を受け取る。で、一冊の本を抜く。


「おねえちゃんは、そっちのほうが落ち着くか」

「そういうこと」


 それに、眠ってしまうと嫌な夢を見そうだった。電車のなかで魘される気にはならない。


 ページを開く。これは朝に読んでいたSF小説ではなくて、ずっと読みやすい詩集。数冊、ジャンル違いで入れておくのは正解だった。SF小説なんて、倦んだ脳みそで読み解くとへたな哲学書より難しいのだから。


 直に電車は動き出す。そうして、わたしはなんとか家に帰っていく。まだ喉のあたりはいがいがして、緊張の糸を切ってしまえば二度と立てなくなりそうだ。


 それでも、帰る。いもうとと一緒に。


 がくんと揺れて、走り出す。

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