解説?『ドラゴン・アノマリー』
皆さんはテレビアニメ“日本昔ばなし”のオープニングをご存じ、もしくは覚えておられるだろうか。常田富士男さんと市原悦子さんだけで全ての配役をこなす(!)という、七色の声で視聴者を楽しませてくれた児童向け番組の冒頭である。
インパクトにおいてはエンディングの「にんげんていいな」のほうが私には強烈だったが、長い身体をくねらせて緑色のドラゴンが空を舞い、子供がでんでん太鼓を持ってまたがっている幻想的な描写に子守歌のような主題歌がかぶさり、見る度に不思議な気持ちになった思い出がある。
ウィキペディアによれば、前述の情景描写は松谷みよ子先生の「龍の子太郎」が元ネタらしい。図書室でさっとよんだ記憶しかないので、以下は、とんでもなく端折ったうえに私見がまざり、さらに思い出補正がかかった要約である点に注意していただきたい。「龍の子太郎」未読の方は読み飛ばしを推奨する。
◇
主人公の太郎は祖母に養ってもらっているくせに働きもせず、加えて暴力傾向の嫌われ者、おまけに身体に鱗のようなあざがあって魔物扱いされるのでますます歪んでしまうという開幕から壮絶な人生を強いられていました。
そんな太郎ですが、祖母が体を壊したのをきっかけに、母親は龍になってしまったが生きているという秘密を打ち明けられます。(遺言みたいなニュアンス)
まだ見ぬ母に一目会いたい一心で、太郎はニートを脱出して旅に出ることにしました。
また、時を同じくして、仲良しの少女が鬼にさらわれるサブクエストが発生します。
太郎は旅の途中で多くの人たちと出会い、貴重な体験をします。教えてもらった稲作の技術は特筆すべきものでしたが、太郎の故郷には広い平面の土地がなかったので悔しい思いをします。
やっとのことで、母親がいるらしい沼に到着、感動の再会を果たします。太郎がまだ胎内にいたころ、みんなで分けるべき川魚を全部ひとりで食べたら、罰が当たって龍になってしまったと母親は告げます。
話が前後しますが子育ての模様は若干グロ要素を含みます。母龍が自分の目玉をあめ玉の代わりにしたり、究極の親子愛とはいえ今にして思えば凄まじい描写です。
母親を探す旅の途中で新たに芽生えた太郎の願いは、稲作の技術で村を豊かにして食べ物に困らないようにすることでした。そのために、母親の住処である沼を干拓するしかないが、それでは母龍は生きていけません。
ところが、悩む太郎に母龍はすすんで協力し、目の見えない体に鞭打って山を崩して沼を埋め立てを開始しました。人手が足りないので、サブクエストで配下にした鬼(雷様に転職)も使役します。みんな血だらけになりながら、どうにか干拓事業を成し遂げることができました。
太郎は力尽きた母龍をいたわり涙を流します。太郎の涙が龍に触れた瞬間、母親は元の姿と視力を取り戻しましたとさ、どんとはらい。(めでたしめでたし)
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念願の母親との再会、ラストシーンは鬼から救出した少女との結婚式だったはずだが、なぜか私の記憶には残っていない。その当時から他人の幸せが許せなかった可能性が大いにあるが、異形の者への差別から一念発起しての冒険、結局ハッピーエンドといった感じでいわゆる日本伝統の“太郎もの”としては、(浦島太郎と比べれば)読了感は悪くなかったと記憶している。
これを書いていて思い出したが、今は亡き中村勘三郎さんの歌舞伎で、鬼ヶ島後にピザデブニートと化した桃太郎がダイエットして人生をやり直す“太郎もの”があった。ちなみにダイエット・エクササイズは勘三郎さんがデビューしてからの歌舞伎演目をダイジェストで見せて、重ね着した衣装を早変わりで脱ぎ、やせていくというものだ。脚本は渡辺えりさんが書いていたと思ったが、ウィキペディアには載っていなかった。
話がそれたが、“龍の子太郎”にはさらに元ネタが存在する。ご存知の方もおられると思うが、長野県上田地方につたわる“小泉小太郎”伝説がモデルになっていると言われている。※諸説あり。松本地方にもほぼ同名の伝説がある。
◇
お坊さんと若い娘が結ばれて男の子が生まれます。しかし妻の正体は大蛇でした。正体を見破られた大蛇はお坊さんに子供を託して姿を消してしまいます。ところが、お坊さんは怖くなって赤ん坊を川に捨ててしまいました。
捨てられた赤ん坊は下流の村に流れ着き、お婆さんが拾って小太郎と命名されます。すくすく育って頑強な身体になりますが、働こうともせず遊び暮らしていました。
ある日、お婆さんの言いつけで山に薪を取りに行きます。小太郎は怪力を発揮して山じゅうの薪を集め、束にして持ち帰ります。
お婆さんには山中の薪だから梱包をばらすと危ない、一本ずつ束から抜いて使用するように、と伝えますが、お婆さんはそんな馬鹿な話があるかと結びをほどいてしまいます。
結びを解いたとたん、怪力で圧縮梱包(?)されていた薪が爆ぜて家はいっぱいになり、お婆さんは薪につぶされてしまいしたとさ、おしまい。
◇
「エッ、もうおしまい?」
語る相手がお話し好きな子供さんやオチにうるさい方でなくとも、不満気な感想を持たれたりクレーム事案になったりしても仕方のない突然の結尾ではないか。
龍神との交配によって生まれた神格(怪力等)を持っていると推定される子供の怪異譚、水を大事にしない子供に龍神様の罰があたるよ、と諭すための説話だろうか。失礼な物言いを許していただければ、最終回目前で打ち切りになった連載漫画のような尻切れトンボが目立つだけでなく、怪力が原因で死亡事故まで発生している点はスルーで大丈夫なのか。
一体何を考えて救いのないバッドエンドにしたのか不明だが。このようなオチのない昔話はよくあるパターンらしい。小太郎のその後がどうなったのか気になって仕方ないのは、私だけではないはずだ。(調べてもわからなかった)
長くなったが「龍、龍の子(たつのこ、りゅうのこ)」という存在は往馬氏や私にとって、ものすごく魅力的だった、結末が書かれていない(あるいは消された)場合は続きが気になるくらい興味ある存在だった、と言いたかったのだ。
前述の昔話以外にも、日本各地で龍を祭神としたりまたは封印したとされる寺社仏閣や名所旧跡、湖沼や巨石は相当数あるから、ドラゴンは私以外の日本人にとっても身近で魅力的な題材であるともいえる。
たとえば、西国三十三箇所第七番札所の岡寺は、もともと龍蓋寺という名称である。昔々、奈良県の飛鳥地方を龍が暴れまわって民草がえらい迷惑をしたので、お坊さんが法力で龍を池に閉じ込め、蓋をした場所が寺の名前になったそうだ。
奇特な生まれにして異端者、魔物の子あるいは神の子、暴れまわってお坊さんに封印されることもあれば、食糧難にあえぐ村を救う英雄にもなる。
別の個体なのだと考えればいろんな個性があって当然だが、「龍とは、龍の子とは一体何なのだ」と思うくらい種々の龍や龍の子がいて、人間に対する態度も全然違う。
本作の作者である往馬氏も、とにかく正体不明で魅力的な“龍の子”に興味を持ち、今風にアレンジして物語にしたいと思った、と聞いている。
とはいえ、伝説をベースにした絵本作家大御所の設定を踏み台にすることが果たして彼のような素人物書きに許されるのか。たとえオマージュと言いはるにしても、あまりにもリスペクトが足りていない。
さらに、既存の小説やアニメーション、テレビゲームに龍を題材にしたものは多い、というか巷にあふれている。どんな設定を持ち出そうとも全て後出し、盗作や剽窃を疑われないようにするのが精いっぱいの状況で、完全オリジナル新作はありうるのか。そのうえで、ぬけのない高度な設定やプロット組みがはたして可能なのか。
彼は悩んだ挙句、結局“龍の子”の魅力に負けて細々と筆をとることにしたらしい。
まず、アレンジについては、話を面白く膨らますのが難しいので現地(現代日本)仕様をあきらめている。現地仕様はよほど構成や設定がしっかりしていないと、簡単に物語が破綻するから当然だろう。ARMSや刃牙みたいに面白い話ができたら現地仕様も当然アリだが、変身とか雷様とか超常現象の表現が難しいので、現地仕様は物書きのレベルをあげてから挑戦したいとのことだ。
総じて人気の現地仕様小説は、著者の実体験や綿密な取材に基づいたネタ、判じものの場合は巧妙なトリックや仕掛けもしくは陰謀、サイエンスフィクションの場合はもっともらしく聞こえる科学理論や未来道具を盛り込みながら魅力的な登場人物を描き、なおかつヌケのない設定を構築するという三層(あるいはそれ以上の)構造になっている。
そのよく練られた設定が面白みとなり、たとえば、人気のテレビドラマや映画に原作の小説等がある場合、原作を読んでみたら実写版よりオモロイと感じたことはよくある。配役のイメージが違うことはもっとあるが。
したがって「小説家になろう」の分類によれば、ハイ・ファンタジー分野に該当する空想世界冒険劇を目指すことに決めたらしいのだが、読者諸氏が期待するような胸のすくような活躍を描くことは全く約束できないと聞いている。理由は後述する。
まず、本作の世界観について述べたい。トールキン大先生がホビットの冒険を描いたのは八十年以上も前のことだが、あの“中世ヨーロッパ的剣と魔法と竜の世界”観を拝借しないことにはどうにもならなかったようだ。
現地仕様だと神通力か天狗の仕業、もしくはプラズマの影響で全ての超常現象を説明することになり、万人の理解を得難いためだろう。
そのかわり、ドワーフやらエルフやら種族設定は借用していない。なにしろ大先生のファンは多い。勝手に種族設定を拝借した挙句ぶちこわしにしたとあっては、彼の物書きライフは始まる前に強制終了を余儀なくされる。(許可の取り方もわからないらしい)
その結果、種族に関しては人・獣人・魔族およびその混血(つまり繁殖可能)というありふれた設定になっている。これは、他のゲームや小説でなじみ深いものに置き換える努力を彼が試みた結果である、と了解いただきたい。
さらに、主人公の魔力に問題があり他の人は問題がないという差別構造を初期設定としたので、魔法が普通に存在する世界というご都合設定は如何ともしがたかったようだ。
その設定を前書きで“こんな世界です”と述べる手もあるが、あえて導入を作品の一部として書いている。設定を読ませるという点では同じだが、読者諸氏にはこの点に関しても、だいぶん悩みながら冒頭部分を書いたのだな、と推察していただければ作者冥利に尽きることだろう。
なお、文中では“龍”ではなく“竜”の文字を使用している。“龍の子太郎パクリ疑惑”を避けるためではなく、前書きの冒頭で触れたアニメーションの影響で“龍”では細長いイメージがついてしまい、拙著で表現するドラゴンの巨大でゴツいイメージと若干異なるという作者の身勝手な理由のせいであると伺っている。
あと、ガバ設定や確率の計算、距離感や空間の表現に問題があるとすれば、それは作者の地頭の悪さのせいである。正確な表現や格好いい言葉を常に探しているらしいので、指摘は随時受け付けているとのことだ。(採用できるとは限らないのでご容赦のほどをお願い申し上げる)
次に、主人公設定について触れたい。不幸な生い立ちは“龍の子”そのままである。ただし、怠け者というわけではないが、魔力と心に問題を抱えているという設定だ。仲良しの村娘もいる。ただし、社会的経済的格差だけでなく、救いようのない変態気味の助平が邪魔してヒロインとは簡単に結ばれない。
さらに、冒険者や勇者にはそもそも向いていないという致命的な欠点があり、世界を救うどころか物語序盤で命を落としかねない。これらが、前述の“胸のすくような活躍を描くことはこれっぽっちも約束できない”理由だ。
そんな変態虚弱主人公を運命の渦に巻き込み、翻弄し、最後には世界の命運を左右する戦いの場に立たせてしまう“竜の力”とは何なのか。果たして物語の最後には判明するのか、乞うご期待である。
蛇足だが、往馬氏は執筆前にライトノベル界隈や付随するアニメ業界において主流が如何なるものか「小説家になろう」及びアニメ化されているものは動画サイトで事前調査を行っている。
その結果、ランキング上位で人気のある設定は“異世界転生”“チート主人公”“ハーレム”“半裸の女の子”であるようだと語った。
私も気になったので、上記四項目について軽く浅くだが調査を実施してみた。
まず“転生”についてだが、私がその文字を初めて目にしたのは、北斗世界の究極奥義である分身技についていた名称の一部だ。そこに生まれ変わるという意味はなく、哀しみを背負った者だけが発動できるという謎条件も相まって、発動中は一方的に相手をボコれる技の威力と語感の格好良さしか分からなかった。なお、北斗神拳解説サイトには“無想”なのだから考えるだけ無駄、とあった。
私が異世界転生戦士を目にしたのは、大塚英二先生原作、田島昭宇先生作画の魍魎戦記MADARA赤のセイシンジャが初めてだったと記憶している。ミロクという悪玉を追いかけるために異世界へ消えたマダラというヒーローを追いかけるために異世界転移する必要があった、という設定だ。ちなみに、マダラのヒルコやギミックは手塚治虫先生の“どろろ”から着想を得たらしい。
転生の理屈や方法についてはいまだに理解できた自信がないが、真の名前さえわかれば言霊の法によって相手の生殺与奪は思いのまま、という設定は私をドキドキさせ、怪しからん妄想をさせるに十分以上の衝撃だった。
現在主流の“異世界転生”とは交通事故(高確率)や殺人事件の被害者が、死後の世界で神様の采配や謎の力によって生まれ変わりをさせてもらえるとか、召喚魔法によって異世界に呼び出されるかする、もしくはゲームのプレイ中や読書中に、その中の世界に転移してしまう設定のこと指すようだ。
(転移と転生の違いが飲み込めていない。不確かで申し訳ない)
転生主人公は、前世の記憶や知識は保有したまま、現地人をはるかに超えるレベルの文化や技術を駆使して大活躍することができる。無理やり文明レベルを押し上げようとすると、神様に止められる世界もあったり、ロールプレイングゲームのユーザーインタフェースのような視界やゲームライクなシステムを有していたり、それぞれ作家さんたちの工夫やこだわりが見られて面白い。
私が映画バックトゥザフューチャーでスポーツ年鑑を見たときのドキドキや、未来から来た猫型ロボットが装備しているポケットから飛び出す未来道具へのワクワクが形を変えて転生と言う形で現代に再臨していると考えればなかなかに興味深い。
転生理論についてはよくわからないが、それでも、概念のようなものはなんとなく理解していたつもりだった。
次に“チート主人公”だが、調べる前に意味は大体わかった。コールオブデューティー等のゲームでのオンライン対戦における“チーター”並みの力を持った主人公のことを指すのだろう。
ところが、私自身はゲーム内のチーターはほとんど見たことがない。たまに何発ぶち込んでもキルできなかったことはあるが、あとは動画サイトの検証・通報ビデオで遮蔽物透過とかオートエイムをいくつか拝見したことがある程度だ。チートの何が楽しいのかさっぱり解らない、オフライン・ソロで好きなだけどうぞ、という気分になったのは私だけではないはずだ。
だが、向かうところ敵なしのチート主人公設定はたしかに魅力的ではある。たとえば、隆慶一郎先生の“一夢庵風流記”における前田慶次郎は文武両道チート主人公の最たるものだろう。ついに大名にはなれなかったし、手痛い失恋をしたり強者ゆえの苦悩も描写されていたから、何もかも思い通りというわけではなかったが、「だがそれがいい」と今でも言える。
とりあえず、チート主人公は圧倒的かつ稀有な資質の持ち主、という解釈をした。
そして、“ハーレム”だがこれはすぐにわかった。男のロマンというやつだ。実際問題、世の男性諸氏はたった一人の女性を自分に振り向かせ、しゅきしゅき大好き状態にするのにほとんど必死になる。(間違いなら申し訳ない)方法はともかくとして大勢の異性をあつめて、合法的にとっかえひっかえできたら、それは楽しいだろう。
なるほど、これは確かに浪漫だ。ハーレムを実際に運営する苦労をまず想像する私にはできそうもないが、現実の不可能を可能にしてこその空想小説ともいえる。
ついでに、本来はイスラーム社会における男子禁制のルールや女性私室の名称を指すハレムがどこで多数との肉体関係と混同したのか気になったので、またもやウィキペディアに頼ってみた。
結論から言えば、オスマン帝都イスタンブールを訪問した西洋人に起因する。西欧人の誤解(ルーヴル美術館の絵画“トルコ風呂”)をさらに日本人が増幅して曲解し、定着させて現在にいたる。
過去に日本人は一部性風俗産業の名称に某中東国家(大の親日国)の名前を前述の絵画名そのままに使用しており、おっしゃるとおりと言う他ない抗議を受けて名称変更した経緯がある。(石鹸、健康という意味の英語に変更したはずだ)
つまり、日本人は全く懲りていなかったのだ。以下、ウイキペディアから記事の終盤を引用するが、興味のある人は検索してみてほしい。
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こうした風潮は、イスラーム文化が根付いておらず、西欧人により解釈された「オリエント」の一部としての「官能的なハーレム」のイメージのみが普及することになった日本社会においても例外ではなく、「サルタンの君臨するハーレム」のイメージは日本においても再生産されてきた。この結果、現在では「ハーレム」の語は西アジアにおける元々の用法とは全く異なる意味を帯びた外来語として日本語に定着しており、一般的には男女関係や性風俗において少数の男性が同時に多数の女性を相手にしながら性行為を行う状況を指す他、より軽いニュアンスで女性ばかりが数多くいる中に少数の男性が存在するような状況に対して「ハーレム」という言葉が使われる場合も存在する。アニメ・ゲームなどの分野ではいわゆる「ハーレムもの」を意味し、この概念は欧米に逆輸入もされている
https://ja.wikipedia.org/wiki/ハレム
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アシカやゾウアザラシなどの生息地では、強い個体のオスが大勢のメスを独り占めして繁殖行動をするが、その一夫多妻制コロニーを指すとの記事もあった。
そういえば、一夫多妻制を調べていて戦災寡婦の失業対策だったという文章をどこかで見た気がするが思い出せない。森薫先生の「乙嫁物語 7(おっぱい)巻」だったかと思って読み返してみたが“姉妹妻”の話がメインだった。とすればどこで見たのだろうか。
またまた話が脱線してしまったが、ハーレム要素は確かに浪漫だが、間違った言葉の使い方が何らかの法律的トラブル及び異民族差別として外交問題に発展する危険を呼び込む可能性のある諸刃の剣だということも判明した。
最後に“半裸の女の子”だが、あまり熱心に検索すると検索履歴が家族に露見した時の報復と冷遇が恐ろしいので、ゲームクリエイターの座談会記事へのリンクを貼っておく。
https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/190131z/3
「半裸の女の子の絵が付いてくれば、いかつい武器だって売れる。」とは身もふたもない言い方だが、逆に言えば半裸の女の子がいなければゲームであれ小説であれ、手に取ってもらえない。いやらしい言い方をすれば逆立ちしても商業ベースに乗らないのだ。脚本や今までにない要素を含んだ斬新なコンテンツが作れればその壁を超えられるらしいが、私には思い当たらない。
以上のマーケティングと呼ぶにはあまりにも稚拙な蛇足を、最後まで目を通してくださった読者諸氏にまずはお礼を申し上げる。本当にありがとう。
これを書けば必ず読み手がつくというもうのではないが、近年では欠くべからざる要素であることは間違いないようだ。
しかし、往馬氏は売れる要素である“異世界転生”“チート主人公”“ハーレム”をあえて捨てにかかった。
まず、“異世界転生”のアイデアは素晴らしい。なぜなら“チート主人公”へとつながる大前提だからである。召喚時や転生時に召喚主や神様からスキルや魔法をてんこ盛りにしてもらう、前世界の知識や能力保有、強くてニューゲーム等種類は様々だが、主人公が強くなるための過程や修行の描写が不要となり、テンポアップや爽快感が見込める点は非常に大きい。さらば亀仙流。あばよ精神と時の部屋。
しかし、チート主人公との関連はひとまず置いて、転生のみにフォーカスしてみるが、転生の前後で必ず直面するであろう文化や習俗の違いをのりこえ、魔女狩りや異端審問で裁かれることなく生き延びて成長し、前世界の技術で寒村を復興する“龍の子”伝説は果して面白いか。
これは私でもわかる。面白くない。“龍の子”である必要性も全く感じない。
それに、いずれもとの世界へ帰る方法を探すか構築する描写を考えねばならない。ならば現地の恋人や仲間はどうなる。いつかは帰らなければならないという縛りが、主人公の動きを窮屈なものにしただろう。
つまり、わざわざ“龍の子”が異世界に出かける必要性自体が乏しいわけだ。出かけたところで持っているスキルは農耕と治水に多少の戦闘経験でしかない。これではお話が全く盛り上がりに欠け、よほど農業と土木に詳しい人が手がけなければ、中身がスカスカになるだろう。おまけに異世界農業という分野はすでに先駆者の作家さんがいるのだ。
無理して転生主人公にする必要はないと決めた往馬氏だったが、同時にあることに気付いた。たとえば、召喚された瞬間に隷属を強制される、もしくは転生先が奴隷等と言う設定ならば主人公の不遇および被迫害の初期設定と非常に親和性がある、というのだ。
馬車馬のようにこきつかわれた挙句、ブチ切れて召喚主や主人を殺害し、さらにヒートアップして全人類を破滅へ追いやるというスジは優秀に思えるので、主人公ではなく重要サブキャラのヒストリー等に使用したそうだ。
他にも、狂言回しや何気ない会話の中に一部採用する実験は行っていた。例えば、ゲーム葛葉ライドウのモブキャラとして登場する車夫が時折木星からの電波を受信するような感じだ。主人公以外の誰かが異世界経験者で、その示唆や証左を口にする。作品の雰囲気全部を台無しにしない範囲で実施したらしいので、興味がある人は探してみてほしい。
結局、彼は異世界“龍の子”伝説の線で“転生”をあきらめている。そのせいで“最初からチート主人公”も難しくなってしまったが、仕方がないそうだ。
次に“チート主人公”だが、不遇と被迫害の初期設定とあわない。さらに、それほど強いのなら途中の冒険は描く必要がない。人間的成長の描写など不要なのだ、邪魔する奴は指先一つでダウンさ、自作の方眼紙地図なんてダサいと思われる方々には彼が書こうとしている物語は叱責や罵倒の対象ですらなく、手にとってもらうことすらないだろう。それでも“チート主人公”をわざわざ捨てる必要があったのか。
その必要があった、と往馬氏は言う。理由は簡単、彼は主人公に苦労をさせたかったようである。死ぬほど、もしくは死なない程度にとことんひどい目にあってほしかったのだ。彼がダイ・ハードの血だらけタンクトップが好きとか、読者諸氏のカタルシスを狙っていたわけではない。
現時点では、“龍の子”のように血だらけになる主人公と対比で描かれる友人や家族、情景描写に何かを感じてもらえれば、彼の実験は大成功である、とだけ言っておきたい。
もしチートキャラを登場させるとしても主人公以外の誰か、もしくはラスボスにするらしい。当然ラスボスに負けるというまさかの展開もありえるわけだが、彼はハッピーエンドが大好きらしいので、そのへんは安心して良いと聞いている。
そして、“ハーレム”だが、今や逆輸入現象も起きているらしい日本の浪漫や伝統文化を否定する気はさらさらない。大勢の異性を同時に相手できるのも甲斐性のひとつだろう。
古くは滝沢馬琴先生の「鎮西八郎外伝 椿説弓張月」で源為朝(チート主人公)が琉球王になるまでに通った道だ。ただし、滝沢先生は伏線をきちんと回収される方なので、ハーレムの初期メンバーに産ませた子供が会いに来て微妙な空気になる場面を忘れずに描写した。自業自得とはいえ、ハーレム主にされた為朝公の気持ちを考えるといたたまれない。
話がそれたが、とにかく今節においては、ハーレム描写なりたくさんの異性にかしずかれる、肉体関係はなくともやたらモテる描写がないとだめらしい。大昔の商業高校のイメージしかない私にはとんでもなく贅沢に思え、複数の異性キャラクターを生み出す苦労を計算に入れても、考慮に入れるべき設定ではないかと思う。
だが往馬氏はあえて“目移りはするが結局はヒロイン一筋”というラインを何とか死守した。恋愛描写を描くのなら、ハーレムはいい、けど純愛(変態?)はもっと良いという妄想を完結、全うさせた。たとえ万人の共感は得られずともだ。
もし“龍の子”が大勢の女の子を侍らせてとっかえひっかえ楽しみながら、超常現象を巻き起こして世界制覇する話ならアリスソフトに任せたほうが良いし、それならいっそエロ本やエロゲーのほうがよほど製品としての完成度として優れているというものだ。
ただし、純愛と一口に言っても様々な形態がある。江戸時代の名著「葉隠」には、桜島のように頭から煙が出ても相手に想いを告げることなく片想いを遂げることこそ、至上の恋であるという記述がある。
恋の相手に煙を観測された時点で忍ぶ恋はご破算のはずだが、それでも手汗を握って我慢するのは何か気持ち悪いというか、江戸時代にストーカーという概念はなかったのか。(武士のみなさんごめんなさい)
ハーレム無しで忍ぶ恋も却下。これではあまりに特徴がなく、仮にヒロインをものすごく魅力的に描くことができて、なおかつストーリーがどれほど優秀でも平凡すぎてつまらない。
考えた挙句、今般珍しい変態系助平属性を主人公に付与したらしい。なぜむっつり変態要素なのかという疑問が当然生じる。私には全く理解できなかったが、格好いいモテ男なら他の作品にまかせておけ、といったところのようだ。
そして、この時点で作品のタイトルを「ドラゴン・ピンク」に決めたらしい。ピンクとは無論助平の意味だ。助平の何が悪い。助平のついでに世界を救ってもいいじゃないか。英雄色を好むというレールを脱線して伴侶と添い遂げる助平勇者がいても不思議ではないだろう。
ご立派な助平擁護論によった結果、しばしば年齢にふさわしくない主人公の言動が話をぶち壊す点は指摘されても致し方のないところではある。
ただし、“ハーレム”禁止と言うのも度量が狭い話なので、主人公以外の登場人物が異性を囲うのは自由にさせたと聞いている。
最後に、“半裸の女の子”は相当悩んだらしい。
半裸でも大事なところが見えなければ大丈夫という体は、おそらく児童ポルノか企業的にはコンプライアンスに引っかからないための用心だと思う。その際どい要素が当節とても重要なことらしいのはどういうことなのか。
小説では別段衣装についての言及がない登場人物の女の子が、アニメ・漫画になると半裸やきわどい衣装で登場する。もはやタイムボカンの女頭目や美術品泥棒三姉妹のレオタードでは刺激的なアイキャッチたりえないとは、今昔ということだろうか。
往馬氏は半裸の幼女にさして性的魅力を感じなかったため、あえて女の子を軽装やきわどい衣装にする必要性についてかなり考えたようだ。
例えば、足柄山の金太郎は攻撃力にステータス全振りしているので、赤い前掛け(半裸)に物理防御は期待できそうにない。つまり凶悪な攻撃力の持ち主が装甲を不要として捨てた結果、半裸になる場合はあるだろう。
ただし、幼女である必要も女性である必要すらないから、“半裸の中年男性”であってもおかしくはないのだが、今のところ往馬氏は半裸中年男性について言及していない。
変身の瞬間の透け具合、登場する女の子がおめかしでミニを穿く、酒場の女給がムフフ営業の収益を増やすために制服にひと工夫している、もともと自宅では全裸のキャラがいる、魔獣の攻撃で衣服が破損する等の描写全てに竜の子の助平センサーは反応するが、往馬氏が考え付く軽装もしくは半裸の必要性とはこの程度のものだった。
キャラ設定ではなく必要性を考える時点で、半裸の女の子は出しにくくなってしまうわけだが、往馬氏はそれならそれで結構というかまえだ。
具体的に言うなら、パンチラ、ラッキースケベ、キス等少年誌掲載で許されるレベルを全てフォロー、永井豪先生のキューティハニー程度のヒロイン変身シーン、それをのぞこうとする主人公。シティーハンターの冴羽遼程度のムフフと、それに呆れるヒロイン。クエストクリアのたびに親密度パラメーターを上昇させていく二人。
そして話の展開次第では容赦なくヒロインを剥く。“半裸”ではない“全裸”を精緻な表現で、合体表現は許される範囲で描写を試みている。
あまりにも性行為描写を鮮明にすると、対象年齢の規制がかかったり、場合によっては作品自体が削除されるので注意したらしい。速水螺旋人先生によれば、エロ小説のキモは温度表現と擬音語とのことなので、逆に言えば、それらの表現方法を使用しないようにすれば良いはずだが、掲載ガイドラインに抵触する可能性は最後まで悩みの種だったと聞いている。
しかし、明日死ぬかもしれない世界で、成年扱いされている高校生くらいの男女が良い雰囲気になった結果、合体するのはそんなにおかしいことだろうか。武田晴信が子供をもうけたのは13歳(義信ではない)、童謡赤とんぼで姉が結婚したのは15歳、なのにエロは大人になってからの風潮が少子化を加速させていると考える私は頭がおかしいのか。
おそらく、おかしいのだろう。
そんな人間が書く解説、おそらく何の参考にもなるまい。
往馬氏にしても、多種多様の娯楽が簡単に入手できるこのご時世に、今般の主流や売れる要素を無視し、紙上とは言え自己満足の実験を開陳しようというのだ、見せられる側としてはたまったものではないだろう。
しかしながら、である。
読者諸氏になにとぞお願い申し上げたいことがある。
何かを成し遂げる前に願いを請わねばならない点は非常に遺憾であり、申し訳ない思いで一杯だが、なにとぞ、
“とにかく魅力的なこの「龍の子」を今風にアレンジして物語にしたい”
という往馬氏の願望を叶えるのを手伝っていただきたい。
なにより私が続きを読みたいのだ。
どうか竜の子が最後まで旅を続けられるようお願い申し上げる。
プランク・ワタヌキ(文芸評論家)
【重要】この文章は明確なソースのない妄想で構成されており、きちんとした引用がついていない部分を鵜呑みにするのは大変危険です。
※引用元の情報も正しいとは限りません。
※ヒント:著者名と投稿日
当該小説のURLはこちら⇒ https://ncode.syosetu.com/n3294fk/
読了ありがとうございました。
文中の『ドラゴン・ピンク』は拙著『ドラゴン・アノマリー』の旧題であり、同名の成人向け漫画及び映像作品等が存在する旨の指摘をいただいて急遽改題した経緯の痕跡でございます。
徃馬翻次郎でした。