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年下の美少年

 4月中旬、まだ肌寒さの残る夜の8時、コンビニを出た永井友樹は男に追いかけられ、パーキングに留まっていた車の後ろに隠れた。

 その車は、西洋銀行の営業車であった。

 夕方、車で帰社した藤原彩は、帰り際に車に置いていた荷物を取りにやって来て、隠れている彼に驚いた。


「あなた、そんなところで何しているのっ?」

 車の後ろに隠れている少年を見て彩は突き刺すように言葉を投げかけた。


「すいません、変な男に追いかけられて……」まだあどけなさの残る声で少年の困惑が伝わってくる。


「えっ」驚いた彼女はあたりを見回したが、そんな気配はない。

「誰もいないわよ」そう言いかけが、

「あっ、ちょっと待って!」

 

 その時、一人の挙動不審な男がきょろきょろしながら通り過ぎて行った。


「もう、大丈夫みたいよ」

「は、はい、助かりました」少年の安堵が伝わってくる。

「さっきの人は何なの?」不思議そうに彼女が尋ねると

「かわいい男子が好きみたいです……」彼の声は恥ずかしそうで消え入るようだった。


「へえー、こんなところにもいるんだ……」彼女が驚いたように呟くと

「あのー、何かお礼をしたいのですが、お金もなくて……」少年の声がフェードアウトする。


「何言ってんの、大丈夫よ、じゃあね」

「はい、ありがとうございました」


 だが、立ち去ろうとした彼女が突然振り向くと

「ねえ、君、ご飯は?」と尋ねた。

「いえ、これから……」彼はとっさに答えた。

「じゃあ、お礼に付き合いなさい」

「でも、お金が……」

「いいわよ、行きたいお店があるんだけど、女の一人はちょっと恥ずかしくてね、だから誰かいてくれるだけで助かるのよ」彩が初めて微笑んだ。


「それは、ご馳走していただけるということですか?」少年が驚いて尋ねると

「君、おもしろいわねー、それ以外にどんな意味があるのよ」

 彼女は苦笑いしながら彼を見つめた。


「えっ、そうなんですけど、東京は怖いですから……」

「はははっはは、面白いわね」


タクシーに乗った二人は『(いろどり)』という洒落た店に入った。

個室で向き合って座った彼女は、向かいの少年をまじまじと見て

「おまかせでいい?」と尋ねた。

「はい」


 運ばれてきた豪華な和食を前に話が始まった。


「君、本当に男なの?」彩が見つめて尋ねると

「男ですよ、永井友樹っていう男です。そう言って聞かれるの、一番嫌なんです」

まっすぐに目を向けて話した後、俯いてしまったが、この若者は色白で瞳が大きく、鼻筋が細く通っていて、とても美しい顔立ちをしていた。


「あー、ごめん、ごめん」彼女は何となく彼の訴えが楽しかった。

「もう、お袋にそっくりで、嫌なんです」彼はそう言うと再び俯いてしまった。

「へえー、じゃあ、お母さんも相当な美人なんだ」

「まあ、そうですねー、美人といえば美人です」

「ふふっ、でも、息子に美人だって言ってもらえる母親って幸せね」

「そ、そういうものですか」

「そりゃそうよ」そう言う彼女は、やや細めではあるが、どこにでもいるような女性であった。


 ただ、友樹は何故かこの清潔感にあふれた女性に魅かれて、少し緊張していた。


「君、あっ、友樹君は子どもの頃からもてて大変だったでしょっ」

「全然です。男にもてただけです」

「えっ、男性に告白されたの?」

「何度も男にキスされそうになりました。もう無茶苦茶です」

「うーん、わかるわー、かわいい唇してるもんね…」

 彼女は、彼の上唇、中央の【Vの字】がはっきりとしていて、とても美しいと思いながら見入っていた。


「えっ」

「だけど、その人達、ほんとは女の子だって思っていたんじゃないの?」

「そんなばかな、みんな知っていますよ」

「そうなの… 君は好きな女の子はいないの?」

「昔はいたけど、振られました」

「えっ、付き合ったの?」

「いえ、告白したら、ちびは嫌いだって…それ以来、皆からユキちゃん、ユキちゃんって言われて……」彼は唇をかみしめて俯いてしまった。


「えっー、私は気にならなかったけどね、何センチなの?」

「自称165ですけど、ほんとは163㎝しかないです」

「へえー、私と一緒か……」

「……」

「確かに、それだけの美貌で180㎝ぐらいあったら、芸能界ね」彼女はまじまじと彼を見つめながら感心していた。


「俺の唇ってセクシーなんですか?」彼が突然語気を強めた。

「えっ、どうしたの急に……」慌てた彩が尋ねると

「いや、さっき、かわいいって……」友樹は恥ずかしそうにめを伏せたが

「うーん、かわいいのと、セクシーなのはちょっと違うかな」

 彩が少し眉をひそめると

「どう違うんですか?」すかさず問いかけた。


「友樹君、難しいこと聞いてくるのね」

答えに困った彩は話を変えたいと思ったが

「えっ、気になるんです、まだキスしたことないんです」彼の心にはあわよくば、という思いが生まれていた。

「えっ、そうなの……」


「……」彼は言葉にはしてみたものの恥ずかしくてあとが続かなかった。


「セクシーって言うのは、やはり性的欲望に関わっているかな、だけど、かわいいって言うのは、赤ちゃんがかわいいからチュッってするでしょ、あれに似ているのかな」彩が微笑んで思いを語ると

「俺の唇は赤ちゃんですか……?」彼が悲しそうに呟いた。

「そんなにがっかりしなくても、セクシーだとも思うわよ」彩が慌てて付け足すと

「ほ、本当ですか、じゃあ、キスしてくれますか!」彼が目を輝かせた。

「き、君、歳はいくつなの?」驚いた彩が尋ねると

「18です。大学に入ったばかりです」彼が瞬時に答えたが

「私は30なのよ、歳相応の人がいるでしょ」彩は少しうれしかったが諭すように話した。


「だめです。大学のゼミでも、女子は相手にしてくれなくて…… 『かわいい、ペットにしてすりすりしてあげたい』とか、『妹みたい』とか、馬鹿な奴は『あなたみたいな子どもが欲しい』とか……」唇をかみしめた彼は悔しそうだった。


「そうなの…… でもそれはたまたまじゃないの、私が同じゼミにいたら、絶対に君と付き合いたいけどねー」彩が微笑むと

「えっ、本当ですか!」彼は身体を乗り出した。

「ちょ、ちょっと、そんなマジにならなくても……」

「なりますよ、俺、まだ男になっていないんです」


「そりゃ、キスしたこともないんだったら、そうなんでしょうけど…… 」彼女は静かに返したが

「俺、男になりたいんです。俺として下さいっ!」少年の一生懸命が伝わってくる。


「ちょっ、ちょっと待って! 君、かわいい顔してるのに、とんでもないこと言うわねー」突然の訴えに彼女は驚いたが、懸命に平静を装って大人の女を演じた。


「だめですか? 1万円ぐらいだったら払います」彼は必死だった。


「馬鹿、そんなことは思っても口に出したらだめ、失礼でしょ。お金出して男になりたいんだったら、どこでもあるでしょっ」突然彩が叱るように話すと

「いや、でも、誰とでもという訳には……」少年は眉をひそめたが、俯きはしなかった。

「そうでしょ、だったらお金じゃないでしょ。お金出して、やらしてもらったって空しいだけでしょ」言葉が優しくなると

「はい……」少年は少し安堵した。


「だったら、そんなことは口にしないの……!」

( なかなかいいこと言ってるなー )

「はい」


「でも、いいわよ、そんなに望んでくれるんだったら、相手してあげる」

( こんな美少年とだったら私だって…… )

「ほ、本当ですか!よっしっ!」彼の渾身の思いが伝わってきた。


 個室を出た時、彩は二人連れの男性と目があった。


( あれ、藤原さんに似ていたな…… )

その内の一人、高橋がそう思った時、

「いい年して、何なんだ!」

 もう一人の男性が吐き捨てるように言った。


「えっ」高橋が驚くと

「あんな若い男を連れて、何を考えているんだ、色ボケかっ」

「えっ、部長、そんな風には見えなかったですけどね」

「お前は、女を見る目がないんだよ、これからやりに行くところだよ」

「えっ、何を?」

「もういいよ」


 この高橋は、彩の高校時代の同級生で、かつて彩にあこがれていた男性であった。


 そしてその夜、二人は……


 ここから、彩と友樹の同棲生活が始まった。

 しばらくは楽しい日々が続いたが、彩はいつも自分に言い聞かせていた。


( 一回りも歳下のあの子と、結婚なんてできない、それどころか、彼氏にもならないわよ……  腕を組んで外を歩くことだってできない。「男になりたい」という彼の望みを叶えて上げただけ )


 長くは続かないことをいつも自分に言い聞かせ、終わる時には大人の女を演じたいと、彼女は思っていた。


 2週間後、ゴールデンウイークの初日、彼は母親からの強引な電話によって、静岡の実家へ足を運んだ。


 夕食後

「ねえ、友樹、彼女ができたの?」母親からの突然の質問に驚いた彼は

「どうしてわかったの?」

「何となくね…… だけど名前とどんな人なのかは教えておいてよ」

「どうしてだよ」

「何言ってんの、あんたが強引に迫って子供でもできたらどうするの」

「か、母ちゃん、大丈夫か? 俺がそんなことするわけないっしょ」

「わかんないわよ、パパの血、引いてるんだから……」

「えっ、母ちゃん、無理やりやられたの?」

「そうよっ」


「えっー」驚いたのは隣で聞いていた妹だった。

「それ、ほんとなの? パパってそんな激しい男なの?」

 急に騒ぎ出した妹に


「うるさい、しずかにしろ……」低い声で友樹が彼女に目を向けると、今までにこんな兄を見たことはなかった彼女はどきっとした。

兄とはこれまでクラスメートのように話してきた。

意識していた訳ではないが、少なくても今までに男であるという認識を持ったことはなかった。

その兄が、急に男の一面を見せて彼女は驚いてしまった。


「名前は藤原彩…… 年上なんだけどいいかな?」

「何故だめなの? それって、女性のこと、馬鹿にしているでしょっ」

「えっ、そんなことはないよ」

「パパはママより10歳年上だけど、逆だったらおかしいの?」

「世間一般では、おかしいだろっ」彼は思ってもいないことを口にした。

「そんな一般論の方がよほどおかしいわよ、詰まんない男」

 母は、ふん、何よ、という感じで横を向いた。


(10歳ぐらい上でもいいのか…… )

 それを聞いた彼は、思わず微笑んでしまった。


「何がおかしいのよ、詰まんない男のくせに……」

「いや、母ちゃんはすごい女だなって思って……」

「褒めているの?」

「もちろんだよ」


 そこまでの息子を見て、母は、(こいつ、やっと男になったな) そう思ってうれしかった。


 彼が部屋へ帰ると、

「ママ、お兄ちゃん、何か男らしくなったね」妹が囁いた。

「そうね、やっとね」


 彼は翌日、彩のもとへ帰った。


 その後も静かに時間は過ぎて行ったが、彼はほとんどの時間を彩のアパートで過ごした。

料理の上手い彼は、時々、彩が驚くような夕食を作ってくれることがあって、彼女も心地よいこの空間に幸せを感じていた。


 ある日、

「ねえ、アパート引き上げたいんだけど…」

「えっ、完全に同棲にするってこと?」

「そうすれば、家賃も半分払えるし……」

「それは…… でもね、よく考えて見て。あなたと私が結婚することはないのよ」

「どうしてそんなことが言えるの?」

「お願いだから聞いて…… 私はね、友樹よりも12歳も上なの、あなたは、今は女生との初めての生活で、これが全てみたいに思っているかもしれないけど、その内に自分に見合った年齢の人に魅かれるようになる。アパートまで引き払ったら、その時、どうするの? ここに住んだまま、別の若い女性と付き合ってもいいけど、叔母と甥になってもいいけど、でもそれって、相手の女性に不誠実でしょ。そしたら、その時には私たちは、やはり終わりにしないと……

いつかはそう言う日が来るわよ、だからアパートは確保しておくべきだと思うわよ」

 彼女は自らに言い聞かせるように懸命に諭した。


「どうして、そんな終わることが前提なんだよ」

 言われるまま、黙って聞いていた彼は少しいらだっていた。


「でもね、お互いにそこは頭に入れておかないと……」

「だけど、そんなこと言われたら、俺が彩ちゃんの人生、邪魔しているだけになるじゃないか、俺がいたら新しい彼氏だって作れないし、結婚相手なんて探せないでしょっ」そう言って反論する彼に

「私は、どうしても結婚したいと思っているわけじゃないから」

 そう言いながら、彼女は自問自答していた。


( ほんとにそう思っているの?

このぬるま湯が心地いいから、言い訳にしているだけじゃないの?

次の恋が始まるまでの一瞬のぬくもり…… そんなに上手くは行かないわよ、彼がいる間は、次の恋は始まらないのよ、それでもいいの? )


 大学時代から何人かの男性と付き合ってきたが、女を抱くことしか考えていない男、都合のいい女としてしか考えていない男、ギャンブル狂いの男、中にはわけのわかんない男もいた。中でも、銀行に入ってから最初に付き合った男は、最低だった。

 投資で失敗していた30前の男で、金の無心をしてきた。

「銀行から100万円借りて、それを貸してくれ」って…… 

 驚いていると

「尽くしてくれない女は、好きになれないんだ」って言うから、直ぐにさよならした。


 考えて見れば、胸が高鳴るような恋愛には縁がなかった。

 恵まれない時の流れが、幼い頃から描いていた彼女の男性に対する淡い思いを少しずつ、少しずつ蝕んでいってしまった。

 そんな人生が、仕事への色合いを濃くし、【お一人様人生】を長くしていた。


 ただ、いつかは終わりが来るという風に考えているのは彼女の本音でもあった。

 例えばテレビ1つにしても、彼の好む番組は彼女には理解できなかった。

 カラオケに行っても、彼の歌にはついていけなかった。

 決してそれが負担になったわけではないが、それでもやはり歳の差は感じないわけにはいかなかった。

 何にも勝る厳しい現実が彼女を襲っていた。


「ねえ、友樹のお母さんて、何歳なの?」

「えっ、18で俺を生んだって言っていたから、36かな……」

「えっー、36歳なの!  お父さんは?」

「お袋より10歳上」 

「そう……」彼女は驚いたが、それでも「お袋」って言う言葉が似合うようになったなー、と思って少し微笑んだ。

「えっ、どうしたの、何かおかしかった?」

「正直言うとね、出会ったころ、『お袋』とか『親父』とか言っていたけど、あの頃は内心『パパ』とか『ママ』の方が似合うのにって思っていたの」

「ええっー、信じらんない!」

「だけど、今は『お袋』っていう言葉に違和感がない。どうしてなのかなー」

「そりゃー、男になったからじゃないの」

「そうね…… ところでその36歳のお母さんてどんな人なの?」


「どんな人って言われても…… うーん、ただの馬鹿」

「何よ、それっ……! 美人なのに馬鹿なの? どうしてそう思うの?」

「うーん、毎晩、風呂から出たら、パンツ1枚の上にバスローブで走り回っている」

「それって、普通でしょ」

「そこまでならいいけど、突然俺の前に来て、『友樹』って呼んで、パッとバスローブの前を広げておっぱい見せるんだ」

「ぶふっ、ははっ、ははははっはは」

「馬鹿だよ……」

「楽しい、いまだに遊び心持っているんだ…… それで、息子におっぱい見せて、何て言うの?」

「『興奮したっ?』って聞くんだよ、馬鹿だろっ、見ていた妹が『ママ止めなさい、お兄ちゃんは思春期なんだから』って言うんだよ、馬鹿ばっかりなんだよ」

「はははっははっ、お腹が痛い! おもしろい、楽しい、友樹の家族って最高ね」

彼女はお腹を抱えて笑った。


「やめてよ、俺にとっては悲惨なんだから」

「ねえねえ、お母さんのおっぱいってどうなの? きれい?」

「わかんないけど、どこかのいやらしいサイトで見るのと同じだよ」

「じゃあ、きれいなんだ…」

「……」彼も母親を褒められるのはうれしかった。そんな母親でも愛されていることだけはいつも実感していた。


 それでも現実はそんなに甘くはなかった。

 その週の土曜日、二人がファミレスで昼食を取っていた時、偶然にも彩が勤める銀行の支店長に出くわしてしまったのである。


 この人は初の女性支店長で、銀行員たちから信頼も厚かったが、仕事一筋に生きてきた人で独身女性であった。


 彩が「甥です」と紹介した後、同席を求めたが、彼女は奥に入って行った。


 翌日、新規の融資先について支店長に説明を済ませると、呼び止められた彼女はソファに座り二人で向かい合った。

「私も、あなたぐらいの時に、10歳ぐらい若い男性と暮していたことがあるの…… こんな年下と結婚なんてできないのにって、そう思いながらずるずると3年過ごしてしまったの。彼がいなくても、おそらく結婚はしていなかったと思うけど、でも彼が新しい第1歩の踏み出す邪魔をしていたことは事実だと思うのよね。あなたのことだから、大丈夫とは思うけど、決して自分を見失わないようにね……」


「ばれてましたか……」

「そりゃ、わかりますよ」

「すいませんでした」

「それにしても美少年だったわね、最初は、ついに女性に走ったか、って思ったわよ」

「ほんとに……」彼女も苦笑いをした。


 わかっているつもりであった。いつも頭で考えていることであった。いつも自分に言い聞かせていることでもあった。

 それでも、こうして尊敬する人から明確に言葉で言われると、それが現実的な重しとなって覆いかぶさってくるのは避けようがなかった。


 そして2ヶ月が過ぎ、初夏の蒸し暑さが気になり始めた頃、彼の帰りが夜遅くなることが多くなってきた。


( 大学の1回生なんだもの、若い仲間たちと、にぎやかに時間を過ごす方が、30女と夜を共にするよりは、はるかに健全だ…… )

彼女は頭の中で懸命に自分に語りかけていたが、心がついて来ないことがとても苦しかった。


 彼女の不安は、彼が去ることよりも、去って行くことに取り乱してしまうかもしれないという自分自身の感情にあった。

 その時には、冷静に大人の女を演じなければという思いは、出会ったころに感じていた漠然としたものではなくて、明確にその形を整えつつあった。


「今日は、レポートがあるからアパートに帰る」そう言って、彼がいない夜も増えてきた。

彼女は微笑んで送り出したものの ( そんなに遠くないかも…… )そう思っていくらかの寂しさを感じるのはどうすることもできなかった。

一人の夜は、折角購入したセミダブルのベッドが、思いの他、広く感じて、寝返りを打ってもそこにいない友樹に、ふと意識が覚めてしまうことも1度や2度ではなかった。


 朝方、そんな自分を思いだし、

( いつかはいなくなるのよ、覚悟できてないの…… )そう言って自分を責めるのだったが、その虚しさは筆舌に尽くし難かった。


 しかし、その日は突然にやって来た。

「彩ちゃん、ごめん… 」

「どうしたの?」

「彩ちゃんの言っていた通りだった、ゼミの()と付き合ってもいいかな?」

 彼はさわやかに尋ねてきた。

「えっ、いいわよ、ずっーと言ってるでしょ、私たちはいつまでもは続かないって…」

 ( ついにきたか…… )

「うん…」

「好きな人ができたの?」

「うん、彩ちゃんの10年前のような人……」

 彼は目を輝かせて微笑んだ。

「なによ、それ……」


 そしてその次の日から友樹は帰って来なくなった。


 寂しさはどうすることもできないが、毎日のように自問自答していた彼女は取り乱すことなく大人の女を演じきったことに安堵していた。


( また、以前のようになるだけ、甥がいなくなっただけ…… )

 懸命に言い聞かせて、寂しい夜をすごすようになった。



 一方、友樹の新しい彼女は、取り立てて美人という訳ではなかったが、不思議と清潔感のある女性で、明るく、何となく母親に似た感じの女性であった。

 授業の合間にお茶したのがきっかけとなって、友樹の思いは膨らんでいった。


 付き合い始めて2週間目に彼は初めて彼女のマンションを訪ねた。

 フロントオートロックの彼女のマンションは1LDKだが高級感があって、部屋へ入ると、一見きれいにしているようには見えるが、一角に積み上げられた段ボール、彼女が見えないようにわずかに開けた扉の隙間から見えるクローゼットの中は、雑然としていて、彼は不快感に襲われてしまった。

 ベランダの窓を開けて遠くを見つめるそぶりをして足元を見る。 ところどころに湿ったほこりと小さなごみの塊、ベランダの手すりは手を置くのもはばかられる。


 彼は夕食を取った後、その女性の期待を裏切って建物を後にした。

 梅雨の終わりを告げる雨が降りしきる中、彼の脳裏には彩の笑顔が浮かんでいた。














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