10 恋⑦
◇
窓を閉める音で目が覚めた。充電中のスマホを見ると、朝七時半だった。ベッドに両手を突いて上体を起こす。隣に先輩はいない。あくびをする。
だんだん意識が覚醒してきた。で、昨晩のことも次第に思い出せて、冷静になって考えると、どうしておなじベッドで寝たのかわからなくなってきた。そういうことはしていないはずだが、だからといって同衾というのは、わたしもイカれていたと思う。ハイな気分というのは怖い。
とか、そんなことを思いながら、ベッドから降りて、わたしはゆっくり窓を開けた。冬の朝陽と寒気がいっせいに襲ってくる。思わず目を細める。
「あれ、起こしちゃった?」
ベランダで煙草をくわえた先輩は、悪戯気にそう微笑んだ。微笑み返して、わたしも裸足でベランダに出る。あまりに冷たい。
「煙草」と、欄干にもたれながら、「やめるんじゃなかったんですか」
「あと一本あるから」
手のひらサイズの箱を見せてくる。たしかにあと一本だけ、隅で肩身の狭そうに残っていた。
ふむ、とわたしは逡巡して、
「火、貸してください」と最後の一本を取った。
にやつく先輩からライターをもらう。カチ、と見よう見まねで煙草に火を点け、吸ってみる。
むせた。
「そうなるよねぇ、わかる」
「これっ……どうすればいいんですかっ」
「ゆっくり吸えばいいんだよ。口のなかで煙を留めて、それから肺に落とすの」
訝しみつつ、今度は教わったようにやってみる。辛みが喉を刺して、殺されそうな気がする。肺に煙を送る……
むせた。
「あはは、かわいい」
ちっともうまく吸えないわたしを、先輩は笑い飛ばす。それをあと何度か繰り返していると、吸い方もすこしはマシになってきた。灰皿を差し出されるので、指先で叩いて灰を落とす。
「ねぇ、いつきちゃん」
先輩が、欄干から身を乗り出していった。化粧もしていない静かな横顔が黄金色の朝陽に輝いて、きれいだった。
「最近、ちょっと思ってたの。いつきちゃんをすきになってたら、どれだけしあわせだったろうって……」
わたしは返事をしなかった。ひとたび口を開けば、いつもの調子で皮肉めいたことをいってしまいそうだからこわかった。そんなわたしの情けなさで、このすてきな時間を毀損したくない。
代わりに煙草を吸った。この辛みのどこに救いがあるのか知らないけれど、たしかに、依存してしまいそうだと思った。
レモンの皮を透かしたような光に町並みが焼けていくのを、わたしたちは見ている。遠くにもったりとした霧が出ていて、けれどもうすぐ消えてしまう時間だった。
凍てつく季節の片隅で、霧は晴れ、いつか果てまで見渡せる。
「煙草、もう吸っちゃだめだよ。からだに悪いからね」
そういうと、先輩は深く煙を吸い込んだ。
リビングに戻ると、先輩は本につまずいた。ものが散乱している部屋で、いよいよ起きた悲劇だった。一冊の歌集を蹴とばしてしまう。
やっちまった、と先輩は慌ててその歌集を拾い上げた。昨日、わたしが暇を持て余して読破した歌集だった。先輩はパラパラと繰って点検したあと、ふいにわたしを見て、
「もしかして」と訊ねる。「これ、読んだ?」
「読みました」わたしは窓の鍵を閉めながら、「面白かったです」
「ふぅん、そっか。面白かったんだ」
さも意外だ、といいたげな顔で返されたので不思議だった。が、先輩はすぐに言葉を続けて、
「じゃ、親父にもそう伝えとくよ」
「え、お父さんですか」
「うん、これ同人誌だから」
「同人誌っ?」
朝っぱらから素っ頓狂な声を上げてしまう。
「装丁が凝ってるからね。気づかなかったでしょ。でも中身は素人くさい」
そういいながら、先輩はどこか楽しそうに話す。
「二十歳のお祝いで送ってきたんだよね。ちょっと痛くない?」
「わたしはすきですよ、そういうの」
「貰ったことないからいえるんだよ。想像してみ、二十歳になったちょうどその日に、自分の父親が成長日誌みたいなポエムを送ってくるの……」
腕を組み、思い浮かべてみる。すぐにやめた。きもちわるい。
「ドン引きです」
「でしょ。そういう本なの、これ」最初の歌を開く。「『春を待つ』……」
「春は遠いですね」
「それ。いつになることやら」
テーブルに本を置き、先輩は昨晩みたいにベッド下の収納を漁りはじめる。で、「なに着る?」と訊かれた。昨日の服、といったら即刻却下されて、シャギーセーターを一枚見繕われてしまう。
「朝ごはん買ってなかったし、どっか食べに行こうぜ。講義、何時から?」
「午後です」
「一緒じゃん」
と、チェックのロングスカートまで渡されて、着せ替え人形だった。ゆっくり準備するか、なんて呟きながら先輩はふらふらお兄さんの部屋に入る。
とりあえず――顔洗うか、まぁ。洗面所に向かう。
「あ、いつきちゃーん」
「なんですかぁ」
ちいさなブラシに歯磨き粉を乗せながら返事をする。先輩はリビングからひょっこり顔を出して、
「春で思い出したんだけどさ」
「はい」
「コハルちゃんとは、あれからどうなったの?」
「コハルちゃん……」
「あれ、覚えてない?」先輩は首を傾げて、「それとも、名前だけ抜け落ちちゃってるやつかな。ほら、バレー部の。いつきちゃんに片思いしてた子」
「……あっ」
思い出した。A子。コハルちゃん。
鬱陶しい男につきまとまれて、泣きながらわたしに告白した女の子。
わたしが傷つけた女の子。
いきなり記憶のピースが穴に埋まって、あぁそうだ、そんな名前だったとあっさり腹に落ちる。で、こんどはだんだん不思議に思えて、
「どうしてまた、コハルちゃんの名前が?」
「いや、なんか、ずっと聞きそびれてたな、と」
「うーん……?」
「その感じ、覚えてなさそうだね」
先輩は面白そうに笑って、ピンクの歯ブラシを手に取る。
「だったら、逆にどこまで覚えてる?」
「どこまでもなにも、わたし、あの子にひどいこといって……」
「うん。それから?」
「それからって――それっきりですよ」
「ふふ、和解したじゃん、そのあと」
「え」
「あたしに泣きながら電話してきたの、いつきちゃんでしょ。忘れてた?」
「……」
わたしは首をひねる。思い出せない。でも、なにか、心のどこかに引っかかる節がある。
もしかしたら、本当に――
「けど、そっか」と、先輩は肯く。「あの子、もういつきちゃんに近づかなかったんだね。本当にそれっきりなんだ」
「先輩、わたし……」
「うん」
「話したことありますよね、虐待のこと」
「うん、聞いたことある」
わたしはシンクに右手を突き、ぼんやりとミサンガを見る。ミサンガで蘇るのは中学生のころの記憶だが、いま思い出そうとしているのはそれよりずっとむかしのことだ。
「朝っぱらからする話じゃないですけど……」と、微妙に軋むような痛みがするあたまを押さえながら、「実の母親に、殴られたことあるんです。とくに覚えてるのは、小三の誕生日で。本当はすごくうれしいはずの一日だったのに、一瞬で地獄になりました」
「うん」
「たぶん、その日から……わたし、いろんなことに忘れっぽくなったんです。いろんなことっていうのは、自分の誕生日の日付を忘れたり、ひとの名前が覚えられなくなったり……」
わたしは何の話をしているんだろう。鏡のなかで、ひとり滔々と語っている自分の似姿を見つめる。先輩は黙って聞いてくれている。
「コハルちゃんのことも、そうです。あの子の名前、さっき聞くまでちっとも思い出せなかったから。ちょっとでもいやなことがあると、記憶に封をしちゃうんです。そういう癖がついちゃって」
「うん、そっか」
「そのせいで、わたし……忘れちゃったことばかりです。子どものころから、ずっと……いやなことも、うれしいことも、些末で無意味なことだって、たくさん忘れてきました」
「……」
「ちゃんと思い出せますかね、わたし」
「――コハルちゃんさ」と、先輩はにやりと笑った。「既読つかないことで有名だったから」
「……」わたしは鏡越しに目を丸くする。「そうなんですか?」
「あんまり携帯見ないらしくて。いつきちゃんと同じだね。いまはどうか知らないけど……連絡するなら、早めにしといたら」
「なんか」わたしは口を尖らせて、「ぜんぶ見透かされてますね」
「先輩だからね」と、先輩は歯ブラシを口に突っ込む。「連絡先、あとで送ったげるよ」
「どーも」
彼女はリビングに戻っていく。わたしはひとり残ったまま、ずっと鏡を見つめる。
顔が、からだが、くすんで見える。魂の籠っていない、空っぽの人形。わたしにはずっと、わたしがそんなふうに見えていた。いまだってそうだ。
それでも、わたしはここにいる。
なんとなく、そう思う。
大きく口を開けてくわえた歯ブラシは、とっくに乾いていた。




