雨の日に
比喩の塊になっております。
直接表現はあまり出てきません。
言葉遊びのようなところがあるので、一文ずつ楽しんでいただければ幸いです。
酷い雨が降っている。
バスに乗ると、そこには誰もいなかった。
入り口のカードリーダーに電子マネーのカードをタッチして、運転席近くの電光掲示板を見る。
そこには、今まで通ってきた二つのバス停の料金表示がある。
大きな町のバス停だ、ここまで始点を含む二つのバス停を通ったにもかかわらず、誰もいないというのはおかしな話だ。
運転席に一番近い席に座って運転手に挨拶する。
「こんばんは」
運転手は何も言わずに会釈をした。
会釈をした彼の、カッターシャツの襟が黄ばんでいるのが見えた。
その黄ばみに気を取られていると、不意に、ゆっくりと、体に加速度がかかるのを感じた。
さっきまで差していた傘は身体の横の手すりにひっかけてある。
傘からしたたり落ちた水が、加速度を受けた傘にかき乱されて、また水滴自身も加速度を受けて、奇妙な模様を作りながら動いている。
右に伸びて、左に伸びて、前に伸びて、だが後ろには伸びない。
私はやはり、この惨状ともいうべきバスの無人っぷりが気にかかって運転手に尋ねる。
「今日はどうして人が少ないんでしょうか」
「はて、わかりかねます」
運転手は、相変わらず無愛想な様子だったが、今度は言葉を口にした。
それにしても異常に顔色の変わらない男だ、と思った。
別段、この見知らぬ男に愛想よくしてほしいわけでもないのだが、なんとなくその表情の虚ろで何を見ているのやらわからないその様子が不気味に感じた。
ワイパーが動きながら、水滴を窓から押しのけていく。
押しのけられなかった、半円の外側の水滴が前方を行くワゴン車のテールランプを反射して、いやこの場合は屈折してというべきか、とにかくいつも見えている直進する光と違う、赤くぼんやりした怪しげな光が、視神経の奥を撫でた気がした。
それは何か、粘着性のもので撫でられたような感覚で、私は不快感から瞼を閉じた。
やがて四番目のバス停が近づく。
がらんどうの車内に響いたアナウンス。
ゆくりとバスが停止に向って加速する。
やがてバスの速度がなくなって乗車口が開くと、一人の老婦人が入ってきた。
身なりのいい恰好をしていた。
別に、高級と一目でわかるほどのぎらぎらとした衣装なわけではないが、それとなく高価であるとわかるような品のいい恰好だ。
しばらく見ていると、彼女は私の座っている席から通路を挟んで隣の、一人用の席に座った。
膝の上にカバンをのせて、その上に手を重ねている。
彼女の手からはちらりと、薄汚れたシルバーの指輪が見えた。
「こんばんは」
彼女は答えなかった。
答えずに、ただ窓の外に注視している。
彼女の顔はガラスに映っていたが、何を見ているのかわからないその目は空虚だった。
街灯に窓が照らされて、彼女を映した窓が光る。
顔の見えない彼女はどんな表情をしているのだろうか。
雨粒が街灯の白い光を受けて、ギラギラと乱反射して、光を四方にまき散らした。
やがて五つ目のバス停に近づく。
アナウンスが鳴り響く車内は依然としてがらんどうである。
五つ目のバス停に着いた。
入ってきたのは大学生くらいの男の子。
バイト帰りだろうか、もしかしたら仕事をしている社会人かもしれない。
スーツを着ていないから前者か。
コンビニ弁当の袋を提げていたが、バスに乗るや、それを少し乱暴な手つきでリュックサックに押し詰めた。
とにかく彼はくたびれた様子だったから、私は彼がなんらかの仕事をした後なのだと思い込んだ。
「こんばんは」
「…こんばんは」
彼は若干困惑した様子で俯きがちに返事をした。会釈は首から上だけだった。
彼は私の後ろの席に座る。二人がけの隣の席を背負っていたリュックサックで潰した。
そのまま彼はポッケのスマホを取り出して、ずっとその画面を見ていた。
発行する画面が彼の顔を青く照らすが、その顔は、やはりと言っていいものか、とても空虚に見えた。
ぼんやりと、画面全体を見ながら、漫然と、指を下から上に動かす。
指が動くたびにすっ、すっ、という画面と指が擦れる音が聞こえた。
雨はやかましくバスの天板をたたいているし、ワイパーはせわしなく、不快な水切り音を立てている。
それなのに、車内は乗車した時と同じ、無音でがらんどうのままだった。
やがてバスは私の最寄り駅に停まった。
その時分になる頃には、他の奇妙な隣人たちは皆下車していたようで、バスにとって私は最後の客だった。
本当にがらんどうになってしまったバスは私をバス停に置いて去っていく。
低いエンジン音が、周囲の水たまりを揺らして波紋を生んだ。
振り返って、自宅の方を向く。
家々の明かりが、帰路を照らしている。
暖かい光。
それは、私の帰宅を祝福するような光に見えた。
雨はもう止んでいる。
帰る家には家族がいる。
小さな水たまりを一足で飛び越えると、水たまりは少し震えて波紋を生んだ。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
私がこの小説に込めた思いなど、ここに書くのはよろしくないと思うので書きません。
が、気づいてほしいという欲求がとめどなく私の心を揺さぶっておりまして。
どうしたらいいものなのでしょうかね(笑)
さて、最後に、バスの乗客と運転手が虚ろな目をしていた理由など想像していただければ嬉しく思います。