01 ミサンガ①
本作は『ムーン・ダンス』( https://ncode.syosetu.com/n6393hu/ )という昨年8月に投稿した2万字ほどの連載小説の続編となっています。先に前作をお読みいただけると、本作をより楽しめるかと思います。シリーズとしてこの二作をまとめますので、そちらからご覧いただけます。
You’re my love.
Ⅰ ミサンガ
ファーストキスは中学二年生のときだった。ちょうどいまみたいな冬も本番になったころ、だいたい十二月のあたまぐらい。数日前にいもうとからいきなり赤いマフラーをもらって――いま思うと、あれはわたし宛ての誕生日プレゼントだったが――ずいぶん大事に巻いていたのを覚えている。それに近所のスーパーで買った安物の手袋とピンクの耳当てを加えて、わたしは完全防備の態勢だった。むかしっから寒がりなのである。
彼女とは、学校帰り、最寄り駅のホームで出会った。この「出会った」というのは難しい言葉で、わたしたちはそれ以前から互いに顔を知っていたし、だからそのとき、その場所で、初めて出会ったということではない。それにずっと仲の良い間柄だったし――とはいえ恋仲ですらなかったが、ホームで顔を合わせて二言三言かわすくらいよくあった。ふつうなら、わざわざ「出会った」なんて大仰な表現はしない。
それでもその日、わたしは彼女と出会ったのだ。彼女は、わたしの知っている彼女ではなかったのだから。まったく知らない、寒空につんと鼻を突き出して、憂いを帯びた表情をしたままホームに突っ立っているひと。わたしはそのとき、彼女をきれいだと思った。
彼女はわたしより三つ年上の、当時は高校生だった。二軒隣のご近所さんで、小さいころからの知り合いでもある。わたしにとっては頼りがいのあるお姉さんといったひとで、どんなときでも屈託のない笑顔でいることを特技にしていた。
だからこそ、その日の彼女は異質だった。最寄り駅のホームで、列車を見送る横顔には暗い翳が差し、瞳はハッと息をのむほどグロテスクな赤黒さで濁っている。わたしはその表情をどこかで見たことがあると思った。けれどそれは、彼女の顔ではない。もっと別の誰か、この世に希望なんてものが本当はこれっぽちもないのだと知っているような、彼女ではない根源的に違う誰かがもつべき顔だ。わたしは声をかけるのに躊躇した。名前を呼びかけて、発声の準備は整ってもう喉元まで出かかっていたのに、ぐ、と抑えてうつむいた。そして何も見なかったことにして、無人駅の改札に足を向けようとする。ちょうどそのときだった。
「いつきちゃん」彼女がこちらを見て、微笑んでいた。「いま、帰り?」
思い返せば、きっと、あのとき彼女はわたしを見ていなかった。もっとうしろ、世界の裏側にある陰鬱とした深淵を見つめていた。あれはそういう瞳だった。希望を捨てたひとは、世界など見ない。
「わたしもちょうど帰ってきたところなの」
取り繕ったように笑っている。彼女の顔や手は痛々しいほどに真っ赤だった。あまりにわかりやすい嘘で、かえってわたしは穏やかに肯くことができた。
でも、肯くべきではなかったと、そう思う。
まっすぐ帰るようなことはしなかった。駅近くのちいさなコンビニで400mlの温かい紅茶とピザまんを買い、歩きながら食べた。へんな組み合わせ、と彼女は笑ったが同じものを買っていた。ずんぐりと太ったペットボトルを頬に当てながら、彼女はまっ白い息を吐く。
最近どぉ、と訊かれるので、ピザまんを飲みこみつつ「どうってなに」と返す。
「なにったって、そりゃぁ、学校とか」
「……」首を傾げつつ、「ふつうかなぁ」
「そっかぁ」
「なつみちゃんは」
「うん?」
「最近、どう」
彼女は取り繕った笑みのまま、身をくねらせて、「そうだねぇ」と悩まし気なそぶりを見せる。ふつうといえば、ふつうかなぁ。からからと喉奥から笑い声を出すけれど、濁った瞳はちっともきらめかない。寒い風が吹きつけてマフラーの穂先をもっていった。冬だねぇ、という声が聞こえて、わたしは彼女のほうを向かずに肯いた。からだの芯が冷えていく感覚があって、ごまかすように紅茶を飲んだ。
それから話題はいもうとのことに移っていった。いもうとの結良は、このとき小学六年生になっており、もうずいぶんと落ち着きはじめていた。結良のコンディションは環境に左右されやすい。一緒に暮らすようになってから、それはもう時間をかけてじっくり慣れていき、このごろになってようやく平静になる。学校ではうまくいかないことも多かったらしいが、すくなくとも、我が家なら居心地のいい場所だと思えるようになっていた。
よかったねぇ、と彼女はささやくようにいった。たぶんそれだけだったと思う。わたしが結良の近況をさんざん述べても、彼女は結局、それ以外の言葉を返さなかった。興味が失せたとか、そもそもろくに聞いていなかったとか、いかようにでも解釈できるがきっとどれも微妙に違う。思うに、わたしの話に興味を示そうにも、耳を傾けようにも、できなかった。彼女にしかわからない意味で、そこに彼女はいなかった。
で、話のネタも尽きてきたあたりで、いよいよ沈黙が降った。そうなるともうどうしようもない。ぼんやりとした足取りで、わたしたちは黒ずんだ町を歩くしかなかった。
遠くに午後六時を告げる『花ぐるま』が響いて、もうそんな時間かぁ、と彼女がぽつりとつぶやいた。それでもわたしたちは家に帰らなかった。いや、帰路につかなかったのはあくまで彼女であって、わたしはそれについていっただけである。そのわけは――実のところ、よくわからない。ただ、中学生になって、家の門限があいまいになったころ、ふと外をふらついてまだ帰りたくないなんてことはだれにでもあったと思う。わたしのなかにあったのは、所詮そのていどの悪びれることもできない気持ちだろう。
でも、だからといって――あてどもなく彷徨するには厳しい季節だった。日の暮れたころになれば、なおさらである。どことなく家とは反対方向に歩きながら、なんとなくわたしたちの目的地を探していく。嵩が減るたび冷めていく紅茶を片手に、いつのまにか行先を見つけている。それはどちらかが口にしたわけでもなく、かといってまったく示し合わせなかったといえばうそになるような、漠然とした確実さによる道のりだった。
やがてわたしたちは、一軒の薄らぼけた空き家にたどりつく。それは古い平屋建ての一軒家で、ところどころにツタが張っていたり、屋根が朽ち果て、崩れていたりする。一見するとただの打ち捨てられた廃墟で、というかまったくもってその通りなのだけれど、わたしたちにとっては違った。ここはむかしの秘密基地だった。
わたしが小学五年生のとき、近所の子どもたちで徒党を組んで不法侵入を繰り返した場所である。誰もいない居間にレジャーシートを引き、ラジオや雑誌を持ち込んで遊べる環境にしてしまったら、あとはお菓子やジュースを持ってくる。それだけで立派な秘密基地の完成である。わたしと彼女は積極的な参加者というより、むしろ保護者的な立ち位置にいて、メインメンバーはもっと年下の子どもたちだったが――それでも、たまに顔を出すていどには参加していた。結良を連れて行ったことも一度ある。
この秘密基地はたしか半年ほど続いたが、運悪く近所のおじさんに見つかったきり、放棄されたと聞いている。わたしと彼女はその現場に居合わせなかったので詳しく知らないが、どうやらこっぴどく叱られたらしい。子どもによっては親も呼ばれてしまったというので恐ろしいことこのうえない。ただ、どのメンバーも他の参画者を売らず、その点のみ黙秘を貫いたのは称賛に値することである。おかげでわたしと彼女は大目玉を食らわずに済んだし、同じように助けられたメンバーはほかにもいた。
ともかく、数年前にあっさり雲散したかつての秘密基地に、わたしたちは足を踏み入れた。玄関から入ることはない。そもそも玄関の引き戸はてこだろうと動かない。こっそり裏口から入るのである。この開き戸をあけるにはコツが必要で、ドアノブをひねり、ぐっとうえに持ち上げながら一度押し、それからゆっくり手前に引くのである。そうするとすんなり開くし、なにより、あまり音が立たない。
彼女が携帯のライトを点けて、先だって進む。ほこりと腐った木のにおいが混ざり合って、気持ち悪いがなつかしいにおいだった。台所から居間に進む。屋内は数年前より荒れており、天井の崩落や草木の浸食は記憶と照らし合わせるまでもなく、ずっとひどいとすぐわかった。居間に出る。がらんとしてだだっ広いだけの部屋に、まだレジャーシートが残っている……どころか、かなりきれいだ。ライトで照らされたシートにはかわいいキャラクターが発色よく残っており、見る限りでは新品同様である。土のひとつもかぶっていない。
「まだ誰か使ってるんじゃない?」と、彼女は目を細めていう。「懲りないねぇ。まぁわたしたちも、そぉか」
ありがたくシートを使わせてもらうことにして、わたしはスカートを押さえながらゆっくり座った。小学生の遠足に持っていくような、こういうシート独特のざらりとした質感はひさしぶりで、胸の奥がくすぐられるような感じだった。彼女はシートに座り込むまえにライトで周囲を探索して、小型の電池式ランタンを見つけてきた。ぱちん、と点けると人工的な橙色の灯りがわたしたちを照らした。彼女が携帯をしまうと、もう光はランタンの明るさだけになった。
ようやく彼女も腰を下ろすと、すぐに、ふぅ、と安らかなため息をついた。ランタンの光に照らされる彼女の瞳は、濁った色がうまく見えない。濁りが消えたとか、そういう簡単な話ではなく、むしろもっと単純明快なことで橙色の灯りは弱かった。暗闇のなかで暗闇を見つけることはむずかしい。夜に閉じ込められた場所で、ろくに照らせないちいさな光はやはり頼りなかった。
「寒いね」
わたしは、うん、と首肯する。彼女は魂が抜けていくような力ない笑い方をして、またため息をつく。
「ごめんね」
と、彼女はぽつり、こぼした。それからすぐに足を抱えてうずくまるようにしたので、わたしはろくに言葉を返せず、似た感じでうつむくしかなかった。
ごめんね。
暗闇のなかをふわふわと彼女の言葉がただよい、耳元で反響する。真意のつかめないまま、空気は重苦しさを増すばかりでいたたまれない。もうすっかり冷えてしまった紅茶をてのひらに転がしながら、わたしはじっとしていた。体温が奪われていくのを感じる。首元だけ、赤いマフラーに熱が閉じ込められてあたたかい。
時間の流れは不明瞭なまま、しかし夜は着実に深まっていく。どれほどふたりで縮こまっていたのだろう。家に帰らないと。そう思ったが、からだが動かない。暗闇の魔力。もうすこしここにいるべきだと、何かが思わせているのか。それとも単に、ちょっとした反抗心の芽生えだったのか。とにかく、きっと家に帰ったら、結良とお母さんにこっぴどく叱られて、こんな遅くまでなにしてたの、連絡もなしに、心配したんだよ、なんていわれると思う。そういう想像はつく。つくが、動けない。からだが固まってどんどん息がしづらくなる。まるでこの世界にひとりぼっちみたいな感覚……
でも、そういう魔力は得てして一瞬でとけるものだった。
「あっ」
と彼女がいきなり叫ぶ。わたしは一気に背筋が伸びて、勢いよく視線を動かしていた。彼女の手元にちぎれたミサンガがあって、つなげられた鍵がゆあーんとぶらさがっている。
「切れちゃった」意外そうにいう。「切れちゃったよ」
「切れていいんじゃないの」
彼女は丸い瞳でわたしを見、それから肩をすくめた。うん、ふつうならね。それからまた切れたミサンガに視線を戻す。赤と青と黄。三色の糸で編まれたミサンガは、毛羽だったりくすんだりしてそれなりに古そうな見た目をしている。
「ミサンガなんて、持ってたんだ」
「あぁ、これねぇ……」愛おしそうにミサンガを見つめる。「彼氏にもらったの」
「へぇ、彼氏、いたんだ」
「うん。いまはもう、どうでもいいことだけどね」
数秒、伏目がちになって、またすぐに視線をミサンガに戻す。わたしは――返事に困っている。口ぶりから察するに、彼氏といざこざがあったことはたしからしい。
「何か……」あったの、とは訊けずに、「お願いごとしてたの」
彼女は答えなかった。代わりにわたしの名前を呼んで、ちょっぴり口元を緩めた。
「片方持って」
と、ミサンガの切れ端を渡されるので、戸惑いながらも親指と人差し指で受け取る。わたしと彼女を一本の平べったい線が紡いで、あいだに鍵がゆったり揺れている。
「ミサンガ、っていうのはね」彼女はゆっくり語りはじめる。「切れてしまったら願いが叶う、というけれど、それはね、切れてしまったらの話なんだよ。切ってしまったら、願いは叶わない。わたしたちが見ているときに、じぃっと見ているときにね、そして指で触っているときに、ぷつ、と切ってしまったら、それはいけない。願いなんて叶わない。願ったことすら愚かしいくらい、いけないことなんだよ。いつきちゃん、大事なのはね、切れてしまったら、ということ。誰も見ていない、カバンのなかやポケットのなかで――もし身に着けているのならまったく意識していないうちに――ふいに切れてしまったら、いいの。誰にも気づかれないうちに、ひっそりと、実は元から切れてましたよってくらい当然に切れてしまっていないと、だめ」
彼女がミサンガから手を放す。するりと鍵が落ちて、レジャーシートに、けしゃんと音を立てる。
「なつみちゃん」
わたしの声に、彼女はたっぷり微笑んだ。それは、その日、彼女が浮かべた笑顔のなかで、もっとも笑顔らしくない笑顔だった。
「先月ね」彼女はおなかをさすって、いった。「生理が来なかったの」
軒先を自動車が通り過ぎて、エンジン音に合わせて、秘密基地は揺れた。彼女はあくまで笑顔を崩さずに、わたしが手放せないでいるミサンガを見つめていた。すぅ、と音を立てて息を吸う。
「産めますようにって」
冷えたわたしの手を、冷えた彼女の手が包み込む。手を華奢な指でこじ開けられて、そのままミサンガが落ちた。あ、と思った。わたしはゆっくりと抱き寄せられて、キスをした。哀しいと思った。愛しいと思った。わたしは彼女がすきだった。
つめたい、と彼女は笑う。うん、とわたしも釣られて笑う。きっとこんなものを恋とは呼ばない。それでいい。それで充分だし、ここで処女を喪ってもよかった。捧げる価値があるのならこのひとに捧げたいと、本気で思った。
でも、そうはならなかった。彼女が、わたしのブラウスのボタンをはずしているうちに、急に泣き崩れてしまったのだ。ぶすぶすと針のように突き刺す寒さのなかで、彼女はわたしのはだけた胸のうちで泣いた。みゃあみゃあと、産まれたての赤子のように声をあげて泣いた。わたしも釣られて泣いていた。泣きじゃくる彼女のあたまを、熱い涙に濡れた手でさすることしか、できなかった。それしか赦されなかった。
それからどうやって家に帰ったのか。帰路の記憶は混濁してうまく思い返せないが、ふたりしてふらつきながら、支え合って歩いたのだと思う。家に帰るなり、お母さんはすぐに出てきてさんざんに叱ろうとしたが――わたしの目の赤く腫れていることに気づくと、やさしく抱きしめてくれた。わたしはまた泣いた。銃で風穴をあけられたような喪失感に耐えきれなかった。
一週間後、彼女は遠く離れた町の駅で、死んだ。飛び込み自殺だった。葬儀は身内だけで粛々と行われる予定だったが、わたしだけは無理をいって参列させてもらった。彼女が、火葬場で焼かれたとき――その白い煙を、火葬場の外でながめたとき、ひとが死ぬということをわたしははじめて理解した。迎えに来た父の車で、嗚咽を漏らして泣き続けていた。