第1話「春、はじまりの季節」
うららかな春の陽気と朝の爽やかな空気が同居する登校時間、俺は高校へと続く道を外れて、近くの救急病院を目指していた。
「すまないねぇ……重いだろう?」
「い、いえ……大丈夫です。それより、おばあさんこそ平気ですか? もうじき病院ですから」
「ありがとうねぇ」
背中に小柄なおばあさんを背負い、のろのろと亀のごときゆっくりとした歩みで歩道を進む。
すでに息は上がっているし、制服の下は汗でびっしょり濡れている。眼鏡がズレて鼻筋に強烈な違和感が生じているも、両手がふさがっているので元に戻せず歯がゆいばかり。
現在時刻は分からないが、確実に遅刻は決定していた。
朝からどうして、見ず知らずのおばあさんを背負って道をのたのた歩いているのかといえば、ことの発端は少し前にさかのぼる。
いつもと同じ時間に自宅を出て、通学路を急ぐまでもなく比較的のんびりと歩いていた。今朝も昨日と変わらない時間に教室に到着するはずだった。道ばたでへたり込む老婆を目に留めない限りは。
「えっ……ど、どうされましたか?」
顔を青白くさせ、本来座るような場所ではない道路の端で、呆けたように座るおばあさんを発見したら、気づけば慌てて声をかけていた。
目は開いていたので気を失ってはいないようだったが、顔色は悪いし息も荒く、おばあさんの具合が悪いことは明白だった。
「いんや、ちょっとねぇ……くらっと目まいがして。よろけちゃったら、地面にドスンと尻餅ついちゃったの。それでねぇ、腰が抜けて立てなくなったのよ」
うっすらと苦笑を浮かべるおばあさんだったが、表情を作るのも大変そうだった。思わず駆け寄り、おばあさんのそばに跪いた。
「少し待っていてください」
早く病院に行って、適切な処置を施してもらわないと大変なことになる。とはいえ、今はまだ朝も早い。診察の受付時間はもう少し先のはず。となれば、二十四時間対応可の救急外来のある病院を探さなければ。
スラックスのポケットからスマホを取り出し、近くの救急病院を検索する。幸いにも、徒歩で行ける圏内に急患の受け入れをしている病院を見つけ出し、ひとまず安堵の息を吐く。
「おばあさん、病院に行きましょう。俺の肩に手をかけることはできますか?」
おばあさんの前で膝を折り、背中に担げる姿勢を取って声をかけた。
「でも、あんた。学校は? 学生さんだろうに」
「俺の学校より、おばあさんの病院が先です。さあ、肩に掴まれますか?」
ためらうおばあさんを半ば強引におんぶし、俺は用心深く腰を上げて踏ん張った。おばあさんの体型は小柄とはいえ、ひと一人を背負うのは中々大変なことだった。よろめきそうになる下半身を叱咤激励し、俺は慎重な動きで一歩を踏み出した。
病院までひとを背負ったまま歩いてどれくらいかかるか分かりはしないが、おばあさんを送り届けるまで学校には行けないことぐらい心得ていた。
そうして、俺は息も絶え絶えながらどうにかこうにか、おばあさんを病院まで連れて行き、あとの処置はお医者さんへと託し、遅ればせながら高校へと辿り着いていた。
おばあさんには過剰なまでに感謝され、医者の先生や看護師さんたちにも褒められたが、これで遅刻が帳消しになるはずもない。
学校に遅れた理由をちゃんと説明すれば、教師からの説教は免れるかもしれないが、教壇の前で微に入り細をうがった説明を、クラスメイトに注目されながらできる度胸は俺にはなかった。
跳ねる心臓をどうにか押さえつけ、弾む息を静めるためにも深呼吸を一つして、教室後方の引き戸を遠慮がちに横へと滑らせた。
だが、立て付けの悪い扉はガラガラと軋む音を上げ、遅刻者たる俺の登校を教室全員に知らしめてくれた。
「おやあ、重役出勤か」
黒板に向き合い、よどみない調子でスラスラと数式を書いていた担任もこちらに気づいたようで、片眉を上げて俺を睨んでくる。
成績優秀者でもない日陰者たる自分が担任教師の心証が良いわけもなく、「あとで職員室に来るように」と冷たく言い捨てられた。
教室で怒られるよりマシだと無理矢理自分を納得させるが、担任の説教はえらく長いと伝え聞いていたので、授業後に展開されるであろう職員室での光景を想像して身震いした。
なるべく息を殺し、注目を受けないよう足音も静かにしようと細心の気を配り、自分の席へと恐る恐る向かったが、やはり周囲の視線が痛いほど突き刺さった。
じろじろ見られるのは不慣れなもので、挙動不審に拍車がかかって、いっそう汗が噴き出した。ワイシャツがべたっと肌に張り付いて不快感が増す。
溜息混じりに椅子を引いて席へと着けば、まだこちらに向けられる視線が気配で分かって煩わしい。
俺を見て何が楽しいのだろうと、視線の主を探るべく顔を上げれば、隣の席の女子と目が合った。