第5話「どんな字を書く?」
憂鬱に脳内を支配され、嘆息した回数がゆうに五十を超えた頃、気付けば放課後になっていた。今日は部活の日でもないので、さっさと帰るに限る。
ゲームショップに立ち寄ろうと云う友人からの誘いを断り、着々と帰り支度を済ませた俺は、脇目も振らずに教室の出入り口を目指した。
放課後特有の喧騒で溢れる廊下を足早に進み、あっという間に昇降口に辿り着く。人波を縫って上履きからスニーカーへと靴を履き替え、勢いそのまま学校を後にしようとしたときだ。
「新留くん、待って!」
思わぬ声で名前を呼ばれ、怪訝な面持ちのまま振り返ると、息を切らした佐藤さんがいた。
どうやら見たところ、荷物も持たず教室から走ってきたようだ。俺を追いかけてきたのだろうか。
昇降口に並ぶすのこの上を駆け抜け、上履きのまま俺の目前まで走り寄って、佐藤さんはようやく停止した。
「えっと……何か用?」
「あ、そのね、用ってわけでもないけれど……新留くん!」
「は、はい……?」
佐藤さんは急に言い淀み、視線を宙に彷徨わせて、胸の前で手を組んだり解いたりを繰り返し始めた。何やら躊躇しているらしく、唇をパクパクと開閉して思い悩んだ表情でいたかと思えば、ふっつりと押し黙る。
「あの、用がないなら俺はもう帰るから、その」
「あっ、待って! 今日は……このまま帰っちゃうの?」
「そうだけど」
「そう、なんだ。放課後の予定はないの、かな……?」
伏し目がちに問う佐藤さんに再度「そうだけど」と返せば、彼女は分かりやすく眉根を下げた。
俺を呼び止めた佐藤さんは一体何をしたいのか、依然として分からない。
「何だか、その……らしくないね」
通常の佐藤さんであれば、明朗快活に発言するし、奥歯にものが詰まったような違和感のある話し振りはしない。関わり合いはあまりないが、数少ない会話のやり取りでも、言葉はきっちり伝えてくる人だと知っていた。
だから、今の佐藤さんは不可解そのものだった。俺なんかに何を躊躇うことがあるのだろう。
「……慣れないことをしようとしているから、緊張しているのかも」
「慣れないこと?」
「うーん……慣れないというより初めてというか……」
えへへ、と佐藤さんははにかみ、じわりと頬を染めた。その表情には照れや恥じらいが感じられ、妙に心が浮ついて動揺した。
鼓動が速くなると同時に、俺の頭脳が加速的に冴え渡る錯覚を起こした。佐藤さんのおかしな言動と、机に突っ込まれていたラブレター……いや、果たし状のふたつが結びつく。
そうして俺は、脳内で生まれた発想を何度も否定した。
もしかして、いや、違うに決まっている。しかし、佐藤さんの挙動不審ともいえる様子を鑑みるに……だけど、これは想像の飛躍が過ぎるだろう。
もしも、の仮定が間違っていたら、また意気消沈するのだから、馬鹿げた期待は抱くなと忠告してみせるのだが、俺の期待は膨らむばかりで、胸に溢れ出るのは言い知れぬ高揚感。
「あのさ、変なことをひとつ、お願いしてもいい?」
俺は肩にかけた鞄を開け、適当に授業用ノートを取り出すとページを開いて、一緒に手にしたペン諸共佐藤さんへと渡した。
「俺の名前、書いてくれないかな」
「え……? 新留くんの名前? フルネーム?」
戸惑う佐藤さんに頷きで返事をし、俺はお願いすべく頭を軽く下げた。
佐藤さんは困惑を隠し切れていなかったが、俺の差し出すノートとペンを受け取る。そして、少し書きにくそうにノートへとペンを走らせた。
「あの、これでいいかな?」
白いノートのやや上部に書かれた四文字を確認し、俺は殊勝に首肯した。
女の子らしい丸く小さな文字。ラブレターの封筒に記載されていた俺の名と瓜二つの筆跡だった。
心臓の早打ちは更に速さを増している。検証を行い、確信を抱いたのだから宜なるかな。しかし、佐藤さんを前にして、狂喜乱舞するのは早計という他ない。
「えっと……あのさ、佐藤さんは放課後の予定、あるの?」
「……うん、ある」
唇を引き結び、神妙に頷く佐藤さんと対峙し、今すぐここで謎極まるラブレター……果たし状の真意を尋ねたかった。
だが、ここは昇降口。差出人より指定されたのは、放課後の体育館裏だった。
「俺、用事をひとつ思い出した」
「え?」
目を見開いて暫し固まる佐藤さんに、俺は余裕ぶって、きっとぎこちない限りだったろうが、ヒラヒラと手を振って玄関口へと歩いて行く。
「じゃあ……また」
また明日、ではなく、またすぐにだろう。