おっさん達が転生したらオークと女騎士になっていた件について
「――線、人身事故のため電車が遅れています」
その日の夕方。
男が駅のホームで聞いたのは、そんな放送だった。
人身事故のアナウンスなど、多くの電車が乗り入れるこの駅では珍しくも何ともない。男もいつものように、自分が乗る電車には影響がないな……というありきたりな感想を抱いただけだ。
「そいやキタのやつ、面接上手く行ったかね……」
小さく呟き、ルームシェアしている友人にメールを一通送っておく。
残念ながら、女ではなく男だ。
しかも自分と同じ、35歳のいい歳のおじさんだった。
職を失った彼がアパートに転がり込んできた時はどうしてくれようと思ったが……折からの不況でやはり会社が倒産し、男まで職を失った後は家賃や生活費を折半してくれる貴重な金づるとなってくれている。
今日は知り合いのツテで近所の出版社に面接に行くと言っていたが、出来ればもう少し――具体的には、男の就職先が決まって収入が安定するまで――ルームシェアしていて欲しかった。
「…………キタ、が?」
その日の晩。
彼のバイト先のコンビニに掛かってきた電話は、警察から。
不審げな顔をしている店長の視線を気にしながら聞いた話によると、ルームシェアしていた友人が死んだのだという。
店長に拝み倒してバイトを早退し、慌てて最寄りの警察に向かったが、死体には面会させられないと断られた。損壊が酷く、とても人に見せられる状態ではないのだという。それが友人だと分かったのは、ホームに転がっていた仏さんの鞄に名刺と携帯、そして男の家の住所を書いた履歴書が入っていたからだ。
夕方起きた人身事故で死んだのは、友人だった。
「――ヤジくんへ。明日から来なくていいから」
そして夜が明ける頃。
彼が家に戻った時。
携帯に届いていたメールは、友人からのレスではなく、バイト先の店長からのもの。
男は、友人と仕事を、いっぺんに失った。
○
「……世の中って、冷たいなぁ」
それから、数ヶ月の後。
男が立っていたのは、鬱蒼と茂る森の入口だった。
あちこちに「考え直せ」「今なら間に合う」という看板が立っており、奥からはぎゃあぎゃあという不気味な叫び声が聞こえてくる。
友人と言う名のルームシェア相手と仕事を失った男がアパートを追い出されたのは、あっという間だった。もともと親戚付き合いもなく、両親も既に他界している男だ。彼女など生まれた時から一度もいないし、そんな経験もない。
ただでさえ厳しかった35歳の就職活動は家を失った事で難易度はエクストリームに突入し、政府相手に生活保護を申請しても、何やかやと理由を付けて追い返されてしまった。
「嫁さんでもいたら、ちっとは変わってたのかね……」
森の奥。
男は小さく呟き、木の枝にロープを引っ掛ける。
それなりに見つかりやすそうな場所だ。この森で死体を見つければ見つけた人には報奨が入ると噂に聞いたし、最後に何かの役に立てれば少しは心も浮かばれる気がする。
止めるものは、看板以外なにもない。
「……あの世で会おうぜ、親友」
小さく呟き。
それが、男の最後の言葉となった。
そして。
「…………お前」
「お前……!」
二人が再会したのは、戦場だった。
○
森と泉に囲まれた、ある王国の西の端。
国境に近い夜の森で打ち合わされていたのは、鋼の剣と鉄の斧。
しかし先程まで鋭く交わされていたそれが止まったのは……互いが、互いの正体に感付いてしまったからだ。
「お前……こんな所で会うとは思わなかったぞ……」
一人は人間。
夜闇にも映える長く美しい金の髪を後ろでまとめた女だ。長剣と家紋の入った大きな盾を持ち、竜の鱗を削って作られた薄手の――しかし防御力は鋼鉄のそれをはるかに凌ぐ――鎧をまとっている。
美しいその顔が驚きに固まっていたのは、一品モノの兜を弾き飛ばされたからではなく……目の前の相手が何者か、理解してしまったから。
「俺の方がびっくりしてるわ。……ってか、何で俺だって分かったんだよ」
一人は異形。
女の三倍はあろうかという分厚い筋肉で全身を覆った、豚と人を掛け合わせたような怪物だ。簡素な革鎧に幾つもの羽根飾りを付け、手には大振りな斧を握っている。
それは、この世界でオークと呼ばれる異種族だった。
しゃがれた低い声で喋る片目のそいつもまた、女と同じように目の前の相手が誰か理解し、半ば茫然と戦場に立っている。
「何となくだ。お前もそうだろ、ヤジ」
「ああ、まさかお前も覚えてるとは思わなかったけどな。……キタ」
それは、ヤジの斧がキタの兜を弾き飛ばし、互いの目が合った瞬間のことだった。
理屈ではなく、感覚的に相手が誰かを悟ってしまったのだ。
「……まだ戦うか?」
「無理」
短いやり取りで互いが武器を下げる間にも、周囲ではいまだオーク軍の夜襲を迎え撃つ剣戟の音が響き渡っている。
「なら、とりあえず兵を退けないか? お前その格好だと、そこそこ偉い感じだろ。ヤジ」
ヤジの鎧には、幾つもの羽根飾りが付いていた。
確かオークの部隊の地位は、その羽根飾りの量に比例するはず。だとしたら、今のオークの姿からすればその地位は自ずと知れる。
「オーク族の部隊長だ。……お前は?」
対するキタの格好は、それだけで一廉の騎士と分かるものだ。弾き飛ばした兜だけでなく、まとう竜鱗の鎧も相応に高価な物だろう。
「見ての通り騎士だよ。部隊長だ」
弾き飛ばされた兜を拾い上げ、キタはそれを慣れた仕草で被り直す。彼女の仕草はひとつひとつが何かと様になっていて、ヤジはかつては同い年だった男とのギャップに苦笑いを浮かべるしかない。
「ってか、なんでお前が美人な女騎士で俺がオークなんだよ」
「なんか不慮の事故死した奴は、来世でちょっといい目見られるらしい」
それが誰の言葉だったか、キタの記憶に残ってはいなかった。しかしそれはそれで、辻褄は合う。
「あー俺自殺だからなぁ……」
非業の死と自殺で、来世ではこれだけ差が出るものか。
次に死ぬ時はちょっといい目が見られる死に方がいいな……と、ヤジはしみじみと考えてしまう。
○
砂漠の中央に位置するその街は、自由都市と呼ばれていた。
あらゆる勢力、あらゆる種族の争いからの中立を宣言したその街は、かつてさる勇者が建てた街だと伝わっている。砂漠の中央にただ一つだけあるオアシスと行き交う隊商達をバックにした経済力を武器に、その街は設立当時の思想を保ったまま、今も世界の中立都市としての地位を保っていた。
その街の一角。
「よー」
「よー」
酒場に足を踏み入れた女騎士を片手を上げて招き寄せたのは、先日の森の中で会った片目のオーク……ヤジである。
「何呑む?」
「とりあえずエール」
カウンターに着くなり、女騎士は即答だ。
「そこは変わってないな」
思えば、外に呑みに出た時はいつもこうだった。
ヤジのバイト上がりの時間に合わせて、キタが少し遅れてやってくる。席に着くなりキタはとりあえずビールを呑み……。
「エールだからだいぶ味違うけどな。お前はカシスウーロンしか呑まない誓いはどうした」
ヤジがカシスウーロンならば完璧だったが、今日のテーブルにはそんなものはなく、大きなエールのジョッキが置いてあるだけだ。
「だってこの世界カシスもウーロンもないしよ。焼き鳥もタレないし」
鶏の塩焼きをつまみに、オークは生ぬるいエールをマズそうにちびちびと煽っている。アルコールはともかく、ビールが嫌いなのだ、この男は。
「……醤油もみりんも味噌もないしなぁ」
「不便な世界だな」
「前世が便利だとキツいよな」
「携帯ないから呼び出しも命懸けだしな」
なまじ前世の記憶が残っている分、どうしても前の世界と比べてしまう。それが無意味な事だとは分かっているが、それでも35年間過ごした世界の事を忘れるには……新しい世界での人生は短すぎた。
キタのぶんのエールが置かれるなり、女騎士はそれを勢いよく呑み干した。ジョッキ一杯をあっという間に空にして、体の奥に溜まった空気を力一杯吐き出してみせる。
エールはぬるかったが、それでも砂漠の熱気よりは心地いい。まるで真夏のビアガーデンのような感覚に、女騎士は心地よさそうに目を細めてみせる。
「ってかお前、前世の記憶あるんなら人間世界でスゴイ事とか出来るんじゃないのか? 鉄砲とか」
それは、前世の記憶が……それもこの世界よりはるかに高度な知識を持っているなら、すぐに思いつく事だった。
「あー。だめだめ」
しかしオークの言葉に、女騎士は新しいジョッキを受け取りながら首を振る。
鉄砲は極端な話だが、基本的な医療知識や通信方法。この世界で実現できそうな仕掛けは、日常を漠然と生きてきた男達でもいくらでも思いつく事ができた。
だが、知っている事と、実現できる事は違う。
「やろうとしたら、教会からすっげー怒られた」
「部隊長なのにか?」
「部隊長なんて課長か係長クラスだよ。前世の記憶使って色々戦術とか提案してた頃もあったけど、だいたい上が理解してくれなくて却下食らうしな」
温泉の効能や、病気や怪我の治療法。ある時はテレビ特番で見た戦国時代の狼煙の通信網を整備しようとした事もあった。しかしその全ては上層部や外部からの反発や反論を受け、何一つ実現する事がなかったのだ。
「そんなもんか」
「前例がないからって、司祭の何とかとか、元老院の何とかって連中がなー」
「ひどいな」
「……教会の発言力とかすっげーぞ」
現代日本にも天下りや癒着はあったが、その比ではない。ネットで悪事をバラす……などという手段も、隠しマイクなどで悪事を収拾する手段もない以上、密室で何が起こっても告発する術がないのだ。
「多分、オークの方がなんかスゴイ事出来ると思う」
だが、その言葉に今度はオークが首を振る。
「ダメダメ。オークの生活って基本サバイバルレベルだから」
「あー」
肩をすくめるように顔を歪ませる――たぶんそれが、苦笑なのだろう――オークに、女騎士も苦笑するしかない。
「あ、まあ、慣れたらそれがフツーではあるんだけどな」
植物を採集し、狩りを行い、日々を過ごす。いわゆるスローライフ的なそれは都会育ちのヤジには厳しいものもあったが、さすがに十数年も経てば慣れもする。
しかしオークのその言葉には、女騎士も表情を厳しくするしかない。
「……人間襲ったりしてるのにか?」
「あんなの跳ねっ返りのごく一部だって。十五の夜とかそういうのだよ」
「尾崎のノリで村襲われても困るんだが……」
ガラスを割って回るくらいなら……と思うが、この世界での板ガラスは王宮などにしかない貴重品だったと思い直す。せいぜい馬を盗んで走り出すくらいにしておいて欲しいところだった。
「それに、人間襲うのは趣味の偏ってる変態だけだからな」
「……お前は?」
目の前のオークと会ったのは、まさにその人間の領土が襲われた瞬間だったのだ。女騎士の視線にオークは少し気まずそうにしていたが、やがて小さくひと言だけ呟いた。
「この顔の女に勃つと思うか?」
外見はオークでも、中にある記憶は人間のものなのだ。
中身もオークなら他のオークと同じようにオークを愛する事も出来るのだろうが、さすがにそれは人間の感性しか持たないヤジには厳しすぎた。
二杯目のエールで思い出したように乾杯し、話は終わる気配もない。
やがて移り変わるのは、彼女達の近況についての話だ。
「ってか、お前こそそんだけ美人ならモテモテだろ」
恐らくまだ二十歳は迎えていないだろう。凜とした気の強そうな表情に、丁寧に手入れされているだろう金の髪。今日着ている長衣は砂漠を渡るためのゆったりとした物だったが、その内に隠されたボディラインは騎士として鍛え上げられ、適度なメリハリも備えているように見えた。
ヤジの感性から見ても、美しい女騎士という表現がぴったりくるだろう。
これで中身が知り合いの中年男でなかったら……とも思うが、知り合いの中年でなければこんな中立都市で酒を酌み交わせるはずもない。あの夜の戦いで斬り合っておしまいだっただろう。
「別に頭の中はおっさんだしなぁ……。男に言い寄られても、正直キモいっつーかな」
「女は? こう、女学院的な所とか……」
目の前の彼女なら女性にも……いや、むしろ女性にもてそうなタイプだったし、同僚の女騎士に慕われるなり、侍女の娘に憧れられたりという事もあるだろう。しかもキタは本当に女なのだから、相手をだましているわけでもない。
「それな……。みんな期待するけどな」
そんなオークの淡い期待を、女騎士はため息と共に押し流す。
「あいつらびっくりするほど陰険だぞ。女こええ」
「マジか」
貴族の子女などが絡んでくると、最悪だった。ただでさえプライドとプライドが正面からぶつかり合う狭い界隈なのに、それがさらにギスギスの度合いを増してしまうのだ。一族の威信が掛かっている場面である事も多いから、譲れない気持ちは分からないでもないが……。
最近は女騎士は、そんな場面には出来るだけ顔を出さないようにしているほどだ。
「……野郎同士で馬鹿話してた方がマシだって。お前とかマジ落ち着く」
今日は元ルームシェア相手しかいない事もあって、気負いの一切がないのだろう。微笑む女騎士は本当に楽しそうで、貴族の名誉や教会の癒着にまみれた世界で生きている姿など想像も付かない。
「まあ俺がそういうエロトークするとみんなドン引きするんだけどな」
「その見かけじゃなぁ」
凜とした少女の声でされる猥談は、事情を知らない者からすれば引くしかないだろう。
話す間に三杯目のエールを颯爽と空にした女騎士に、オークは四杯目のエールを注文すべく太い手を挙げてみせる。
「そういえばさ」
女騎士が空けたエールは、既に何杯目だったろうか。
赤い顔でゆらりと身を揺らしながら、女騎士は傍らのオークの太い腕にしなだれかかる。
「俺、死んだじゃん」
「電車事故だったんだよな」
不慮の事故だったと、先日の戦いの夜に聞いた。細かい状況は当時の警察も教えてくれなかったが……面接の結果がどうあれ、キタがホームで身投げをするようなタマではない事はヤジもよく知っていた。
だからこそ、あの日コンビニにかかってきた電話を信じる事が出来なかったのだ。
「ああ……。あの後どうなった? お前一人じゃアパートの家賃払えねえだろ」
「アパートは三か月で追い出された。その後はまあ、路上だな」
「お前、親戚いないって言ってたもんな……」
女騎士はオークの二の腕に頬を寄せ、細い指でそこに生えた毛を弄んでいる。そういえばこいつ抱きつき癖があったな……と、片目のオークは今さらながらに思い出した。
家呑みではその辺のクッションを投げていたし、外で呑む時は向かい合って座るようにしていたから餌食になる事はほとんどなかったが、今日はそれを忘れてカウンターに座ったのが失敗だった。
いや、女の子に抱きつかれると考えるなら、カウンターで正解ではあるのだが……。
「バイトもクビになってさ。まあ、それ考えたら今のオーク生活もそれほどひどくないんだけど。家はあるし」
「じゃあ嫁さんとかいるのか? 脱童貞かー?」
そんな女騎士からほんのりと香るのは、アルコールの匂いと……女性特有の、どこか甘い匂い。胸の鼓動が一瞬早くなった事を自覚しながらも、目の前の相手が酒癖の悪い元ルームシェア相手だと考えると、その鼓動は一定以上の昂ぶりをするには至らなかった。
「いないよ。うちの部族は母系社会だから、こっちが嫁さん探しに行かなきゃいけないんだけどな」
「お前、基本コミュ障だからなー」
「……しかもオーク相手だしな」
集落のオーク達のほとんどは親切で、気立てもいい。
ヤジもオークとしてもいい歳になったし、縁談の話が来ないわけでもなかった。
ただ……いくら性格的に問題がなくても、人間だった前世の記憶による感覚が、異形達に興奮する事を許してはくれないのだ。
「……じゃあさ」
二の腕にちり、と伝わってきた痛みは、女騎士が彼の腕に小さく爪を立てたから。
「お前も、人間に子供産ませたりしてるのか?」
角が立つのも当たり前だ。女騎士も色々と考える所があるのだろう。
なにせ十数年ぶりに会った旧友が、いままで戦ってきた異種族だったのだ。オークが人間達の攻撃を受けているのと同様、彼女達もオークに多くの損害を与えられているはずだから。
「……戦いには加わってるけどな」
そしてそれは、ヤジも同じ。
「女子供を襲ったりは?」
「俺はしてないけど……部下はな」
「まあその辺はなぁ……」
小さく呟き、諦めたように息を吐く。
前世の友情か。
それとも、今のしがらみか。
「ってなわけで、相変わらずまだ童貞だ」
「マジか。オークのくせに」
オークはどれもこれも邪悪で、降した女を犯し孕ませる事しか考えていない。
いわれなきオーク差別の色を含む視線に、片目のオークは心底嫌そうな表情をしてみせる。
「あれだ。下っ端の頃は周囲の警戒任されるんだよ」
捕らえた相手に乱暴を働く間は、周囲の警戒役として下っ端が見張りに立てられるのが常だ。もちろん下っ端達も最後のおこぼれくらいは預かれたりするのだが、ヤジはそこでも手を出す気にはなれなかった。
「今は上の方なんじゃないのか?」
「下積みの時の話だよ。俺はまあ、結構早く登れたけど」
戦闘そのものは意外にも得意だったのだ。
前世の記憶に対するストレスの捌け口にしていた事もあるし、群れの中では前世の知識で作戦を立てる立場にもいた。部隊を一つ任されるまでに掛かった時間は、オークの中でも短い方だろう。
「なんだオーク生活満喫しやがって」
「お前だって女騎士生活満喫してるだろ」
「……で、今は人間の女侍らせてるのか?」
「お前俺に童貞って言わせたいだけだろ。してないってば」
何かとこだわる女騎士に、ため息を一つ。
肉体の絡み酒の次は、言葉での絡み酒だ。
今の女騎士がどれだけ呑めるのかは知らないが、そろそろ限界酒量かもしれない。次はエールではなく水を頼もうか……と思った所で、この砂漠では酒より水の方が高い事を思い出す。
「でも今は部隊長なんだろ?」
「部隊長になったら、部下に譲らないとな……」
上にのし上がれば、それはそれで女騎士の独占など出来ないのだ。もともと忠誠という概念自体が薄いオークだから、即物的なごほうびがなければ思う通りに動いてくれなくなる。
ひどい時には、指揮に従わないどころか、その場で裏切られる事も珍しくないのだ。
「……ってかまあ、あの光景は現物見たらヒくぞ」
「……それはよく知ってる」
ぽつりと呟いた女騎士の言葉に、今までの酔いはどこにも感じられない。
「……湿っぽくなっちまったな」
「よし、呑み直すぞ。お酒ー! とりあえずエール!」
もともと久方ぶりの再会を祝う酒の席なのだ。新しくやってきたジョッキを打ち合わせ、二人揃って一気に半分ほどを空にする。
悪くなった空気を感じ、ごく自然に元に戻そうとしてくれる。ルームシェアをしていたのは数年だが、この十数年の居心地の悪さを一瞬で埋めてくれるその振る舞いに、オークも残り半分のエールを喉奥へ一気に流し込んだ。
「おーいい飲みっぷりじゃねえか!」
「……で、そういうお前はどうなんだ?」
酒臭い息をげふ、と吐きながらオークが口にしたのは、そんな問いだった。
「女に聞く質問じゃないぞ」
「お前だから聞くんだよ。……どうなんだ?」
相手がキタだと分かっていても、酒の勢いがなければ聞けない問いだ。
「今のところ貞操は無事だよ。残念でした」
女騎士もそれは分かっているのだろう。迷うどころか猥談上等とニヤリと笑い、女騎士は豊かな胸元を意味ありげに揺らしてみせる。
「……そうか」
「おや、優しいんだな」
「知ってる奴があんな目に遭うのは、さすがに良い気分じゃない」
知り合いでなければ良いという話でもないが、それでも知り合いが酷い目に遭うのは、心が痛む。
それが例え、今の同胞達の……今のヤジ達がしている事だったとしてもだ。
「そうだ。旦那とかは? 騎士なら跡継ぎ云々とかあるんじゃないのか?」
だが、再び重くなりそうだった空気に気付き、ヤジはそこで話題を切り替える。少々強引な話題転換だったが、その意図は女騎士も感じてくれたのだろう。知らんぷりで応じてくれた。
「俺、妾腹の娘だからなー。そういうのは割と無縁なんだよ」
そんな立場だったからこそ、社交界にもそれほど相手にされず、前線に立つ騎士として過ごす事が出来たのだ。一族の中で浮いた立場という事は理解していたが、逆にそれが女騎士にいくらか気楽な立ち位置を与えてくれてもいた。
「ふふん。まだ処女だぞ。襲うか?」
「中身が男だと分かってて襲う趣味はねーよ」
「おっぱいも結構あるぞ。お前乳派だったろ?」
再び抱きついたオークの太い腕に、柔らかい物がふにゃりと当たる。
腕にしがみ付いてきた女騎士は、さっきほど酔っているようには見えなかったから、今のそれはわざとなのだろう。
「パイズリとか、してやってもいいんだぞ? したことないけど」
美しい娘の豊かなおっぱいの感触は、男としては間違いなく喜ばしい物だったのだが……。
「……ホントに悪い。性転換した友達相手にしてる気にしかならねえ」
「……俺も。なんか気持ち悪くなってきた」
なんでこいつの中身がキタなんだろう。
ヤジは心の底からそう思い、大きな口でため息を吐いた。
酒場を後にした二人が歩くのは、自由都市の大通りだ。
ここから北東に向かえば女騎士の住む城、北西に向かえばオーク達の集落に至る。
「……それでな」
「おう」
既に二人は旅の装いに身を包み、自由都市を出る様子だった。
本当ならば宿で一泊でもしてもう少し旧交を温めたい所だったが、どちらも軍を預かり、自由な動きを制限された身。今日の外出も、多忙な隙を縫って何とか都合を付けただけなのだ。
「近々、そちらにモンスターの総攻撃がある。ゴブリンやリザードを交えての大攻勢だ。多分……総勢で三千を超える」
「……多いな」
女騎士の属する西方騎士団は、歩兵を含めても五百にも満たない。本国に応援を求め、周辺の部隊をかき集めたとしても、千五百を超えることはないだろう。
「ああ。……だからな」
オークは女騎士に合わせていた歩みを止め、彼女の肩をそっと掴む。
「このまま、逃げてくれないか?」
「……そういうわけにもいかんだろう。これでも王国騎士だぞ」
だが女騎士は、優しく触れた大きな手を、そっと払うだけだった。
彼の気持ちは痛いほどに分かる。その気持ちがあったからこそ、危険を冒して女騎士と連絡を取り、軍規違反で重罪とされる――オークの軍規は知らないが、重大な裏切り行為である事は間違いないだろう――軍の動きを女騎士に伝えたのだろう。
「お前こそ、止められなかったのか?」
「いち部隊長がどうにかなる話かよ。族長レベルの話だぞ」
どうにもならないのはお互い同じ。
「お互い社畜なのは変わらんか」
「社畜というか、族畜というか」
例え世界が変わっても、歯車は、歯車でしかない。
「バイトよりは……マシじゃないな」
むしろメール一本でクビと言われない分、こちらの世界の方が厳しいだろう。
人とオーク。
守護者と、略奪者。
どちらも仕事や家族、生活という単位ではない。掛かっているのは、命そのもの。
「キツいなぁ」
「キツい」
それから十日ほどの後。
王国西方騎士団は、モンスター達の一斉攻撃を迎え撃ち……。
あっさりと、壊滅した。
○
「部隊長! 敵軍の女騎士を捕まえました!」
オーク達の群れの一角。ヤジ配下のオークが戦利品とでも言うかのように振り回して持ってきたのは、竜の鱗で作られた兜だった。
それが誰の兜か、忘れるはずもない。
(あいつ、逃げろって言ったのに……!)
それらしい一団がいると報告は受けていた。だからこそあえてヤジはその軍勢の攻略に名乗りを上げたのだが……嫌な予感は、どうやら最悪の方向で当たってしまったらしい。
「どうしたらイイですか?」
オークの群れの最前線の兵は、人間の女が好きな連中が揃っていた。オーク族全体でははみ出し者の彼らも、人間を蹂躙するための部隊として運用する際は、他のオーク達よりも飛び抜けて優秀な戦果を発揮するのだ。
もちろんそれが何のためかは、使いのオークの下卑た表情を見れば明白だった。
「もう、やっちまっていいですかー?」
もっともそんな一団の一角を預かるのが、片目のオークではあるのだが。
「…………その兜の女騎士は俺がもらう。誰にも手出しさせるんじゃねえぞ」
「あれ、お頭が珍しい」
「たまにはいいだろう。文句あるか!」
使いのオークとヤジの力の差は歴然だ。珍しく凄んでみせた片目のオークに使いのオークは慌てて手を振り、長の言う通りにしますと顔を情けなく歪ませてみせる。
「けど、そいつぁ……他の女も、ですか?」
どうやら、キタ以外にも捕まった女騎士がいるらしい。
強権を振りかざせば、彼女達をヤジが独占する事は出来るだろう。しかしそれは忠誠心という言葉を知らない部下達の不満を爆発させるのに十分な選択でもあった。
そしてヤジは、部下のオーク全員を一度に敵に回して勝てるほど、強くはない。
「………………好きにしろ」
「さっすがお頭! 話が分かる!」
吐き捨てるように言い放ち、ヤジは全速で駆けていく使いのオークを追って前線へと歩き出す。
落とされた街の一角。
制圧した屋敷の隅に縛られ、ベッドの上に転がされているのは、自由都市で会ったあの女騎士だった。
激しい戦いだったのだろう。竜の鱗を削って作られた鎧には無数のヒビが入り、長く美しかった金の髪も見る影もなくほつれ、煤や埃にまみれている。
見張りのオークを下がらせて、代わりにその屋敷へと足を踏み入れたのは……大柄な片目のオークだった。
「…………よう」
「…………よう」
交わされる挨拶は、あの自由都市で再会した時と同じ。
ただ、その後にエールが出てくる事はなく、どちらの表情も久方ぶりの友人を迎える時のそれではない。
「逃げろって言ったよな。……っつかこの話、上には?」
「取り合ってくれてたら、立場は逆だったろうなー」
どこか憔悴した様子の片目のオークに、女騎士は疲れた様子でぼやいてみせる。
親友からの忠告は、騎士団より上に伝えられる事はなかったのだ。本国からの増援はおろか周辺からの支援さえもろくになく、それどころか女騎士の話を聞いた騎士の一部はわれ先にと逃げ出す始末。
三千の魔物の群れを迎え撃った戦力は、恐らく三百に満たなかっただろう。
「……部下はどうなった」
「聞かない方がいいと思う」
「……そうか」
互いのやり取りは、淡々としたもの。
どちらも分かっているのだ。
彼女達に何が起こったのか。
彼女に何が起こるのか。
「……お前を守るので、精一杯だった。すまん」
「お前の事情も分かるよ。……正直ぶっ殺してーけど」
ギスギスした関係ではあったが、それでも彼女の部下だった娘達だ。
仕方ない。
その言葉で済ませられるようなものではけっしてないが、それでも……目の前の片目のオークは、彼の出来る限界の所で動いてくれたのだろう。
「で、俺の立場はどうなってるんだ?」
「一応、俺のモノって事になってる」
「お前のモノとか、改めて言われるとキモいな……」
「……安心しろ。俺もキモい」
改めて女騎士を目の前でそう口にして、言った事を即座に後悔したオークである。
二人はそんな様子にしばらく力ない笑い声を上げていたが、やがてそれもすぐにしぼんでしまう。
「けど、そうか。……初めてがお前なら、まあいいか」
彼は、彼女の身分を『一応』と言った。
恐らく彼が確保出来たのは、最初に彼女に手を付ける権利まで。その後は、彼女の部下を犯した彼の部下達が、女騎士の体というおこぼれを頂戴するのだろう。
それでも他の女騎士達よりもマシなのは、最初の相手がいくらか加減をしてくれるだろう事か。
「痛いのは諦めるけど、出来るだけ優しくしてくれよ」
オークの誰かが妙な気を利かせたのだろう。縛られた身が転がっているのは、戦火を免れた頑丈そうなベッドの上。そこでごろりと鎧をまとった体をよじらせ、女騎士はオークに弱々しく微笑みかける。
「俺は嫌だぞ」
「でもお前がやらなきゃ、他の誰かに最初っから酷い目に遭わされるんだろ?」
オーク達の手に落ちた女騎士の末路は、彼女も良く知っていた。
自分もとうとうその末席に加えられてしまうのかと考えると、何とも言えない情けない気持ちになってくる。
「……ってか、ホント言うとな。好きだったんだぜ。お前の事」
「前世越しのカミングアウトとかやめろよ」
「この顔で言ってもダメか。ちっ」
「中身知ってるからなー」
目の前の相手が同い年の無職だった事は諦めていい。
ただ同性だったという事実だけは、転生のついでに消去されていて欲しかった。
やがて。
「……よし」
心を決めたのか、部屋の隅に腰掛けていたオークは、ゆっくりとその身を起き上がらせた。
一歩、二歩と歩む度に、床がギシギシと音を立て……。のし掛かってくる大きな姿は信頼の置ける友人なのだと分かっていても、女騎士は思わずその身を縮こまらせてしまう。
固く目を閉じ、奥歯を噛みしめる中。胸元の辺りを大きな太い指が探る感触があって。
やがて来たのは、束縛を解かれた開放感だ。
「…………お前」
「やっぱダメだ、逃げろ」
オークからすればひと抱えにもならない体を起き上がらせて、軽く埃を払ってやる。武器になる物がないかと辺りを見回した末、部屋の壁に掛かっていた剣を取ると、刃の具合を確かめて差し出した。
防具はどうしようもないが、ヒビが入っていても竜の鱗だ。少しは防御の足しになるだろう。
「部下を置いて逃げられるかよ。……どうにかならないか?」
先ほどの一瞬。相手が知った男だと理解していても、乱暴は決してしない奴だと分かっていても、それでも心に宿ったのは恐怖の二文字だ。
それが名も知らぬ、乱暴を働く事しか考えていないオークだったとしたら……彼女達が覚える恐怖は、女騎士の想像を絶するものだろう。
「俺にそこまでの力はないんだ。そんな事したら、まず味方から裏切られる」
そうなれば、部下のオークだけではない。他の隊のオークや血の臭いを嗅ぎ付けた他の魔物達もヤジの敵に回るだろう。それだけの敵に囲まれてキタを無事に逃がすなど、どう考えても不可能だった。
「頼む。逃げてくれ」
女騎士一人だけなら、ヤジの失策だけで済む。事に及んだ最中に不覚を覚えたと誤魔化すだけなら、彼女が魔物の雑な警戒網を抜けられるよう祈るだけでいい。
けれど、そんな片目のオークの懇願を、女騎士は受け入れはしなかった。
「…………なら、お前も一緒だ」
見上げ、呟くのはそんな言葉。
「俺は騎士団を捨てる。だから……お前も責任取れ」
それは、何一つとして理屈の通っていない言葉だった。
けれどオークの腕を掴み、大きな瞳に涙を浮かべて紡いだ言葉は……それが、彼女の揺るぎない本心なのだと示すもの。
「……そういえば、うちに転がり込んできた時も無茶苦茶なこと言ってたな」
彼が初めてヤジのアパートに転がり込んできた時、何と言っていたか。
確か理屈の通らない無茶な事を押し通して、そのまま居座られた気がする。
ルームシェアを始めてからこの体を経て、既に二十年近い。それだけ前の事など、さすがに鮮明には思い出せなかったけれど……。
「……とりあえず自由都市にでも逃げ込めば何とかなるだろ」
呟き、斧を片手に立ち上がる。
「お前とまたルームシェアか?」
「それも嫌か?」
どこか寂しげに笑う女騎士に、片目のオークは口元を歪める。
「それはまあ……いいや」
そして、決死の脱出行は始まった。
夕闇の中。
「裏切りだー!」
魔物側の陣営に響き渡るのは、金切り声にも似た叫び声。
「オークが一匹、女騎士を連れて逃げた!」
その声に応じて動き出すのは、羽の生えたモノ、長い尾を持つモノ、無数の牙を生やしたモノ……並み居る異形の兵隊達だ。
「殺せ!」
甲高い叫びが空を覆い。
「殺せーっ!」
夜の街に、夜の森に、その声は殺意と共にざわざわと広がっていく。
「あー。……やっぱ、無理だったなぁ」
夜の中に響くのは、穏やかな声。
それはどちらの声だったのか。
叫び疲れて喉は枯れ果て、肺に流れ込む血で呼吸ももはや覚束ない。
「だなー」
けれど、応じる声はどこか爽やかなものだった。
「結局俺、童貞のまんまか……」
大地の上に力なく転がる小山のような肉塊には、無数の矢や手投げ槍がハリネズミのように突き立っている。
「俺も処女のまんまだったなぁ」
その傍らにぼろきれのように転がる小さな影は、周囲に竜の鱗を撒き散らし、それを黒ずみ始めた赤で彩っていた。
「……まあ、男の良さ知る前に、女の良さ知らなくて良かったのかもしれないけど」
「何だお前も童貞かよ」
「そんな相手がいたら、お前んちなんかに転がり込むかバーカ」
前世ごしの親友の二度目のカミングアウトに、オークは真っ赤な泡に覆われた口角を歪ませてみせる。
「くそー。やっぱ、逃げる前にお前で一発ヤッとけば良かった」
よく考えれば相手はとびきりの美少女で、本人も合意の上。さらに言えば、ヤジの性癖も完璧に理解してくれている相手だったのだ。
ただ一点にだけ目を瞑れば、千載一遇と言っても良いほどの童貞卒業のチャンスだったのに。
「今からするかー。マグロになりそうなのは勘弁してくれよ」
相変わらず和姦上等な最高の誘いだったが、残念ながら、オークはもう目も見えなくなっていた。
「……回復魔法とかないのか? 復活の魔法でもいいぞ」
「そういうのは教会が独占してるんだって」
騎士や戦士に魔法を広めて、回復できる騎士や戦士を育成してはどうかと提案した事もあったのだ。しかしその計画もあっという間に教会に握り潰されて、そのままになっていた。
テストケースには、女騎士も名乗りを上げていたというのに……。
「厳しいなぁ……」
「厳しいよ」
小さく呟き、伸ばされた血だらけの手に手を重ねる。
「次は、もうちょっとマシな所で会いたいな……」
生まれ変わりはある。
それは、嫌と言うほど分かっていた。
「また来世……か」
だとしたら。
次は…………。
○
はるかな大空に浮かぶのは、宇宙から戻ってきた輸送船の群れ。
もう少し低い空を飛んでいるのは、二千メートルを超える高層建築の間を飛び交う飛行車両だ。
高層建築の階層の間に渡された通路を歩いているのは、白衣を着た青年であった。胸元には幾つものバッジが下がり、彼が宇宙開発機関の重要研究員である事を示している。
そんな彼の前から歩いてくるのは、細身の女性。
肉感的な体を覆うぴっちりとしたスーツに、タイトスカート。口元を彩る真っ赤なルージュ。
白衣の青年は知るよしもないが、彼女こそ彼を暗殺すべく差し向けられた、殺人アンドロイドであった。
二人は何事もないかのようにすれ違い。
振り向きざまに殺人アンドロイドは掛けていたサングラスを投げ捨て攻撃態勢を取り、青年も白衣に仕込まれた防御システムを起動させる。
二人の視線がぶつかり合い……。
理屈ではなく。
「…………あ」
感覚的に、それが誰かを分かってしまった。
「…………あ」
二人の物語は、終わらない……!