病に思う
病気をすると人生観が変わるとよく言われるが、それは三度目の入院生活を送ることになった私にとっても、実感のある言葉であった。過去の二回は、脳内出血と十二指腸潰瘍、そしてまた十二指腸潰瘍であった。三回ともに突然に見舞われた病気であり、いずれの場合にも救急搬送され、私としてはその度ごとに生命の危機をも感じ、毎回一ヵ月の入院生活を余儀なくされた。
私とて病気になることを望んでいるわけではない。しかしそうではない状況が起こってしまった時には、現実は現実として受け止めて、前向きに考えていこうと思うようにした。
自分の意思とは関係なく、それまで毎日繰り返されていた平穏な日常が突然断ち切られてしまったことによって、自分自身の限界を思い知らされたような気がする。自分なりの人生設計を立てて、それに向かって走り続けていたつもりが、それまで積み上げてきた仕事のことや人間関係、あるいは継続していた趣味や教養の分野における様々な出来事などさえもが、全て儚い過去のこととして消え去ってゆくのかもしれないという虚しさを感じる瞬間が、確かにそこにはあった。
病院に収容されて、緊急の手術や治療によって症状の進行が止まることで、私自身の気持も少し落ち着いてくると、そこから先のことは、もう運命に任せるしかないのだという気持ちになっていった。
病室のベッドに横になって、周りを白衣の医療関係者に囲まれながら、一日中白い天井ばかりを見上げていると、私にはそこにいるしか選択肢がないのだということもすぐに悟るのだ。自分の人生は自分で切り開いていくものだという、ある意味傲慢な考え方が、根底から崩れていく内省の時間でもある。
心静かに振り返る時、病気になるまでの生活といえば、精神的にも身体的にも、自分をいたわるような毎日ではなかったと思うのであるから、やはりそれでは理にかなってはいなかったということなのだろうか。そういった暮らしを続けているうちに、何らかの必然の要請によって、それまでの自分の行いを改めるための時間が与えられるものなのかもしれないと思う。
入院というのは非日常的な不思議な時間である。それまで当たり前のように思っていた社会生活から隔離され、生活の殆どが禁止と制約のもとに置かれるのだから、その状況を受け入れるためには、諦めるという気持ちと共に、自分の人生そのものを何かに委ねる、という謙虚な心の状態を作り出さねばならないのかもしれない。それまでの日常的なことは意識的に心から忘れるようにし、病院という閉鎖された特殊な社会の中の風景の一部として、自分自身を埋没させてしまうことが、一番楽に入院生活を過ごすための方法なのかもしれない。
自分の意識を少し変えれば、公然と長期間の休養を貰えたとも言えるのだから、有り難い出来事だとも思えてくる。普段の暮らしの中では否定的に考えられがちな、何もしないで体と心をゆっくり休ませるというような、ある意味消極的な考えさえも、入院中には肯定されるのだ。多少の制約はあるにしても、時間になれば食事が出され、好きな時に好きなだけ眠ることもでき、おとなしくしてさえいれば読書をしようが、瞑想をしようが何も言われることのない自由があるというのは、人生に於いてはそんなに沢山はない貴重な時間なのだ。
但し、自分自身が病衣を着て病室の中にいる間はまだ完治したわけではなく、症状がどちらへ向かうかは運まかせでもあり、もう一度、病院の外の日常の世界に自分が戻っていけるという何の保障もないのだが。
私にとっては、心ならずも病を得たことによって、自分の人生に対する、はっきりとした危機感を自覚することができた。そうして、自分自身の生命そのものや、与えられている限りのある時間の貴重さをも、改めて感じることもできるようにもなれたような気がしている。それは、心の価値観を変え、人生に対する新しい目を開かせてくれる、得難い貴重な出来事であったのだ。