龍の望み、翡翠の夢
訪れるものなど誰もいない、北の塔。処刑前の罪人が、最後の一夜を過ごす場所。
冷たく輝く夜の星に手が届きそうな高い塔の中で、麗人がひとつため息をついた。肩までで切りそろえられた艶やかな黒髪が一筋、はらりとこぼれる。白磁の肌も、襟元まできっちりとしめられた朱色の服も何もかも薄汚れてしまっている。乱雑な扱いを受けたのか、男物の服の裾から見える手足は華奢で、ひどく頼りない。けれど、小さな格子窓から空を眺めるその姿はなぜだろう気品に満ちていた。
「陛下」
どこから入り込んだのだろうか、赤茶けた髪をひとつに束ねた男がひざまずいている。西国の衣装ではない、袖や裾の長い奇妙な服を身につけていた。よく聞けば、東国の訛りもあるようだ。忍んできたであろうに、鮮やかな青い衣装が月夜に見事に映えていた。
「もうわたしは、陛下などではない」
麗人は苦笑しながら、膝を折る男を立たせた。労わるように、男の背中を撫でる。新年を祝う人々の歓声が、奥まった塔にまで聞こえてきた。新しく即位した国王を讃える声や、盛大なパレードの音も。もうすぐ世が明ける。処刑は朝一番に行われるのだと聞かされていた。
「ですが……!」
「もう良いのだ。民を謀った罪人に、敬称など不要であろう?」
自嘲めいた笑みを浮かべた主の姿を見て、男は拳を握りしめる。たった一言「やれ」という言葉さえあれば、こんな風に主人を貶めた者たちを一瞬で消し去ってやるというのに。目の前にいるその人は、それさえも望まないというのだ。この冷たく閉ざされた檻の中で凍えている主人がどうすれば笑ってくれるのか、男には見当もつかなかった。
悔しさを抑えきれずに、唇を噛む。ひんやりと冷たい主の優美な手が、それを戒めるように唇をなぞった。柔らかく甘い女の手。側に仕え、その命に従うことを至上の喜びとさせてくれた彼の掌中の珠。大切なものを見つけられずに、国から国を流れた彼が出会った女神。
男児のみが王位継承権を持つこの国で、ようやっと産まれた子どもは女児であった。仕方なしに先の王は、この子どもの性別を偽って育てることにした。いつか女児の下に弟が産まれることを期待して。しかし待望の男児は産まれることなく、先の王は早世した。そして始まる醜い権力争い。信頼していた叔父に裏切られ、あらぬ罪をなすりつけられた彼女は、明日処刑される。それにもかかわらず、彼女は穏やかに笑うのだ。これでやっと楽になると。
数年来言えなかった言葉を彼は伝えることにした。今日伝えねば、永遠に伝えられぬ言葉だ。初めて会ったときから、彼女が女性だと気づいていた。今日までその言葉を飲み込んできたのは、ただ側にずっと仕えるだけで幸せだったからだ。逃げ場のない彼女を追い詰める真似などしたくなかった。
「御名を口にすることをお許しください」
従者は懐から小さな木箱を取り出す。飾りを施された繊細な品だ。彼の動きは不思議なほど優雅で、武人である彼の生まれの良さを感じさせるものだった。流れ者でこの国の身分を持たない彼がここまで頭角を現したのは、文武に優れているだけでなく、この辺りにもあるのかもしれなかった。普段は人懐っこい笑顔を浮かべている彼が、真剣な眼差しで彼女を見つめている。こうしてみると、男は存外に整った顔をしているのだ。
「今まで、『セイ』で通しておりましたが……。私の本当の名前は『成龍』と申します」
龍に成るという意味だと気恥ずかしそうに話す。そのまま肩をすくめながら、東国の発音は西国の人間には難しいらしいからはなから諦めていたのだとこぼしてみせた。いちいち説明するのも煩わしかったのだと。
「貴女にだから、お教えするんです。私は、ジェイド様にだけは、私の本当の名前を呼んでほしい。これから先もずっと」
初めて名前を呼ばれた女は、両の瞳を見開く。光の加減によって、澄んだ泉のように深い青にも、濃い緑色にも見える美しい瞳が潤んだ。男に言われた意味がわからぬほど、彼の主は愚鈍ではなかった。政略結婚に頼ることなく政を取り仕切ってきた有能な男装の麗人は、初めてささやかれた真摯な言葉に頬が赤くなるのを感じていた。
「私の故郷では、ジェイド様の御名と同じ貴石のことを翡翠と呼ぶんです」
そのまま小箱から、翡翠の硬玉を掘り出した腕輪を取り出す。それは誂えたかのように、女の腕にすっぽりとおさまった。ひんやりとしてみえた濃緑の石は、長いこと懐に収められていたのか男の体温でほのかに温められていた。透き通るような緑が美しいその石は、只人に渡すような品ではないことは一目でわかる。もちろん部下が上司に贈るような品でもない。
「ほら、やっぱりよく似合います。そしてね、翡翠というのはもうひとつ意味があるんです。あなたの瞳と同じ色をした美しい青い鳥の名前なんですよ」
男はそっと愛しい女を抱き寄せた。そのまま女にだけ聞こえる小さな声でささやく。
「私は大逆を働いた陛下のことなど何にも知りません。ただかごの中の翡翠を見つけて、外に出しただけ。鳥は自由に生きるものです。当たり前のことをして、罪に問われるなんておかしいでしょう?」
罪人を連れて逃げたことが見つかれば、同じく死罪は免れない。それをわかって申し出を断るであろう、強情な主人の心を溶かす優しい言葉。小さな嗚咽を漏らし始めた女を抱えて、男は悠々と外に出た。常人ならば気が遠くなるような高さの塔を軽々と降り始めた男に気づいて、陛下と呼ばれていた彼女は笑った。
「おまえ、前世は猿か何かだったんじゃないのか?」
そんないつもの軽口に、端正な顔を情けないものにしながら男は返事をする。
「故郷の母にも言われました。おまえに龍と名付けたのは失敗だったと。ちょろちょろ動き回って悪戯三昧の小猿に、大層な名前をつけすぎたと話しておりました」
「いいや、ご母堂様には感謝せねばならん。空を駆けめぐる龍だったからこそ、小さな翡翠の鳴き声にも気づいてくれたのだからな」
この逃避行の果てがどうなるかはわからなくとも、なぜか心は明るかった。夜空に浮かぶ明けの明星を横目で見ながらこれから先の未来に想いを馳せる。女人として諦めていた甘い生活を夢見ても良いのだろうか。優しい夫に、可愛らしい子どもたち、小さな白い犬、夕餉を作る髪の長い自分……。自分には縁遠いものとして描いていた夢物語。うっすらと頬を染めながら目を閉じた後、男装の麗人は艶やかに微笑んだ。
最果ての国と呼ばれた東の国は、後に大陸のほとんどを帝国として統一した。皇帝として君臨した武勲に優れた男の傍らには、常にある女性の姿があったという。かの正室は、流れるような黒髪と翡翠のような瞳が美しかったと伝えられている。大勢の側室を持つこともできた皇帝であったが、英雄色を好むという故事とは異なり、この美しき翡翠の君に生涯を捧げたと言われている。