熱
リシアたちは伯爵家を出て、馬車が拾える通りまで歩いてく。
婚約証書は先生がしまって持っていた。
先生の手は肩から離れて、リシアの手を握っている。
指を絡めるように繋がれた手はひんやりとして心地好い。
手を握り返して良いのかわからなくて迷っていると、先生がきゅっと手に力を入れる。
離さないと言われたみたいで、うれしくて頬が緩む。
「リシア、こっちに来て」
手を引かれるままに歩いて行く。
先生が足を止めたのは通りから一本入った路地。
手は繋いだまま先生と向かい合う。
「泣きたい?」
先生に聞かれて首を振る。
泣きたいなんて、あるわけない。
「笑いたい気持ち? うれしい?」
今日は望みが叶った日。
だからうれしいはず、笑みが零れてくるはずなのに…。
先生の手が頬を撫でる。
緑の瞳がリシアを見つめている。どんな反応も逃さないというように。
「うれしい…」
口に出すと違和感が強くなった。
麻痺していた心が痛覚を取り戻す。
「リシア…。 泣きたいなら泣いていいんだよ」
「そんなこと言わないでください…」
自分の声に涙が混じっているのがたまらなく不快で仕方ない。
「うれしいんです! 先生とこれからは一緒にいられる…。
それが約束されて、うれしくないはずがない!!」
嘘じゃないと信じて欲しくて涙を湛えた瞳で先生を見つめ返す。
わかってる、というように絡んだ指に力が込められる。
「なのに、どうして心が痛いんですか?」
今更、傷付くなんておかしい。
ずっとこうなることを望んでいたし、いつか決別するのは知っていた。
なのに……!
「こんな痛みなんて知りたくなかった…、どうしてっ」
父親から逃げて遠くへ行こうとしたのは、自分がいらない存在だと思い知るのが嫌だったから。
自分から捨てれば、思い出さなければ、気づかないですむと思った。こんな弱い自分に。
「リシア」
静かに名前を呼ばれて震える。
怖い。
喜びだけを返せない自分に呆れているんじゃないか、そう思うと涙が零れそうになる。
ぐっとこらえて先生を見つめ返す。
どう思われてもそれはリシアが受け止めなければいけないことだ。
たとえ弱いと失望されても。
涙の膜の向こう。ぼやけた姿を見ようとゆっくりと目を瞬く。
涙を零さないように気を付けながら開けた瞳に映っていたのは…。
見たことないくらいうれしそうに微笑む先生の姿だった。
「リシア、私を酷い人間だと思う?」
「なんで、ですか?」
先生をそんな風に思ったことなんて一度もない。
「君が、泣きそうだから」
予想もしなかった台詞に、先生を見つめる。
「こんなに傷ついて、泣きそうなのに」
先生の指が目尻に近いところを撫でる。
涙を零さないように瞳に力を入れて先生の言葉の続きを待つ。
「一生懸命涙を堪える君が好きだよ」
絡んだ指が強く掴まれる。
「私と生きることがうれしいと言ってくれてうれしい」
甘さを含んだ声で伝わる喜びに、堪えていた涙が零れた。
「うれしいだけじゃなくていいんですか…」
だって、傷ついているなんて…。まるで責めてるみたい。
先生と一緒にいると決めたことを後悔していると、そう見えるんじゃないかとリシアは思っていたのに。
「人の心はそう割り切れるものじゃないね」
あやすようにゆっくりとした言葉で先生が語りかける。
「だから、うれしいと言ってくれることが何よりも貴く感じられる」
一度離した手が再度顔の横で絡められる。
いつの間にか壁に背を付けて顔を覗き込まれていた。
先生の瞳がリシアを捕らえて離さない。
「悲しんでもいい、傷ついてもいい。
…だから隠さないで。
君の想いに寄り添うのは…、一番近くにいるのは私だから」
胸を突く衝動に動かされて、自分から先生に手を伸ばす。
スローモーションのように近づく先生の瞳に目を奪われている間に唇を塞がれた。
絡められた手と反対の手で強く先生にしがみつく。
「…」
くちづけが終わり、離れた唇が瞳の端に落とされる。
滲んだ涙を拭うようにかすめた感触に顔が熱くなっていく。
リシアが睨むと先生は珍しく悪戯っぽい表情で笑う。
視線を合わせたまま、先生が絡んだ手を引き寄せてくちづける。
触れられた感触と甘い瞳にさらに熱が上がっていく。
目を逸らすこともできないで、先生が作り出した熱を持て余すばかりだった。




