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安らかに眠るための準備

作者: さむらいみ

 ふっと意識が遠のきかけた瞬間、全てが軽くなった。

 体の重みも、鼓動に合わせて波打つように伝わってきていた左腕の鈍痛も、その心臓の鼓動さえも、全てが遠いものになり、私を縛りつけていた全ての物から解放された。

 混濁していた意識の霧を涼しい風が一気に払うように、心も同時に軽くなる。

 重みを感じさせる全てを置いて、私はゆっくりと浮き上がる。

 立ち上がったつもりだったけど、私の体は着いて来ない。体から離れた意識が外気に触れる感触なんてものがあるわけないのに、その瞬間、私は真冬に裸のまま外に出てしまったようなひどい寒さを感じる。

 体から意識だけが抜けだす感覚を言葉で表すのは難しいのだけど、なんとなく英語の時間に習った諺を思い出した。

 こぼれたミルクを泣いても無駄。

 私の心はこぼれつつあって、もう二度と元に戻ることは無い。

 喪失感と解放感のようなものが混ざり合って私の心を掻き乱す。

 起き上がった後も、足が床と接している感触は無い。

 目の前に、制服のままバスタブに横たわる私が見える。バスタブの縁から垂れた左腕の先から流れる血が、排水溝へと吸い込まれていく。

 私は目を閉じて眠っているように見える。穏やかな顔。それを見て、少し安心する。勿論美しくは無いが、少なくとも苦悶に歪んだ醜い顔では無かった。

 死体となった自分を見下ろしながら、私はひどく戸惑いを感じる。

 全てを終わらせるために選んだ死のはずだった。それなのに、こうして新しい何かが始まろうとしているらしき事態は思いもよらない事だった。

 私はまだこれから、想定していなかった新しい時間のために、何かを学ばなければならないのだろうか。

 例えば、死者として存在するために必要なノウハウなんかを。

 めんどうだな。

 そんな思いが浮かぶ。


 私は目の前で動かない自分の死体と、まったく同じ姿をしているようだった。

 服も中学校の制服だし、手足も同じ長さ同じ太さ、見慣れたもののまま。ただ、その体その物の存在感が希薄だった。今までは確実に感じられた外気と体との境界線がよくわからない。恐らく、だけど、きっとこの今の姿は生きていた時の記憶がそう見せているだけで、実際は何も無いのだろう。目の前で両手の掌を広げて見ると、薄らと透けているように感じる。そして、手を上げたり指を広げたり、という動作にまったく重みが無かった。

 これからどうすればいいのか、途方に暮れた。

 死んだ後に何をするか、なんて決めてから死ぬ人なんて恐らくいない。ただ、ひとつ確実なのは、もうしばらくしたら、仕事を終えた母か、部活を終えた弟が帰って来る。それがどんなものであれ、ここで私の死体を発見する家族の姿を見ていたいとは思わなかった。

 バスルームから出ようとするが、扉を開ける事が出来なかった。扉の取っ手を握る事が出来ない。扉本体を押してみるが、まったく手応えが無かった。手が通り抜ける様な事はないのだけど、触れている感覚そのものが無かった。

 私はしばらくの間狭いバスルームの中を歩き回る。

 とは言っても、歩いている感覚すらも無い。足が床のタイルに触れている感触その物が無い。

 ふと、排気穴から外に出られるんじゃないかと思い付いた。

 一軒家のうちのバスルームには、天井付近に外と直接繋がった排気穴が開いている。

 私は慎重に自分の死体を避けて、バスタブの縁に登り、排気穴に手を伸ばす。思い切り背伸びをしても、もう数十センチ届かない。もう少し、と思うと、目の高さに排気穴があった。私は自分が浮き上がっている事に気付く。

 勿論、排気穴はようやく手が入る程度の大きさだったのだけど、外へ、と思うだけで、私は排気穴を通り抜け、外に出ていた。

 思いもよらなかった新しい世界で学んだ事のひとつめ。

 私にはもう、体という制約は無い。

 理屈から言えば、壁や扉も通り抜けられるはずだ。いつか出来るようになるのだろうか。そのために学ばなければならないことがあるのだろうか。

 めんどうだから考える事は止めた。今出来る事が何かわかれば、それでいい。

 そのまま宙を漂っていけそうな気がしたのだけど、地面の高さまで降りた。飛ぶよりも歩く方がやっぱり落ちつく。歩いてみると、速度はいつもの通り。試しに少し走って見る、と、かつて走っていた時と同じようなスピードしか出ない。体から解放された存在になったはずなのに、私の心はまだ体の記憶に囚われている。


 どこへ行こう。

 外へは出てみたが、結局私は途方に暮れる。

 行きたいところなど、どこも無かった。

 冬の夕暮れは早い。間もなく夜になる。

 歩く人たちに、私の姿は見えないようだった。時折、散歩中の犬が警戒の唸り声を上げる以外は、誰も私に気付かない。

 死んだ瞬間によぎったのと同じ思いがまたもや私を襲う。

 喪失感と解放感。

 どちらが大きいのか、わからなかったけど、あまり深く考えたくなかった。

 

 住宅街を少し歩き、大通りに出た時に、ふと歩道に座る男の子が目に入った。

 四車線の通りは、交通量も多いが、男の子を見咎める人はいない。

 確かそこは、数週間前にスマホを見ながら運転していた車が歩道に乗り上げ、下校途中の小学生の集団に突っ込むという事故があった場所だった。

 小学生の中の一人が、確か亡くなっていたはずだ。痛ましい事故で、全国的なニュースとなって、今も現場には花が供えられている。

 その横に、男の子は座っていた。

 私もよく利用する道だったが、今までそんな男の子を見た事は無かった。

 学んだ事の二つ目。

 死者になると、他の死者が見える。

 男の子は、不思議そうな顔で、じっと道路を見つめていた。


「見かけない顔ね」

 特に目的も無く駅へ向かう道を歩いていると、突然話しかけられた。

 まさか誰かから声をかけられるなんて思いもよらず、驚きであるはずもない心臓が跳ね上がったような気がする。これもきっと、体の記憶。

 振り向くと、私より十歳くらい年上に見える女の人がほほ笑んでいた。

「あ、あの。私が見えるんですか」

「もちろん」

「てことは」

「そう。私も死んでる」

「そうなんですか。私、ついさっき」

「なんとなくわかる。あなたも選択死なのね」

「せんたくし?」

「まあ、自殺の事なんだけどさ、自殺って言うより選んで死んだって言い方のほうがしっくりくるでしょ。私の造語ね」

 女の人は、そう言って少し得意そうに笑う。

「選択死、ですか。いいですね。それのほうがずっといい」

「私は礼子。お礼の礼に、子供の子」

「あ、私は美樹。美しいに樹木の樹」

「美樹ちゃんね。もし一人でいたいのなら、このまま別れるけど、話し相手が欲しいのなら、少し一緒に過ごさない?」

「あ、ぜひ話相手になってください。私、どうすればいいのか途方に暮れてしまって」

「途方に暮れない人はいないわ。それじゃ、ちょっとお茶でもしよっか」

 そう言って、礼子さんは歩き出した。慌てて後を追う。

「お茶って、そんなこと出来るんですか」

「ん。もちろん飲めないよ。ただ、気分よ、気分」

 連れて行かれたのは、駅前のカフェだった。

 礼子さんは一番奥の席に座った。私も、その前の席に座る。もちろん店員は注文を取には来ない。

「生きていた時に、よく来てたの。はちみつの入ったラテが美味しいのよ。もう飲めはしないけどね」

「初めて入りました。中学生には敷居高いです、このお店」

「違う選択をしていたらやったかもしれないことのひとつね、ここでお茶するって」

「あ、そういう事になるのかな」

「まさか、死んだ後の事なんて考えもしなかった。でしょ?」

「その通りです。何をすればいいのか、まったくわからなくて」

「ま、何をしなきゃいけないなんてことも無いんだけどね。生まれて来た時と一緒よ。なんか知らないけど、いつのまにかここにいた」

「なんか、わかるような、わからないような」

 私が顔を顰めると、礼子さんは笑顔で頷く。

「そのうち慣れるよ」

「あの、礼子さんはどう過ごしてるんですか」

「旅行に行ったり、映画を観たり」

「そんなこと出来るんですね」

「本当は本を読めたらなって思うんだけど、それは無理みたい。でも映画は映画館に行って座ってれば勝手に始まってくれるからね」

「旅行は、どうやって」

「生きてる時と一緒よ。電車や飛行機に乗って、行きたいところに行くだけ」

「飛行機も乗れるんですか?」

「何で乗れないと思うの?」

「まあ、確かに」

「何か不満がありそうね」

 納得いかないような顔の私を見て、礼子さんは笑う。

「不満と言うか、最初に自分の死体を見下ろしていた時に感じたのと、随分かけ離れた話だったんで」

「美樹ちゃんは真面目ねえ」

「真面目って言うか。なんか、上手く言えません」

 今日を境に完全な無になるはずだったのに、こうして新しい日々が始まってしまうのであれば、私は何かと向き合わなければならないのだろうか。例えば、自分の死とか。もちろんそのための覚悟なんて出来ているはずがない。

「ね、美樹ちゃん。まだそんな若いのに、死ぬ事を選ぶって、きっとすごく辛い毎日だったんだよね」

 言われて、思い出す。居場所の無い毎日。学校でも家でも。誰も私に気付かない今と、何も違わないような日々。私の中の大事な部分は、もうずっと前から死んでしまっていた。

 体が震えてくるような感覚。またもや、体の記憶。

「ゴメン。思い出させるつもりはなかったの。でも、もういいのよ。少しでいいから、自分に楽をさせてあげていいのよ。これはきっとそのための時間だから」

 礼子さんは、そう言って少し身を乗り出すと、私の肩に手をかけた。

 感じるはずの無い温かみが、そこからじんわりと広がった気がする。それが記憶による錯覚でも、嬉しかった。


 カフェが閉店になった後、私たちは公園に行って話をした。

 公園は市営の野球場に隣接して、森の中に広い広場があり、その中心に噴水を囲んでベンチが数脚置かれている。私も、気候がいい季節には、ここで学校の帰りに本を読んだりして時間を潰していた。

 いろいろな話をして、深夜になっても、眠くなるということは無かった。

「寝ようと思えば、眠れない事は無いのよ」

 礼子さんは言った。

「どんな感じなの? この状態で眠るのって」

「さあ、わからない。私は試したこと無いから」

「どうして?」

「眠れるって事は聞いた事があるけど、眠った事のある人と会った事がないから」

「どういうこと?」

「きっと、眠ったら、もう二度と目覚めないんじゃないかな。そのうちきっと試してみたくなる時がくるかもね」

 公園には、私たちの他に数人の死者がいた。

「夜になるとここに来る人は多いわね。どこで過ごしていいか分からない人には、なかなか落ち着くのよ、ここは」

「他の人はどういうところで過ごしてるの」

「人によるかな。死に方と関係があるのよ」

「死に方?」

「病気で死んだ人なんかは、家にいるのが落ち着くみたい。本人も家族も死を受け入れやすいからかな。不慮の事故で死んだ人は、その場所から動けない事も多い。大通りの男の子には気付いた?」

「うん。歩道に座ってた」

「あの子、自分が死んだ事に気付けてすらいない」

「そんな」

「まあでも、家で過ごしてた人でも、いつの間にかここに来るようになる人も多いかな」

「どうして?」

「だって、生きてる人たちは、そのうち忘れてしまうでしょ、死んだ人の事。それを見ているのは、やっぱり少し寂しいんでしょうね」

「私が死んでも、最初から悲しむ人はいないな」

 礼子さんは、私の言葉を聞いて、私の顔を少しの間見つめると、顔を上げて空を見た。

 冬の澄んだ空気の中、公園の街灯を霞ませるほどの明るさで、青白い半月が浮かんでいる。

「本当にそうだと、逆に楽かもね」

 私は月を見上げたままの礼子さんの横顔を見ながら、思い浮かんだいくつかの質問を飲み込んだ。


 三日後、私は自分の葬式に行った。

 礼子さんは止めたほうがいいよって言ったけど、礼子さんの言葉が気になって、なんとなく見ておきたい気持ちになっていた。

 葬儀が始まる前、義理の父親は喫煙所で職場の仲間と話をしていた。

「どうせなら事故に見せかけるとかすりゃいいのによ、みっともねえ」

 義父が言うと、仲間たちが下品に笑う。

 義理の弟は、学校の友達と話をしていた。

「だから大丈夫だって。日曜日の試合絶対出るから。こんなの関係ねえよ。大丈夫」

 日曜日にあるらしいサッカーの試合の事で、頭がいっぱい。

 母は葬儀場の中に並べられた椅子に一人で座って、放心していた。

 何を考えているのか表情からはわからなかったが、少なくとも泣いている様子は無かった。

 参列者は数えるほどだった。

 学校からは担任と学年主任がやって来たが、事務的に焼香を済ますと、母親に目礼だけして早々に帰って行った。

 お坊さんのお経が終わりに近づいた頃、一人の女の子が葬儀場に入って来て並べられた参列者のための椅子の一番後にそっと座った。

 その姿を見た瞬間、またもやあるはずのない心臓が、トクリと跳ねた。

「奈津美」

 私は思わず声をかける。もちろん、声は届かない。

 奈津美は、小学校の四年から六年まで同じクラスだった、私の唯一の友達だった。

 六年の終わり頃、卒業を待たずに中途半端な時期に引っ越してしまった。親の都合で、ずっと遠くに。中学に入ってから、一度だけメールを貰ったのだけど、私はそれに返信していなかった。新しい中学校について語る奈津美のメールは、その時の私を、いっそう孤独にした。

 奈津美は、焼香のために祭壇の前に来ると、しばらくの間私の遺影を見つめて立ちつくしていた。

 真っ赤な目から、涙が溢れ出す。

 いつの間にか後に並んでいた弟の友達が「早くしろよ」と声を潜める事もせずに言う。

 奈津美はその声に我に返って、手早く焼香を済ますと、足早に葬儀場を出た。

 私は奈津美の後を追う。

 奈津美は、駅まで歩き、電車を乗りついで新幹線に乗った。二時間後に新幹線を降りるとさらにそこから電車を乗り継いで、大坂よりももっと西の、聞いた事の無い駅で降りた。

 奈津美は、電車の中でも新幹線の中でも、本を読む事も音楽を聞く事もメールのチェックをする事もなく、ずっと思い詰めた顔で俯き、時折溢れる涙を拭っていた。

 

 奈津美は駅前の駐輪場から自転車に乗った。私はそっとその荷台に座る。

 駅から少し走ると、辺りは田んぼが続く田舎道で、暗くなった道を頼りない街灯がぼんやりと照らしている。

 小学生の頃、こうして奈津美の自転車の後に乗っていた時の事を思い出す。

 学校が終わり、母と二人で暮らすアパートまで帰ると、時折アパートの前に今の父親の車が停まっていた。そんな時、私は車が無くなるまで外で時間を潰さなければならなかった。その孤独な時間から私を救ってくれたのが奈津美だった。同じクラスになって、一緒に帰るようになると、少し遠回りをして、奈津美は私の家まで一緒に帰ってくれた。そして、家の前に車が停まっていると、それがいなくなるまで一緒にいてくれた。奈津美の家まで歩き、奈津美の自転車に二人で乗って、ただ走り回った。街の端を流れる川沿いの道を上流まで遡りながら、二人とも好きだった歌手の曲を歌った。川を遡るほど、山に近づき、家も人も遠くなり、私たちの声もどんどん大きくなる。奈津美の背中にそっと頭をもたれて耳を押し付けると、奈津美の歌声が体の中から直接響いてきて、それがなぜかとても嬉しくて、時折涙が出た。

 私は、あの時のように耳を奈津美の体にそっと触れさせる。

 だけど、私はもうそこから暖かさを感じる事が出来なかった。


 その後、数日の間、私は奈津美と一緒に過ごした。

 奈津美は、クラスで特に目立つ方では無いようだったけど、特別に仲がいい友達も数人いて、放課後には吹奏楽部でクラリネットを吹き、充実した中学校生活を送っているように見えた。

 私も会った事がある両親は、優しい人たちで、私の死でショックを受けている奈津美を気遣っている様子が、さりげなく、でもとても暖かだった。

 私の葬式の翌日には、普通の生活に戻ったように見えた奈津美だったのだけど、家族や友達と話していても、どこか上の空で、浮かべる笑顔もぎこちなかった。そして、夜になると部屋でひどく塞ぎこむ瞬間があった。

 たまに、勉強机に座って、勉強をするわけでも本を読むわけでも無く考え込み、そして机の引き出しからカッターナイフを取りだすと、それを左手の手首に当てて、すぐにまた慌てたように引き出しに仕舞う。

 奈津美は、私の事について、両親にも友達にも話す事は無かった。奈津美が私の死をどう受け止めて、どう乗り越えようとしているのか、私にも分からなかった。

 私は、自分の選択がここまで奈津美の心を痛めつけた事に、驚きと恐ろしさを感じた。

 どうすることも出来ず、ただ見守る事しか出来ない自分がもどかしかった。

 

 来た道のりを引きかえし、一度地元に戻った。

 公園に行くと、礼子さんはすぐに見つかった。

「どこに行ってたの? もう帰って来ないのかと心配したわ」

「ね、礼子さん、生きてる人に何かを伝えるにはどうすればいいの?」

「何があったの?」

「ね、教えて。どうすれば生きてる人に何かを伝える事が出来るの?」

 礼子さんはしばらく黙って私の目を見つめる。

「方法は無いわ」

「どうやっても?」

「どうやっても」

「そんな、何かあるでしょ。きっと何か方法があるでしょ」

「何があったのか話してみて」

 私は、奈津美の事を話した。私の死を悲しんでくれる人がいた事を。そして、その大切な人が私のせいで苦しんでいる事を。

「その子は、一人でそれを乗り越えるしかない。美樹ちゃんの死をどう受け止めて、どう消化するか、その子が一人で立ち向かわなきゃいけない」

「だって、私のせいで、奈津美が苦しんでるの。もしかして、自分がなんとか出来たんじゃないかって責任を感じてるのかもしれない。そんなことなんて、全然無いのに。奈津美に責任なんてなんにもないのに」

「そんな風に思ってくれる友達がいたって事を、きっと美樹ちゃんもしっかりと受け止めなければならないんだろうな。どんな人でも、死ぬって事はそんなに軽いものじゃないのかもね」

「でも、でも、もしかして私のせいで奈津美まで」

「ね、その友達、どこに住んでるの?」

 私は地名を告げる。

「あら、そこにはまだ行った事が無かったわ。私も一緒に行っていい?」

「ありがとう。一人で奈津美の事見てるのつらいから、そうしてくれると嬉しい」


 すぐに駅に向かうと電車を乗り継ぎ、最終の新幹線に間に合った。

「私たちが生きている人に何かを伝える、というのは、すごく重大なルール違反みたいなものなんじゃないかな」

 新幹線の中で、礼子さんは話してくれた。

「今まで、そういう人を何人も見て来たわ。ほとんどの人は、誰かに何かを伝えたいと思っている。でもそれが出来てしまうって、やっぱり多分間違ってるんだと思う」

「確かに、そうなのかも」

「そうそう。公園にいつもいる人で、ドラッグの売買をしてた人がいるの。何か大きな取引があったとかで、かなりの量のドラッグを、一度駅前のコインロッカーに隠して、直後に交通事故に巻き込まれて死んじゃったのね。身分証明書なんかも持ってなくて、警察でも身元が分からず、その人が死んだ事は、仲間も取引相手も知らないまま。その人が裏切ったんじゃないかって、仲間がひどい拷問にかけられたらしいの。ロッカーにブツが入ってる事を伝えなきゃ、仲間が殺されるって随分必死になんとかしようとしてたわ」

「それで、どうなったの」

「どうにも」

「今では放心したように、ずっと公園に座ってる」


 私たちは、その後数週間ほど奈津美と一緒に過ごした。

 細心の注意を払わないとたちまち壊れてしまいそうな、脆く危うい時間を過ごす奈津美を、私たちはただ見守る事しか出来なかった。

 ある日曜日の午後、奈津美は自転車に乗ると、学校がある街とは反対方向へと走り出した。私と礼子さんは、狭い荷台に並んで座る。荷台は充分なスペースがあるわけではなかったけど、私たちには実質座る場所は必要無かった。そこに座っている気持ちになるだけで、自転車のスピードで運ばれて行く。

 道はやがて奈津美が住む街を囲むなだらかな山並みへと差し掛かり、次第に登り坂となっていく。奈津美は一度自転車を止め、籠に放り込んであったディパックからスマホを取りだすと、ヘッドフォンを繋いで、画面を操作した。

 スマホをディパックに戻し、再び走り出すと、やがてヘッドフォンから流れる曲に合わせて歌い出した。それは、いつか私たちが一緒に歌っていたあの曲だった。

 そう言えば、私は中学校に入ってから、この歌手の歌を聞くのを止めてしまっていた。私の世界から消えてしまったと思っていた大切な物。歌も、そして友達も、本当はいつでも手の届く場所にあった。その気にさえなれば、いつだって私は大好きな歌を歌う事が出来たし、奈津美に会いに来る事が出来たのだ。

 奈津美の歌声が、幾重にも重なった私の殻を剥がして行く。剥き出しになった心が外気に晒され、ひどく傷む。私は両腕で体を抱え込み、いつの間にか声を上げて泣いていた。

「思い切り泣いていいんだよ」

 礼子さんが私の肩を抱いて、そう言ってくれた。

 奈津美はしばらく坂道を走り、見晴らしのいい場所で自転車を止めた。そして、スマホを入れたディパックを抱えてガードレールに座って、随分長い間、ヘッドフォンから流れる歌を聞きながら、自分が住む街を眺めていた。


 その日を境に、奈津美は夜になってもカッターナイフを取り出す事は無くなった。そして、日々の生活に少しずつ笑顔が戻って行った。

 私は、奈津美と別れる時が来た事を悟った。

 ある朝、学校へ行く奈津美と一緒に家を出た。自転車に跨って走り出そうとする奈津美に向かい、思い切り大声で「ありがとう。大好き。さよなら」と叫んだ。聞こえないよって礼子さんは笑ったけど、その時、奈津美が一瞬ペダルを踏み込もうとした足を止めて、不思議そうに私のいる方へ振り返った。

もしかしたら、たまたまかもしれなかったけど。


 そのまま私と礼子さんは電車を乗り継ぎ、さらに西、そして南へと旅行を続け、最後は沖縄まで行った。

 昼間は高級リゾートのプールサイドでデッキチェアに寝転んで日光浴を楽しみ、夕方には、ビーチに座り海に溶け込むように沈む夕日を眺めた。

ある夜、海からせり上がる岸壁に上の岩山にあるパワースポットへ行った。そこは、礼子さんがどうしても行きたかったという場所で、満月の夜には精霊たちが集まると言われる霊場だった。霊場の中心となるひと際大きな岩に開いた自然の洞窟で祈っていると、真っ暗な洞窟の中が、薄ぼんやりとした光で照らされた。いつの間にか、いくつもの青白い小さな炎がゆらゆらと揺れながら私たちを取り囲んでいた。

 私たちは、夜が明けるまでそこで祈り続けた。


「ね、礼子さんは、どうして選択死をしたの」

 私は、ずっと聞けなかった事を聞いてみた。

 その時私たちは、霊場のほど近く、海に面した高い崖の縁に並んで座って、朝日に輝く吸い込まれそうなほど青い海を眺めていた。崖の上には気持ちの良い草地が広がっていたけど、私たちはその草の柔らかさも、草原をさわさわと揺らす穏やかな風も感じる事は出来ない。

「ん。大した話じゃないわ。どこにでもあるような、つまらない失恋」

「そんな大恋愛だったんだ」

「どうかなあ。当時はそう思ってたんだけど、ほんとどこにでもあるようなありふれた恋愛だったと思う」

「でも、そんなに一途に誰かを好きになるなんて、想像出来ない。ちょっと羨ましいかも」

「善し悪しよ。そのせいで、何も見えなくなっちゃうからね。私の場合、結局そのせいですごく多くの人を悲しませた」

「そうだったんだ。礼子さんの言った事、私にも理解出来た。悲しむ人がいないほうが楽かもしれないって」

「楽なのは確かよね。でも、美樹ちゃんは今どう感じてる?」

「奈津美の事なら、知れて良かったかな。あんな風に思ってくれる友達がいたって分かって、生きていた時の自分がほんの少しだけど好きになれたような気がするし。ただ」

「ただ?」

 自分の死体を見下ろしていたあの時から、厳重に鍵を掛けていた箱が開きそうになる。

「後悔してる?」

 鍵が壊れて、何かが箱から飛び出す。

「後悔してる事を認めたくないって思ってるかも」

「私の場合はね、悲しむ人がたくさんいた。私が馬鹿な選択をしなければ、助けてくれた人が、たくさんいた」

「礼子さんは、自分の選択を後悔したの?」

「嫌と言うほどね。今も、多分」

「私は、もしもあのままだったら、今でも重い鎖みたいな物で、がんじがらめにされてあの場所から動けなかったと思う。後悔があるとしたら、そんな鎖なんて、本当は簡単に引きちぎる事が出来るって知らなかった事。それが、とても残念」

「私はずっと後悔してばかりだったな。でもやっと吹っ切れたかも」

 礼子さんは、そのまま上半身を倒して寝転ぶと、気持ち良さそうに伸びをする。

「死んだ後もこうやって意識が残っているのに、どうして世界が死者の意識で溢れかえっていていないのか、わかる?」

 礼子さんが寝転がったまま聞く。

 私も同じように寝転がる。

「どうしてだろう。そう言えば、見かける死者の人たち、服装とか見るとそんなに昔に死んだわけじゃなさそう」

「意識がこの世界に留まっている時間って意外と短いの」

「やっぱりそうなんだ。そんな気はしてた」

「それでね、意識が消える時って、なんとなく分かるって言うか、自分で選べるって言うか、もういいかなって時が来るのね」

「それがもしかして眠る時なのかな」

「きっとそう。今ならなんとなく分かる」

 礼子さんは、少しの間黙って空を眺めていた。

「それで、私、ここでこのまま眠ってしまいたい」

 礼子さんが言った。

「え?」

「今、ここで」

「そんな、今ここで?」

「うん。最高じゃない? 南の島で青い海を見下ろしながら、朝日を浴びて眠るの」

 突然の事で驚いたし、何よりそれは礼子さんとのお別れを意味していたのだけど、不思議と悲しくは無かった。それは多分、私たちはもうすでに死んでいて、これ以上無くなる体は無いから。意識だけで過ごすと、なぜか永遠って感覚が理解出来るような気がしてくる。

「眠った後、どうなるのかな」

 私は礼子さんに聞いてみる。

「さあね。そればっかりはわからない。死んだ後でも旅行が出来るなんて思いもよらなかったし、また何か新しい何かが始まるのかも」

「油断出来ないね。また最初からいろんな事学び直しかも」

 私が言葉に、礼子さんが笑う。

「私はこうなってからもずっと色んなことから目を背けて来たけど、美樹ちゃんのおかげで、やっと自分と向き合えた気がする。ありがとう」

「そんな、私こそ礼子さんのおかげで心強かった。満月の夜にここに来たら、もしかしたら礼子さんと会えるかな」

「会えるかもね。きっと、どんなこともあり得るよ」

「礼子さん、ゆっくり眠って。私がここで礼子さんが眠るまで見守ってるから」

「ほんとに? ありがとう」

 礼子さんの穏やかな顔を見ながら、こんな綺麗な風景の中でなら、私も一緒にそのまま眠ってしまってもいい気がしてくる。

「美樹ちゃんはまだよ」

 私の気持ちを見透かしたように、礼子さんが言った。

「え?」

「美樹ちゃんが眠るのは、もう少し後」

「どうして?」

「そんな気がするの」

 礼子さんはそう言って、目を閉じた。

「礼子さん」

「ん?」

 礼子さんが目を閉じたまま答える。

「ありがとう。おやすみなさい」

 礼子さんは、目を閉じたまま微笑んだ。

 やがて、礼子さんの体が、少しずつ透明になって、次第に細かい光の粒子になって朝日に向かって螺旋を描きながら空へと吸い込まれて行った。

 私は、光が空へ溶けてしまうまでその場で寝転がっていた。そのまま目を閉じてみるが、眠ってしまう事は出来ないようだった。


 寄り道をしながら、ゆっくりと時間をかけて、地元の街へ戻った。

 私は、駅から真っ直ぐに大通りへ行って、今も一人で車道を見つめている男の子の隣に座った。

「何をしているの?」

 私が聞くと、男の子は顔を上げた。

「ママを待っているの」

「そうなんだ」

「うん。ママが迎えに来てくれるのを待ってるんだけど、なかなか来てくれないんだ」

 そう言って、男の子は車道に目を戻す。

 私は、男の子を抱きしめる。少しでも私の体が暖かければいいなと思いながら、強く抱きしめる。

「早くママが来てくれるといいね。それまで、お姉さんが一緒にいてあげる」

「ほんとう? ありがとう。一人で待ってるの、ちょっと怖かったんだ」

「もう怖がらなくていいよ」

 そう言って、私は男の子を抱きしめ続け、体の記憶を呼び起こす。

 私が微かに感じている心臓の鼓動が、少しでも伝わればいいな、と願いながら。

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