1-2
「何をしているの?」
王城の中庭で,くらやみから現れた少年は,夜の使いのように黒一色だった.
黒い髪に,黒い目.そして服も.
体にフィットした黒い服は,忍者のようだ.
少年の細い体が浮かび上がる.
誰もいないと油断していたみゆは,突然現れた少年をにらみつけた.
泣いているところを見られたなんて…….
ゆっくりと呼吸を整えて,震える指先を握りしめる.
「名前を教えて.」
少年は無遠慮にも,顔をのぞきこんでくる.
みゆは,さっと顔を背けた.
「ないの? なら,僕がつけていい?」
長い髪を一房すくい取られて,あわてて振り払う.
なんという,ずうずうしい子どもだ!
「あなた,誰?」
声が震えずにすんだことに,みゆは内心で安堵する.
「知らない.」
少年はうれしそうに笑った.
「でも呼び名はウィル,それから黒猫と呼んでくれたら通じるよ.」
言っている意味が分からない.
しかし少年が名乗った以上,みゆが名乗らないわけにはいかない.
「私の名前は,古藤みゆ.」
真実,黒猫のような少年は,みゆの全身をおもしろそうに眺め渡す.
「今夜,この世界に連れてこられた地球人よ.」
涙で汚れた眼鏡をハンカチでふき,かけなおす.
クリアな視界が戻ってきた.
そして自分を観察する少年を,観察し返す.
くせのある黒髪は,肥えた土壌のような色合い.
瞳の色も黒で,肌は,みゆと同じような色をしている.
だが顔のほりは深く,異国人であることを感じさせた.
「チキュウの人と事前に会うのは初めてだ.」
少年が顔をぐいっと近づけると,何とも言えない生臭いにおいがする.
「年は?」
何のにおいか分からないが,みゆは心持ち少年との間に距離をとった.
「十九歳.」
何かを思いついたらしく,少年はぱっと瞳を輝かせる.
「分かった,オーエルという職業の人でしょ?」
「ちがうわ,……受験生という職業の人よ.」
大学受験は仕事ではないが,とりあえずそう答えた.
「どういった仕事なの?」
対する少年の方は,中学生か高校生か.
幼い顔だちをしているし,声も高い.
「毎日,机に座って勉強をしているの.」
背は,さほど変わらない.
「何の勉強?」
目の高さがほぼ同じで,逃げにくい.
「文学とか科学とか歴史とか,さまざまな分野の勉強をして,試験に合格するのが仕事なの.」
みゆの方が聞きたいことだらけだが,少年の質問攻めに押されている.
少年は何者なのか,この世界は何なのか,日本に無事に帰れるのか.
「学者か,賢そうだものね.」
何気ない言葉に,胃がきりっと痛んだ.
こんなところで,こんなことをしている場合ではないのに.
もっと勉強をしなくてはいけないのに.
「どうしたの?」
不思議そうな少年の声が遠くなる.
視界が暗くなり,みゆはその場で崩れ落ちた.
「あらら?」
いきなり倒れた彼女に,少年はのん気な声を上げる.
持病でもあるのか,胸を押さえて倒れてしまった.
土の地面に,長い黒髪が散らばる.
白すぎる顔がやみに浮き上がり,無防備な首筋をさらしていた.
「きれいな髪なのに,もったいない.」
絹のような光沢のある,見事な黒髪.
小さな眼鏡をかけて,今は閉じられている瞳も同じ色をしていた.
ウィルは気を失った彼女を抱き上げる.
彼女の体は女性らしい丸みがなく骨ばっていて,驚くほどに軽い.
「ひとりで泣いていたんだね.」
ほおにくっきりと残る涙の跡.
「いつか僕に見せてね.」
少年はくすくすと笑いながら,明かりのついている王宮の建物の方へ歩き出した.
――ようこそ,わが王国へ.
光のさきは,みゆの知らない場所だった.
――ご心配を召されるな,異世界のお客人よ.
三十代から五十代の男性たちが,みゆを囲む.
時代がかった衣装を着た,さまざまな色の髪と目をした男たちだ.
その中で特に豪奢な服をまとった人物が,国王らしかった.
――あなたは十日後に,故郷へ帰れるのだから.
彼らの顔に浮かぶのは,うそのほほ笑み.
都合のいいことを言って,みゆをだまそうとしている.
――それまで,この城でごゆるりと待たれよ.
木でもコンクリートでもない,冷たい石の城で.
本当に?
けれど,なんだか信用できないわ.
それとも,私が疑い深すぎるの?
――何をしているの?
黒の瞳,黒の髪.
――名前を教えて.
日本人と同じ黒色を持っているのは,少年だけだ.
ゆらゆら,ゆらゆらと沈んでいく.
くらやみは暖かくて,心地よい.
――学者か,賢そうだものね.
やみに抱かれて,一生眠っていたい.
「……ん,」
まばゆい光の中で,みゆは目を覚ました.
昨日の服のままで,――英字プリントのTシャツとジーンズ,スニーカーを履いたままで,見知らぬベッドの上で眠っていた.
ベッドはふかふかだが,あまり眠った気がしない.
大きな窓から朝日が差しこむ.
寝室は広く,内装も豪華だ.
棚の上には,水差しとコップ,ドレスの少女をかたどった白い陶器の人形が置かれている.
現実感があるようで,ない.
天気だけはいい朝だった.
「おはようございます,ミユ様!」
みゆがため息を吐こうとしたとき,元気な声が飛びこんでくる.
「朝食はベッドで,お取りになられますか?」
扉から,亜麻色の髪の少女が入ってきた.
エプロンのついた紺色の制服を着たメイドの少女である.
「私の名前はツィムです,昨日からミユ様のお部屋付きになりました.」
ちょこんと,かわいらしいしぐさで頭を下げる.
きらきらと輝く明るい笑顔に,自然と好感が持てた.
「未熟者ですが,よろしくお願いします.」
朝日の似合う少女に,みゆは苦笑してあいさつを返す.
「こちらこそ,よろしく.」
「朝食を運びますね.」
自己紹介を終えると,ツィムはツバメのように身をひるがえして寝室から出ていく.
少女の背中を見送って,
「朝はいつも食べないのだけど.」
みゆは今度こそ,ため息を吐いた.
するりとベッドから降り,毛の長いじゅうたんに足をつける.
そのとき,
「きゃぁああ!」
扉の向こうから,少女の悲鳴が響き渡った.
「ツィム?」
みゆはぎょっとして,扉の方まで駆け寄る.
「逃げてください,ミユ様.」
真っ青な顔のツィムとぶつかる.
「どうしたの?」
震える少女を抱きとめて,問いかける.
何ごとが起こったのだ?
「ちがうよ,仕事で来たんじゃない.」
のんびりとした少年の声が続く.
視線をやると,扉の向こうで黒髪の少年がにこにこと笑っている.
「ウィル.」
昨夜出会った,不思議な雰囲気の少年だ.
朝の光の中でも,ウィルはやみ色の服で身を包んでいる.
白い光にけっして染まらないでいた.