彩の思い
そして静かに2ヶ月が過ぎた。
「斎藤君、高橋君を何とかしたいのだが……」ふと社長が絵美に語りかけた。
「それは、あの人をもっと活用したいということなのですか?」
「いやー、私もどうしたらいいのかわからないんだが…… 」彼も悩んでいるようだった。
「私は、あそこであの人に救われました。何故なのかわからないのですが、でも、あの人に救われたという実感だけはあります」
「ほうー、なるほど……」
「先日、同期の女性社員が、仕事で失敗して落ち込んでしまいまして、優秀な人だったのですが、どうしてそうなったのか、原因が解らなかったので、とりあえず、気持ちの整理をした方がいいと思いまして、1週間、資料室のヘルプを社長名でお願いしたのです。勝手なことしてすいません」
「いやいや、全然かまわないよ、それで?」
「1週間したら、元気になって復帰しました。でも、先輩に噛みついていました」
「ええっー、」
「どうも、先輩からの指示で動いていたのですが、その指示に誤りがあったみたいで、それを自分のせいにされて、悩んでいたらしいのですが、資料室から帰ってくると、先輩にそのことを認めさせたらしいです」
「すごいねー、彼は、そんなところで活躍しているのか……」
「よくわからないですよね、でも、藤原さんが以前に興味深いことを言われていました」
「……」
「あの人に初めて会って話した時に、私、本当にうれしくてお礼を言ったら、それは高橋さんのおかげなんだって…… 確かにあの人がいたから藤原さんに巡り会えたわけで……」
「藤原さんが言っているのは、なんか、人の持つオーラとか、運気とか、そんな話なのかな?」
「私には何となくそのように聞こえました」
「彼も、あそこがいいみたいだし、しばらくはこのままにしておくかね」
「はい……」
一方、彩の仕事も順調であった。
山河精密機器㈱の社長から紹介された数社との交渉が順調に進み、彼女は忙しい日々を送っていたが、それでも時々、高橋と食事に出かけ、時間を共有するようになっていた。
「斎藤さんは活々しているよ。君のおかげだよ」
「うん、時々、電話が入るし、メールも……」彩が微笑む。
「そう……? 」
「あなたはどうなの…… 資料室が一人になって寂しいんじゃないの……?」
「それがさー、時々、ヘルプだとかなんとか言って、短期で人をよこしてくるんだよ」
「へえー」
「仕事がないのに何をヘルプするんだよ…… わけがわからないんだ」
「徐々に、それが仕事になっていくんじゃないの……」
さらに1ヶ月が過ぎたころ、彩は高橋からの誘いを心待ちにするようになっていた。
彼女は、高橋のことを死ぬほど愛していたわけではないが、それでも彼に癒されている自分に気づき、自分なんかとは比べ物にならない大きな翼の中にいるのではないかと思うようになっていた。
そのうちには、この男と一緒になれば、幸せに生きていくことができるかもしれない、と漠然と思うようになっていた。
8月中旬のある日、高橋は彩を【居酒屋絵美】に招待した。
「いらっしゃーい、お久しぶりです」店員が注文を取りにやってきた。
「ここはさ、斉藤絵美さんの実家なんだよ」高橋が微笑むと
「へえー、活気がすごいね」彩も嬉しそうだった。
しばらくすると、大将があいさつにやってきた。
「お世話になっています。最近は毎日が充実しているみたいで…… 高橋さんのおかげです」
「とんでもないです。この人のおかげなんですよ」
「えっ、高橋さんの彼女さんですか?」
高橋は無言で彩に微笑んだが、大将の表情が一瞬曇ったのを彩は見逃さなかった。
「藤原彩と申します。素敵なお嬢様で、お父様も鼻が高いのではないですか」
「はあ、でも、親としては仕事よりも早く結婚してもらって、孫の顔が見たいんですけどね、ごゆっくりしていってください」
彼の寂しそうな笑顔が印象的だった。
彼が去っていくと
「この前さ、偶然に前田にあってさー……」
「えっ、前田って、あの警視庁に行った?」
「そうそう、同じ大学だったでしょ」
「えっ、ええ、まあ……」
「あれー、歯切れが悪いねー…… 何かあったの?」
「いえ、とくにはないけど、その前田がどうしたの?」
「君に会いたがっていたよ」
「私は会いたくないけど……」
「あいつさー、今、担当している事件が大変らしくて、まいっていたよ」
「へえー、そうなの……」
「君の意見が聞いてみたいって言っていたよ、同じ、研究会だったんでしょ、犯罪なんとか……」
「犯罪推理研究会よ」
「ああ、そう、それそれ、当時から藤原さんの推理には驚嘆していたらしいね」
「あいつはね、正義感だけが強くて、周りが全く見えないのよ、つまらない男よ」
「フーン、俺はいいやつだと思うけどね、高校時代からあいつのことは知っているけど、裏表がないっていうか…… 」
「どうでもいいわよ」
「やっぱりね、何かあったんだ……」
「あなた、最近変わったわね、ついこの間まで人のことなんて気にもしないで、ぼっーとしていたのに……」
「えっ、そう?」
「うん、あの滝宮の事件以来、なーんか、人の言動に注視している……」
「はははっはは、相手が藤原さんだから、興味があるだけだよ」
「何なのよ、それ、口説いているの?」
「とっ、とんでもないよ、そんな大それたことは考えたこともないよ」
「どっ、どういうことなのよ。女としては魅力がないっていうことなのっ?」「違うよ、尊敬しているんだよ。それに、君や斎藤さんと話していると、分相応っていう思いが強くてさ……」
「私や斎藤さんは、あなたには釣り合わないってことなの?」
「そう、君たちを奥さんにすることができる男っていうのは、相当な人物なんだろうなって思うんだよ」
「……」
( そうか…… 女の私から見れば、この人といれば癒されると思っていても、彼からすれば、日ごろの私たちを見ていると、住んでいる世界が違うって思うのか……)
「どうかしたの……?」
「うーん、背の低い男性がね、背の高い女性にあこがれてね……」
「うん……」
「周りから見ると自分よりも背の高い女性なんて恥ずかしいでしょって思うんだけど、その男性は、そんなことは何でもないのよ」
「うん、そうだね。俺の知り合いにもいるよ、163㎝なんだけど、170センチ以上の女性と付き合いたいって…… 」
「そういう人が多いらしいね」
「急にどうしたの?」
「だけどね、背の高い女性は、自分よりも背の低い男性は嫌なのよ。私の知っている背の高い女性は皆、そうなのよ。絶対に自分よりも背の高い人じゃないといやって……」
「それも聞いたことあるけど……」
「ふーう……」
「何が言いたいの? よくわからないよ……」
「そうね、わからないよね……」
「ええっー、今日の藤原さん、おかしいよ」
「ふーう、そうね、確かに……」
「酔ったの……?」
「わかんない……」
彩はその日、自分の思いは高橋には届かないことを痛感してしまった。