王子様の趣味は婚約破棄
王子様の名前はアートミーラ。
世界で7番目くらいに大きな国の2番目くらいに偉い12才の王子様でした。
運動神経は抜群。頭脳も明晰。歌も踊りも一番で、髪の毛は太陽みたいに輝いて、金色の瞳は宝石よりもきらきらしていて、
「王子アートミーラの名において宣言する!」
誰からも愛される男の子で、
「フラウ! おまえとの婚約を破棄する!」
趣味は婚約破棄でした。
「…………はあ」
反応に困ったような曖昧な微笑みでそれに頷いたのは、フラウと呼ばれた少女です。髪も瞳も夏影のように真っ黒で、肌には不思議な、何とも言えない翳りのある、王子様と同い年くらいに見える女の子です。フラウというのは愛称で、本当の名前はフラウリラクルと言いました。
ところでこの場所がどこかと言うと、アートミーラとフラウの通う学校の廊下でした。当然、そんな場所で王子様が婚約を破棄するだのと大声で宣言すれば騒ぎにならないはずもなく、
「あら、また始まりましたわ」
「おいマーレ、椅子と紅茶を持て!」
「あれ、おまえ見てかないの?」
「今日習い事あるから……」
「もうちょっとそっち詰めてくださーい」
あっという間にギャラリーが集まってきました。わざわざ付き人に鑑賞用のテーブルを用意させているような生徒もいれば、地べたに座りこんでカレーやポップコーンを頬張っている生徒もいます。
総じて、この学校の生徒はのんきでした。
「今日という今日はほんとのほんとに破棄するからな!」
そのギャラリーの中心で、アートミーラはビシーッとフラウに指を突きつけました。フラウはその指をやんわり握って身体の横に手を下ろさせながら、言います。
「ちなみにアルト。今日は婚約破棄した後、誰と結婚するつもりなの?」
フラウが優しい声音で聞きました。アルトというのはアートミーラの愛称です。アルトは問われて、ふふん、と胸を張りました。
「聞いて驚け!」
振り向いて屈み込んで、何かを持ち上げて、また振り向いて、フラウに向き合います。
「猫のみーちゃんだ!」
「あらみーちゃん。こんにちは」
アルトが抱えていたのは、真っ黒で、でぶでぶと太った猫でした。フラウに首のあたりを触られると、ぶみゃあ、と太い声で鳴きました。
ギャラリーは微笑ましいのと普通に笑ってしまうのとの境目みたいな顔と声でがやがやと話しています。
「とうとう生き物になったぞ」
「この間まで綺麗な石とか持ってきてたのと比べれば大きな進歩だな」
「あの猫は僕と同じ目をしている……」
一番最後の言葉を発したのは、床に座り込んでカレーを頬張っている男の子でした。彼は昼休みの時間にカレー10杯を平らげた実績から、カレードランカーの異名を取っていました。以後特に言及されることはありません。
フラウはひとしきり猫のみーちゃんを撫でまわしたあと、尋ねます。
「で、どうして?」
アルトはそれに格好良く答えようとしましたが、思いのほかみーちゃんが重たく、上手く腕を振ることもできず、しかし床に下ろすのも何だか、と迷うような素振りを見せ、フラウがその全部を察して、みーちゃんを受け取り、両腕でしっかりと抱えました。両手の空いたアルトは、今度こそ、とズビシーッと指を突きつけ、みーちゃんに肉球でぺしっとその指をはたかれながら、言いました。
「忘れたとは言わせんぞ! フラウ、お前のみーちゃんに対する諸行無常! ……あれ?」
「悪逆非道?」
「ああ、それそれ。やっぱりフラウは頭が良いなあ。 ……ってちがう!」
一度ふんにゃりした気の抜けた顔になったアルトは、気を取り直して、
「悪行三昧!」
「言った後で気づいたんだけど、たぶんさっきのって『諸行無常』の『所業』で止めればよかったのね」
「ああそっか……、話を逸らすな!」
「ごめんね」
「うん。衆人環視の中で、お前の罪を暴いてやるぞ!」
アルトは両手を大きく広げて、ギャラリーに向かって、「みんな、聞いてくれ!」と大きな声で言いました。すると、みんなが声を合わせて「はーい!」と返しました。中にはペンライトを振っている生徒もいます。この学校の生徒たちはぴかぴか光る棒が大好きなので、購買部に各色どっさり在庫が揃えてあるのです。
「たららったらっ♪」
アルトがメロディを口ずさんで、それに合わせてステップを踏み始めると、早くもギャラリーからは手拍子が聞こえてきます。
「♪ 誰が信じられようこの女 見目麗しき真なる悪魔」
「あらありがとう」
とりあえず相手を褒めることから始まるアルトのリリックに、ギャラリーは若干笑いを漏らしました。ちなみに手拍子は4拍目の時点ですでにずれてぐだぐだで、ペンライトは高速で揺られ宙に残光を引いていました。
「♪ わけもなく 愛らしき猫の身体をこね回し」
「可愛いからつい撫でちゃって」
「♪ 日当たる日 愛らしき猫の身体を引きずり回し」
「天気の良い日はお散歩でもと思って」
「♪ 間食で 愛らしき猫の身体を肥やし倒し」
「それはごめんなさい」
「♪ 挙句の果てに 愛らしき猫を僕より飼いならし」「♪ 僕より飼いならし」「♪ 僕より」「♪ 僕より」「♪ 僕より」
天国の楽器が奏でているかのような歌のリフレインは突然止まり、アルトは床をだん!と強く踏むと、
「なんで!!??」
ぽっぽー、と頭から湯気でも噴き出しそうな見事なシャウトを見せました。聞かせました。ギャラリーはおおー、とどよめいて、謎の拍手をします。拍手の中でも問答は続きます。
「なんでみーちゃん僕よりフラウに懐いてるの!? 普段世話してるの僕なのに!!」
「構いすぎだからじゃない?」
「え、そう?」
「うん」
ね?とフラウがみーちゃんを持ち上げて、小首を傾げて尋ねると、みーちゃんは不機嫌そうにまた、
「ぶみゃー」
と鳴きました。
「ほら、みーちゃんもそう言ってるし」
「また適当な嘘言って誤魔化そうとする!」
「本当よ。ねー?」
「ぶみゃあ」
「ほらね?」
「ううーん……。フラウが言うならそうなのかも……」
「そうそう」
「そっかー」
アルトは見事、丸め込まれてしまいました。
気をつけよう、と一言、みーちゃんに指を伸ばしては猫パンチで何度も撃退されています。
「ところで」
フラウが言いました。
「これで問題は解決したわけだし、婚約は元通り?」
「え?」
と顔を上げたアルトは、一瞬のちに、急ににまにまと、この世で一番幸せそうな表情を浮かべました。
「んもー、しょーがにゃいにゃあ」
表情筋が緩み切って、言葉遣いが若干猫になっていました。
「フラウがどうしてもって言うなら、」
「どうしても」
「え」
即答にアルトはたじろいで、けれどフラウは夏色の瞳でまっすぐにアルトを見つめます。
「私、アルトが好きだもの」
「え、あの、ちょっと」
「アルトは、悪魔みたいな人は嫌い?」
ぶみゃあ、とみーちゃんが鳴きました。アルトは俯いて、今にも溶けてしまいそうなくらいに顔を真っ赤にしています。
「あの、」
「うん」
「その、別に」
「うん」
「きら、嫌いじゃ、わけじゃなな」
「つまり?」
「す……」
「す?」
「……………………」
長い沈黙がありました。ギャラリーもこのときばかりはしん、と黙っていて、フラウと一緒に言葉の続きを待ちます。
「い、」
が、
「言えるかーーー!!!!」
アルトは歌劇の主役もかくや、という華麗な大声を上げて廊下を走り去ってしまいました。
フラウとみーちゃんとギャラリーにとって、とてもよく見慣れた光景でした。
小さな歌劇の時間はお終いです。
生徒たちは「今回もほんとしょうもなかったなー」「なー」等と不敬極まりないことを口々に呟きながら撤収を始めます。
けれど今日は、
「あ」
と呟いたフラウの視線の先。廊下の角。
なんと、アルトが壁に身を隠して、フラウの方を覗き込んでいました。汗はだらだら、頬は紅潮、瞳は潤んで、今にものぼせて倒れてしまいそうなありさまでした。けれど、彼は懸命に唇を震わせて、
「す、」
「す?」
「すき!!」
たったその一言を、絞り出したら気力が萎んでしまったのか、今度こそ、アルトは本当に恥ずかしそうな顔をして、たったっ、と走り去ってしまいました。
そして残されたフラウは、感慨に耽るような面持ちで瞼を下ろし、先ほどの言葉を噛みしめていました。
「みなさん」
しばらくして、フラウが口を開いたとき、ほかの生徒たちはすっかり撤収の準備を終えていました。けれど、フラウが何か言うのを待ち続けていたのです。
誰もが耳を傾ける中で、フラウは言います。
「いいでしょ。あれ、私の婚約者なの」
知ってまーす、と声が揃って返ってくるのを聞いて、フラウは満足げに、にっこりと、笑いました。
気付けば、フラウとみーちゃん以外には、誰もいなくなっていました。
「フラウリラクル様」
と呟いた低い声。フラウのものではありません。
「いつまで人間と馴れ合っているおつもりなのです?」
声の主は、猫のみーちゃんでした。不機嫌そうな瞳で、フラウを見上げています。けれどフラウはそんな視線もどこ吹く風、といった調子で、
「さあ?」
「そのようにおっしゃらないでください。魔王様もまだかまだか、と痺れを切らしておいでです」
「お兄様はいつもそうだわ。気が小さいのにやたらと回りくどい手段を使うんだもの。まあ、だから私もこうしていられるんだけど」
溜息をついたみーちゃんは、くるり、と尻尾を振って、踵を返します。
「とにかく、早く計画を進めてください。私からこんなことを言うのも差し出がましいことですが、何度も魔王様からそう仰せつかっておりますからね」
「そうね、100年くらいしたら始めてもいいかも」
「またそんなことを言って、怒られるのは私なんですからね!」
ぷんすか、と怒った調子で、みーちゃんは身軽に窓枠に跳び乗ります。それから腕を伸ばしてクレセント錠を外して、からからと窓を開けてしまいます。
「それでは私は一度魔国へ戻ります。すぐにまたこちらに来ますが、それまでお気をつけてお過ごしくださいね」
「ええ、お兄様によろしく。……あ、」
「なんです?」
みーちゃんが振り向くと、フラウは悪戯っぽく微笑んでいました。
「お兄様に怒られない方法、知りたくない?」
「……聞きましょう」
「ただ、こう伝えてくれればいいのよ」
少なくとも、学校のみんなは知りませんでした。
本当はフラウは、王子と結婚するはずだった公爵様のご令嬢なんかではないこと。本当は、秘密のうちに、人間と、ほとんど人間には存在すらも知られていない悪魔たちとの間で交換された人質であること。本当は、悪魔の王様、魔王様の妹であること。
そして、本当は、この王国を攻め滅ぼすための足掛かりを作るよう、魔王様から言いつかっていること。
「私、今、幸せなの」
ひょっとすると、みんなずっと、知らないままかもしれません。