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水底呼声  作者: 宣芳まゆり
番外編
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彼女には言えない

多分,俺はお邪魔虫だろうな,と思う.

なので昨日も今日も,一人で川まで水をくみに行った.

ウィル先輩とみゆさんが,二人きりの時間を持てるように.

しかし,そうやって気を使えば使うほどに,ずうずうしくなるのが先輩だった.

世界の果ての森の中で彼女を押し倒している先輩に,俺は言葉を失った.

「好きだよ,ミユちゃん.」

日の高いうちから,何をやっているのですか.

「君は僕のものだ.何があっても離さない.」

甘い雰囲気が漂ってくる.

「ウィル,そろそろスミ君が帰ってくるから.」

みゆさんを驚かさないように,俺は木の陰に隠れた.

ころあいを見はからって,姿を現そう.

「まだ帰ってこないよ.」

ちょ,先輩!

気づいているくせに,何を言うのですか!?

「スミはきっと,川魚を捕まえてから戻ってくるよ.」

すでに水の入った鍋と水筒を抱えて,ため息を吐く.

はいはい,分かりました.

もう一回川に行って,魚を捕ってくればいいのですね.

心の中だけで,わがままな黒猫に返事をする.

まったく,もう.今回だけですよ!


そして夜は夜で,すやすやと眠るみゆさんの顔を,先輩がじっと見つめている.

いとしくてたまらない,というまなざしで.

「先輩,俺は離れた場所で休みましょうか?」

気を利かせて提案する.

幸いにして,城からの追っ手はまだ来ていない.

「駄目だよ.」

予想に反して,先輩は断った.

「我慢できなくなるから,スミはここにいて.」

黒の瞳の中に切実な光が見えて,俺は驚く.

「まさか,まだ……?」

想いの通じ合う恋人同士なのに?

先輩はこくりとうなずく.

「簡単には抱けないよ.」

先輩の手が,彼女のほおに伸びた.

けれど触れる寸前で止まり,ぎゅっとこぶしを握りしめる.

ウィル先輩とみゆさんは,俺が来るまで二人きりで旅をしていた.

恋心をはばむものなど,何ひとつなかっただろうに.

「大切にしているのですね.」

怖くなった.

先輩の想いの深さに.

「好きな女性は,簡単に抱いてはいけないと教わったからね.」

先輩は笑った.

「特に,その女性が初めてなら.」

「誰から教わったのですか?」

国王陛下が言ったのだろうか.

カイル師匠は,……ありえないよな.

「エーヌさんだよ.」

先輩の答は,またまた予想外のもの.

「エーヌさんって,――まさか通っていた娼館の女性ですか?」

「そうだよ.」

先輩はあっさりと肯定する.

忘れていたけれど,先輩は娼館に通っていた.

しかし,とんでもない皮肉を言う娼婦だったらしい.

金で男に身を任せながら,好きな女性は簡単に抱くなとさとすとは.

「先輩,ミユさんに話してはいけませんよ.」

念のために,くぎを刺す.

「何を?」

先輩は瞳をぱちぱちさせる.

「娼館に通っていたことは内緒です.」

俺は声を低めた.

これは絶対に知られてはいけない.

「なんで?」

「嫌われます.」

軽蔑されるに決まっている.

先輩の年で,娼館だなんて.

「ミユちゃんは僕を嫌わないよ.」

先輩はにっこりとほほ笑む.

うらやましくなるほどに,自信たっぷりだ.

「あぁ,でも怖がらせるのかもしれない.おととい,怖いと言われたしね.」

――ウィルがいないのは,もっと嫌なの.

俺は二日前の,二人の会話を思い出す.

――だから,そばにいて.

彼女はウィル先輩のすべてを受け入れた.

先輩の手が汚れていることを承知で,そばにいてほしいと告げた.

――起きているでしょ? ウィル.

あのとき,俺も起きていた.

彼女のささやくような声を聞いていた.

先輩と同じように寝たふりをしていたのに,彼女は先輩だけを起こした.

憎悪がわき起こった.

どうして俺には,声をかけてくれないのですか?

王城のときとはちがう,今は俺もそばにいる.

あなたの目の前にいる.

俺だって,あなたからの許しを求めているのに!

「スミ,」

夜の闇の中で,先輩はうっすらと笑みを浮かべた.

「渡さないよ.」

彼女に触れるなと,二度目の警告だ.

「俺は,――ほしいわけじゃありません.」

先輩から奪いたいわけじゃない.

ただ,彼女を崇拝している.

彼女は,俺のこり固まった世界に風穴を開けた.

王国を救うと言ってくれたのだ.

「あ,そう.」

興味をなくして,先輩は視線を外す.

そして彼女の寝顔を眺めた.

心からいとしそうに.

「いつか抱くのですか?」

先輩の背中が揺れた.

珍しく動揺しているのかもしれない.

「ミユちゃんが許してくれたらね.」

言葉が落ちた.

彼女は何も知らずに,ぐっすりと寝入っている.

簡単に壊せないのだ,この静寂を.

愛すればこそ,尊く感じてしまうから.

「まだまだ先っぽいですね.」

少しだけ安心してしまった.

恋のようで恋でない,この不思議な気持ち.

彼女には伝えるつもりはない.

今は木々に隠れて,見えない銀色の星々.

いつか手が届いて,俺にも好きな女性ができるのだろうか.

心地よい眠気がやって来て,俺はすとんと眠りに落ちた.

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