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15 Everlasting⑤

 光海さんの話は重たかった。ショッピングの合間に、世間話の感覚で聞くようなものではない。それでも、彼女はいま、ここで語ってくれた。わたしに向けて、ほとんどふたりきりの状態で。父と彼女がいよいよ結婚して、わたしたちがひとつ屋根の下に住むまで、もう一か月を切っている。今日のような“ふたりきり”の機会が次にいつ訪れるのか、わからない。


 まだマライア・キャリーが聞こえている。ずっと鳴り響くこのクリスマス・ソングは、今日いちにちでどれだけリピートされたのだろう。延々と同じ曲が流れて、わたしはついにひとり、あとの三人を待つ。


 と、隣にだれかが来た。わたしと同じように壁にもたれている。荷物をわたしの側に寄せるように動くと、強い香水のにおいがした。


 覚えのある香り。


「いまひとりなの」と、静かに訊かれた。「だれ待ってるの。あの女でしょ。うわさには聞いてるけどさ」


 黒いハンチングを目深に被ったその女は、コートから煙草をとりだして迷いなく咥える。見たことのある銘柄だ。このあいだ、寧々先輩の吸っていたもの。


「火、持ってない?」

「あるわけないでしょ……」わたしはつとめて冷静に、「歳も覚えてないの。ていうか、ここで吸わないでくれる。喫煙室とか探せばあるでしょ……」


 女は舌打ちする。わたしの心臓がこまかな拍を徐々に刻みはじめる。てのひらにじんわりと汗が出て、気分が悪い、頭痛がする。ぼっ、と火をつける音がして脳に爪を立てられた感覚がある。


「ライター切れそうなのよね」紫煙を吐く。「で、今日なにしにきたの」

「関係ないでしょ……そっちこそ、なにしにきたの。とりきめ、まさか忘れてないよね。もう二度とその顔見せないはずでしょ」

「わたしだって、あんたを探してたんじゃないけどさ。ぐうぜん、見つけたの。そりゃあいさつくらいするでしょ、実の娘だもの――」

「あなたの娘じゃない」


 鼻で笑われる。また煙を吐きながら、


「じゃ、だれの娘よ、あんた。ねぇ、わかる。腹を痛めて産んであげたのはわたし。血がつながってるのもわたし……」


 足が動かない。ここからすぐにでも逃げ出したいのに、からだがいうことを聞かない。


「あなたを……」呼吸を整える。「あなたを母親だなんて思ってない。そう呼びたくもない」

「だから、それならだれの娘なの、あんた。あの女じゃないでしょ。歳が近すぎて笑いもん。それとも――もう死んだ女?」

「黙って……」

「あんたも大変よね。再婚したと思ったら、ガンになってあっさり死んじゃったわけでしょ。とんだ疫病神じゃない。それも、出来の悪いバカだけ押しつけて――」

「黙って!」思わず壁を殴っていた。「それ以上いうなら許さないから……」

「許さないって、なに」

「わたしの家族を侮辱しないで」


 はぁ、とひとを殺せる気配がこもった煙を面と向かって吐かれる。淀んだ瞳に捉えられて感覚がぺしゃりと折れそうになるが、まだ持ちこたえる。


「あんた、正気?」と女は呆れた口調で、「あんなセイハクが家族だなんて、いつからそんなお花畑なあたまになったの。目を覚ましなさいよ」

「いい加減にして!」

「ちょっと、大声出さないでくれる。耳が痛いんだけど」

「何様のつもりなの……」喉が痛い、朽ちた花のように乾く。「いきなり出てきて、母親ヅラして、わたしの家族をコケにして……あなたがわたしに何したか、覚えてないの……あなたのせいで、わたし、わたしは……」

「あんたのそういうところが嫌い……」女は舌打ちして、「いつも被害者ぶって。こっちだって苦労してたってのに。ねぇ、むかしっからそうよね、あんた。生意気で、いうことは聞かないし、困ったら泣きわめくだけ、ちっとも成長しないんだから!」


 トゲがむき出しの声に身がすくむ。膝に力が入らない。眼の奥が熱い。全身に鈍い痛みが響いてやまない。胸ぐらを掴まれる。


「わたしだって! わたしだって苦労してた! なのにあんたが生意気だから、わたしのいうこと聞かないから! ふざけないでよ、ぜんぶわたしのせいにして! わたしのことを悪者にしてたのしいわけ⁉」

「いや……違う……」

「なにも違わない! あんたがわたしを恨もうなんて、そんなズレたことないの! あんたみたいな娘を産んで、わたしがどれだけ苦しかったか! それがわかるの⁉」

「もうやめて!」


 女を突き放すと後ろに倒れ込んだ。涙があふれる。フラッシュバック。父のいない場所で殴られていたころの記憶。殺されるかもしれないという恐怖。口腔を鉄っぽい味が支配する。あのころの苦痛が、そのままのリアルな質感でからだを目一杯に嬲る。浴びせられる罵声。嗚咽が漏れる。ここにひとりしかいない。わたしはここにひとりしかいない、という絶望。月の軌道の無謬を思う。この世界に希望などない。


「いつきちゃん」と、肩を抱き寄せられる。だれかの言い争う声が聞こえる。くぐもって、ずいぶん遠くの出来事のように思える。聴覚を塗りつぶすための耳鳴りがやまない。涙で霞んだ世界をわたしはぼんやりと眺める。衆人環視。わたしを抱いているのは光海さんだ。彼女のうつくしい横顔は、ただ、宇宙を飲みこむ夕映えのような怒りに燃えている。


「お引き取りください」と光海さんがいう。「お話しすることはありません。お引き取りください」

「よってたかって、わたしを悪者にして――」

「ですから」

「ねぇ、どうしてそういうことするの? どうしてわたしをいじめるの? いつきは……いつきはわたしの子どもなのに……わたしの娘なのに、ねぇ」

「やめてください、たか子さん」

「返してよぉ――わたしの娘でしょぉ!」

「あなたの娘じゃ……ありません。いつきちゃんは……」


 わたしを抱き寄せる力が強まる。


「いつきは、わたしの娘です」


 どうかお引き取りください、と光海さんは静かに繰り返す。それでも女は引き下がらない。やがてモールの従業員がやってきて、わたしたちの間に割って入った。両者は互いに引き裂かれていく。喚き声がずっと聞こえる。


「大丈夫、いつきちゃん」光海さんはわたしの頭を撫でる。「もう大丈夫だから……えっと、立てる? 肩、貸すから……」

「ごめんなさい、わたし……」

「うん」


 動こうとすると、胃の奥からなにか昇ってくる感じがして、口を押えた。お手洗い行こうか、と耳もとでやさしく囁かれる。肯くと、滲む視界がぐわんと揺れた。


「……結良は……」

「うん、結良ちゃんなら、大丈夫。ひよりと一緒にいるよ」

「あの……」

「うん」


 胸元に顔を隠させてくれる。いもうとの声がする。光海さんが落ち着いた調子で「ひよりを見ててね」とだけ伝える。


「歩ける?」


 かすかに首肯する。本当は歩けなかった。どこにも行けなかった。足を動かす。また足を動かす。右、左、こんどは右、また左……永遠に思えるような作業。眩暈がする。あたまのてっぺんからつま先まで捲れていくような痛み。心臓の狂ったテンポに合わせて汗が噴き出る。細胞という細胞が腐っていくにつれて異臭がする。どこまでも長い廊下を縋りつつゆく。呼吸が荒い。だれかをナイフで刺したようなぬめりとした気持ち悪さが背筋を伝う。鼓膜が正常に震えない。スローとクイックが交互に入れ替わるくぐもったマライア・キャリー。右足を出す。こんどは左足を。わたしいまどこに向かってるんですか。皮膚が鋭敏になる。痛みだけを拾う。わたしいまどこに向かってるんですか……


 多目的トイレに着くとわたしはすぐさま便座に顔を突っ込んで、吐いた。昼に食べた赤いアラビアータが水面にぶちまけられて、血反吐みたいだった。なんとなくきれいだった。光海さんがわたしの背中を何度もなんどもさすってくれる。また喉をかきむしるように流動的な暴力が昇ってきて、口から漏れ出た。胃液の混ざった赤い吐瀉物は腐った果実のにおいがした。


「あの……」喉が揺れる。「手を握ってくれませんか……」

「うん」


 光海さんは右手をあたたかく包み込んでくれる。指がするりと絡まる。それだけで満たされるような気持ちになった。それだけで充分、わたしはわたしを見つめられる。


「すこし落ち着いてきた?」彼女がそっとささやく。「どうかな……もうすこし、こうしていようか」


 片方の手でわたしの右手を包みながら、もう片方の手であたまを撫でてくれる。こうしてだれかに愛してもらうのは、いつぶりだろうかと思う。ゆっくりと呼吸は整っていく。全身に響きわたる鈍痛はやまない。それでも救いだった。


「今日は……」切れ切れに声が出る。「運が悪かったんです、今日は……」

「うん」

「もっと、わたし、つよくなれたと……こうはならないと、思ってたのに……」

「うん……」

「こわいんです、どうして……」嗚咽が混じる。「どうして、わたしがうまれたのか、わからなくて」


 息を吞むのが聞こえた。右手を握る光海さんの力がずっと強くなる。ゆっくり抱きしめられる……



  大丈夫、いつきちゃんは。

  そんなことに恐怖しなくていいの。



 どっぷりと深い闇の底で、わたしはそのことばを聞いた。闇に揺蕩うからこそはっきりと聞こえた、それは光だった。腹の奥にあったどす黒い血の吹き溜まりが、光海さんの体温に壊されていく。心拍数が落ちていく。


「たぶん……」わたしは深呼吸して、「たぶん、もう大丈夫です、光海さん」

「本当? まだ休んでも……」

「いえ、充分です」


 膝に力を入れて、立ち上がろうとする。うまくいかない。苦笑して、肩を借りることにする。いちど尻を持ち上げてしまえば、どうにかひとりで歩くくらいはできた。トイレの水を流し、そのままつたない足取りで手洗い器まで。冷たい水道水で口をすすぐ。鏡を見る。


 グロテスクなほど赤黒く、濁った瞳。


 ちょっと笑ってしまう。


「メイク、崩れちゃったな……」

「直していこっか。手伝うから」


 わたしは光海さんに抱きついた。わっとちいさく驚いたような声をあげて、彼女はころころした笑顔のまま「どうしたの」と問う。わたしは何も答えずに小人みたいに笑い返す。月のやわらかな香りがする。


「ありがとうございます、今日は」

「気にしないで」

「忘れませんから、今日のこと。ずっと」

「うん……」


 もし。

 もし、こういう形で出会えなかったなら。


 歳の離れた友達のような、歳の近い母というあなたでなかったなら。


 わたしはとても、寂しかったろうと思う。


「ありがとうございました、本当に」


 わたしはずっと――こうしてあなたに出会いたかった。

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