終末の放課後、君と別れたら
ある日突然勃発し、たった十日で終わった戦争。
それは僕たちから全てを奪い去った。
家族も家も町も、過去も未来も何もかも。
スマホもネットも使うことが出来ないばかりか、食べ物も飲み物すらも無い。
全てが失われた灰色の世界の中で、唯一学校の一部だけが辛うじてその姿を瓦礫の中に保っていた。
生き残った僕たちは、そんな学校へ、二週間前まで普通に過ごしていた教室へと集まる。
ここに来れば仲間がいる、友達と話せる。
そのことがどれほど嬉しい事だろうか。
僕たちはいつしか昼間には学校に集まり、夜にはそれぞれの寝ぐらへと帰っていくようになっていた。
「だけど今日、ここに来たのは四人だけ」
僕の言葉にふうかがそっと顔を伏せる。
初めは二十人ほどが集まっていた学校にも、戦争が終わってから5日が経つうちに気がつけば一人、また一人と来なくなっていた。
来なくなったものは、恐らく一足先に死んでいるのだろう。
そして、それは僕たちの遠くない未来の姿でもある。
「ま、当然といえば当然だ。学校の周囲には何もないんだから」
そんな木戸の言葉に優香は静かに頷く。
終戦直後、みんなの体力があるうちに大人数での周辺探索は行った。
けれど、学校の周りには食べ物どころか雑草一つ生えていない。
食べるものも飲むものもなく、また探索範囲外にもう一度出る体力も残っていない。
陸の孤島で、僕たちはただその死を待つだけになっていた。
「夕陽……」
「綺麗……だな」
陽が西に傾き始めた。
それを眺めながら、木戸と優香は二人の世界に入り込んでいく。
幸せそうな二人を見ていると、もう僕たちはその間に入ってはいけないような気がした。
「ふうか」
「……うん」
橙に染まるふうかの頬にキラリと輝くものに気がつかないふりしながら問いかける。
「そろそろ、帰るか?」
「うん…………そうだね」
少しの逡巡。
きっとそれは優香と木戸に明日にはもう会えなくなっているかもしれないということへの不安なのだろう。
離れたくない--そんな彼女の心の痛みが手に取るようにわかって、息が出来なくなる。
「おいおい、また朝みたいに湿っぽくなってるぞ!」
「そうだよ! ほら、こんな時こそスマイル!」
僕たちの会話を聞いていたらしく、木戸と優香が二人の世界から現実に戻ってきて明るくはしゃぐ。
しかし、その身体はもはや立ち上がることさえ億劫なようで、寄り添い地面に座り込んだまま。
それでもなお明るく振る舞おうとする気遣いが、なお辛い。
「だって……だってぇ……」
ついに、悲しみの雨がふうかの頬を叩いた。
そんな彼女に、優香が精一杯腕を伸ばして頬を撫でる。
「……ありがとう。私のために泣いてくれて。私のことを想ってくれて」
「うぅ……うぇぇ……」
「ありがとう……ありがとう……でもね、最期は、ふうかちゃんの笑顔を見せて。私の笑顔を、覚えていて」
「うっ、うぅ……うん……うんっ……」
「大丈夫。ありがとう……」
ふうかを抱きしめる優香が、大粒の涙を零しながら僕をまっすぐに見つめる。
「ふうかちゃんを、よろしくね」
「ああ。優香こそ木戸を頼むからな」
「へへへ。任せてよ」
「そうだぞ、うちの嫁さんを舐めんじゃねぇ!」
「〜〜っ!」
二人の笑顔とふうかの涙。
堪えたはずのモノが溢れそうになって、言葉が出てこなかった。
「……うん、そうだな……お前らは最高の二人だ……」
辛うじてそれだけを返事し、顔を伏せる。
次から次へと降りやまない雨に、僕はどうすることもできなかった。
**
「きっと、二人で帰るこの道も今日が最後かもね」
学校を後にして、二人で歩く瓦礫の道。
その道中で、彼女はポツリと呟いた。
「奇遇だな。俺も同じことを考えていた」
二人とも、足元がおぼつかない。
昨日よりも今朝、今朝よりも今。
確実に、そして急速に身体が弱ってきている。
その上で最後に残った木戸と優香との別れを通して、否が応でも自分たちの終わりというものを意識するようになっていた。
「今別れたら、次に会うのはひょっとすると黄泉の国になるかもしれない」
「だね」
「うん」
「……」
「……」
いつになく会話が続かない。
最期になるかもしれないというのに、いや、最期になるかもしれないからこそ、なにを話していいのかが分からない。
「この辺り……」
突然ふうかが立ち止まった。
「確か川だったよね?」
戦争のせいで、痕跡は一切残っていない。
地形は大きく歪められ、どこに何があったのかはこの辺りの以前の地理が頭に入っていなければ想像もつかない。
けれど毎日のように学校への道を通い続けた僕たちにはその記憶がある。
終末の世界で僕らを励まし、支えとなり、そして時に死へと追い詰める、かつての日々の思い出がある。
その思い出をもとにして、僕は頷く。
「あぁ……そうだったと思う……」
両岸には緑が溢れ、清き流れに魚が住む。
ここにはかつてそんな風景があった。
「昔はここに……」
そう言いかけた瞬間、僕の身体がびくりと跳ねた。
身体が固まり、視界は暗く狭くなりゆくなかで、世界がガラリとその姿を変えていく。
「『夢』……」
過去を思い出した。
そのことが引き金となって僕の意識は『夢』の世界へ沈みゆく。
「あっ……」
灰色の世界が急速に薄れ、代わりに広がるのは麗らかな春の景色。
空は青く、遠くには所々若草色に染まった山がゆったりと構えている。
穏やかな川の流れの両岸には明るい色の草花が生き生きとして、その周りを蝶々がゆったりと踊っている。
「あはは! 冷たい!」
声が聞こえた。
振り返るとそこには靴を脱いで川に入っている一人の少女。
「ふうか……?」
「きもちいい! あはは!!」
それは僕が好きになった少女の満面の笑み。
なんでもない日常でふとみえた笑顔。
親友を失って以来見ることの出来なくなった、影のない心からの笑顔。
それは、僕にとって特別なものだった。
「っ!」
ズキリ。
心の奥が痛んだ。
僕はこの笑顔が消えることを知っている。
この子が感じる哀しみを知っている。
この子が抱える痛みを知っている。
「守れなかった……!」
彼女の笑顔は失われた。
その現実を思い出した途端、一つずつ景色が消えていく。
景色が色褪せ山が消える。
流れる水が泡のように形を失い、草花と生き物の気配が消え失せる。
「あの笑顔を守れなかった!」
最後に残った少女。
その顔にはずっと見ていたかった笑顔ではない、この数日の間に脳裏に焼きつくほどに見た表情が浮かんでいる。
その哀しげな影のある微笑に手を伸ばしながら、僕は呟く。
「君を……守れなかった…………」
消えゆく少女。
見ていられずに思わず目を閉じる。
「ありがとう」
「!」
暗闇の中に響く聞き慣れた声。
手に何かが触れたような気がして目を開けると、そこには消えたはずの少女。
「ありがとう、私をそこまで想ってくれて……」
「ふうか……」
「あぁ……あったかい……」
そう言ってふうかは手を離し、僕を優しく抱きしめた。
彼女の身体の温かさが優しく僕を包み込む。
そのぬくもりに思わず想いが溶けて流れ出す。
「……『夢』を見ていたよ」
「うん」
僕の言葉にふうかは優しく頷く。
「君の『夢』だった。昔の、君」
「昔の?」
「変わらないと信じていた、ずっとこんな日が続くんだって思っていた、あの時の記憶……」
そんな僕の呟きにふうかは体を離す。
「拓海くん」
「……」
「私ね、守れなかったって君が呟いたのを聞いて嬉しかった。そこまで私のことを考えてくれているんだって。そして、同時に悲しくも感じたの。私の痛みと苦しみを拓海くんも同じくらい強く引き受けてくれている。そのことが申し訳なくて切なくて……」
少女は再び僕を抱きしめる。
「拓海くんは……あなたは優しいから……私の事まで気にかけてくれる。それが嬉しくてでも申し訳なさと悲しさで胸がいっぱいになって……でもやっぱり嬉しいの」
そういうと、少女は立ち上がった。
「『夢』を、見たんだよね?」
「うん」
「私の、『夢』?」
「……うん」
頷くとふうかは微笑んだ。
「……悠里が『夢』に死んだ時からずっと、『夢』を見れない私は『夢』の世界に憧れてた。だって、悠里がその世界を求めて旅立つほどの世界なんだもん。その世界を見ることが出来たら、その世界に死ぬことができたら、どれだけ素晴らしいことだろうって……そう思ってた」
悠里とはふうかの親友だった少女の事。
僕と同じように『夢』を見て『夢』に囚われ、そして最後は『夢』に死んだ。
彼女が自らその命を絶った時、ふうかは我を失うほどに取り乱した。
ふうかが『夢』を見たいと言うようになったのも、その頃からだった。
それから三日が経ち今では落ち着きを取り戻しているが、それでもショックは続いているらしい。
そんな彼女が自ら親友の話をする事など、悠里が死んでから初めてのことだった。
「ふうか……」
「悠里のいない現実を受け入れることができなかった。だから、彼女がいるかもしれない『夢』の世界に行きたいと思ったの。こんな悲しみだけの世界を捨てて幸せに満たされた『夢』の世界へ……。でも、拓海くんは『現実』の私がいるのを知りながらも、『夢』の私までをも慮って苦しんでいた……」
その目から大粒の雨粒が降り注ぐ。
「現実にはそれほどまでに私のことを想ってくれる人がいる。他人の辛さまで引き受けようとしてくれるこんなに優しい人がいてくれる……。『夢』の世界に行くことなんかより、それが何百何千倍も嬉しい……」
そう言うと、彼女はキッと目を据える。
「私は現実にいる。決して『夢』の世界でも拓海くんの『夢』の中でもない。あなたが『夢』に囚われそうになる時、私はその隣にいてあなたの手を握り続けたい」
「ふうか……」
「私はあなたと過ごしたい。たとえこの終末の世界でこのまま息絶える事になっても、その世界であなたの隣にいたい。--『夢』から醒める間際の拓海くんの言葉でそんな自分の想いに気づいた瞬間、もう私に『夢』の世界は必要ないって分かった。私が現実にいるのに、過去の私の事で目の前の大切な人を悲しませるような『夢』に憧れはもうなくなってしまったんだ」
--ふうかは、『夢』を見ない。
どんなに目を凝らしても、彼女の目の前に広がるのはただ瓦礫の世界だけ。
そんな彼女は最近口癖のように同じことばかり言っていた。
私も『夢』を見てみたい、と。
けれどもそれは、彼女もまた僕とは違う意味で『夢』に囚われていたのだろう。
けれども、その囚われから彼女は自ら抜け出した。
「……僕も、この時間を生きたい」
そして、そんな強さを秘めた少女に僕も力をもらう。
これまでは過去を見ないふりをし、みんなが居なくなったことに目を背け、心を閉ざしてただ生きてきた。
だからこそ、向き合うことも清算することも出来ていなかった過去がゾンビのように衝動的に蘇ってきたのだろう。
きっとそれが『夢』の正体。
「過去から目を逸らしてはいけない……それと向き合わなくちゃ……」
容易なことではない。
見たくもない過去に向き合うことはとても苦しく残酷なこと。
その苦しみから逃れようとする人間の弱さこそ、人が人である所以。
そして、その逃避の末に自らの意思で過去に向き合う強さを得るのもまた人間の強さである。
「僕も……ここにいるよ」
「うん」
「この数週間、色んなことが起きた。でもその結果、僕は君の隣にいることが出来ている……」
「うん」
「これまでも、今も、そしてこれからも、こうしていたい……」
たとえ終末までの残り僅かな時間でも、隣にいたいと思える少女と同じ景色を見ていたい。
そう思った瞬間、一気に視界が明瞭になる。
それまで何か分厚い膜のようなもので覆われていた僕の全てが、一気に解放されたよう。
「あ……」
この終末の世界に色があった。
空は橙、たなびく雲は紅の染まる。
地面は赤地の中に灰色や緑、黒、青というった色とりどりのガラクタが花を咲かせている。
その世界の中心には何よりも美しく儚げな一人の少女の黒髪と白いセーラー服。
「ふうか……」
「うん?」
「世界の終わりって、こんなにも綺麗だったんだな……」
もう迷いはない。
過去にも『夢』にも、もう囚われない。
「……すっかり遅くなっちゃったね」
ふうかの声に、東の空を見ると夜が迫っていた。
「もう、帰らないと……」
「分かってる」
分かっている。
だけど…………
--この終末の放課後に別れてしまえば、明日はもう会えないかもしれない。
そんな想像に身体が支配されて動かない。
ただ放課後に別れるだけのことが、これほど恐ろしく不安に苛まれる事だなんて僕は知らなかった。
だから、木戸に言われたことを思い返す。
--お前も終末に後悔だけは残すなよ。
「もう少しだけ、君といたい……」
終末の時を、ふうかと共に過ごしたい。
ただ、それだけを願う。
「……うん」
ふうかはそれを、ただ受け入れてくれた。
その様が愛おしく、彼女への想いが溢れ出す。
「ふうか……」
「なに?」
「愛してる」
「……」
「愛している。誰よりも、なによりも、いつまでも。君を愛している……」
放課後の夕方。
僕はふうかに想いを伝えた。
ありがとうございます。




