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水底呼声  作者: 宣芳まゆり
第2章 決意
17/227

2-1

澄んだ夜空に,ぽっかりと浮かぶ月を眺めていた.

歩道橋の上で,しばし足を止めて.

地球の月はどれだけ輝いていても,寂しく見える.

それはみゆの隣に,少年がいないから.

こぽりと口から泡が出る.

泡は中空まで昇って,見上げる月がゆらゆらと揺れる.

あれは水面に映った月の影.

こぽこぽと息がこぼれていく.

暗い海の底で,水の流れに長い髪がもてあそばれる.

――ミユちゃんはきれいだね.

少年のほほ笑みがよみがえる.

髪を押さえつけて,みゆはしゃべろうとした.

ありがとう.姉さんはくせ毛だったから,この髪は少し自慢なの.

――かやと同じ大学に入って,あなたはどうするの?

母親の声がよみがえる.

――かやが送れなかった大学生活を送るの?

何も言わない父親の,もの言いたげな目がよみがえる.

――かやは死んだのに,どうしてあなたは生きているの?

姉を救えなかった後悔と,一人だけ助かってしまった負い目が,今もみゆを苦しめる.

私はどうして生きているの?

ごぽごぽと息がのまれる.

生きていていいの?

生き残ってよかったの?

がばりと空気を吐き出して,代わりに入ってくるのは黒い水.

苦しい,生きていくのは苦しい.

胸をかきむしる,真っ暗闇に落ちないように.

たった一人で生きていくのは,

「ミユちゃん.」

唐突に,みゆは目を覚ました.

「へ?」

みゆの顔を,黒髪の少年が心配そうにのぞきこんでいる.

「ウィル? 私は寝ていたの?」

「うん,ぐっすりと.」

ベッドから起き上がれば,少年がうれしそうに笑う.

そして眼鏡を手渡した.

「ありがとう.――今はまだ夜?」

眼鏡をかけて部屋を見ると,がらりと様子が変わっている.

「そう,夜だよ.」

清潔で寝心地のいいベッド,かわいらしい造作の鏡台.

鏡台の脇には,みゆが地球から持ってきたリュックがあった.

ウィルの部屋に大量にあったナイフは,まったく見当たらない.

「ここは,……どこ?」

少年に抱かれるために,ベッドに入ってからの記憶があやふやだ.

「後で説明してあげる.」

ウィルはにこにこと笑って,シチューの皿を差し出す.

「まずは食べてよ.おなかがすいているでしょう?」

おいしそうなにおいに,みゆの腹はぐぅと色気のない音を立てた.

「ありがとう.」

素直に受け取って食べ始めると,よほど空腹だったのか,驚くほどに食が進む.

自分の服装が変わっていることにも気づいたが,目の前の食事に気を取られた.

「もっとゆっくり食べないと駄目だよ.」

少年がたしなめるように,みゆのスプーンを持つ手をつかんで止める.

「ひさしぶりの食事なのだから.」

「あ,ごめんなさい.」

恋人の前で,がつがつとみっともなく食べてしまったと,みゆは恥じた.

「食欲,あるよね?」

探るような少年の視線に,みゆはこくりとうなずく.

食欲があるどころか,遊び疲れた子どものように腹ペコだ.

「よかった,魔法は成功だ.」

少年はみゆをぎゅっと抱きしめる.

「これで君は僕のもの.」

くすくすと笑って,みゆをなかなか解放しなかった.


ざっくざっくと,土の地面が掘り返される.

黒装束の男たちが,ある一人の女性の墓を暴こうとしているのだ.

陰気な作業にふさわしく,夜は暗く沈みこんでいる.

カイルの隣に立ち,スミは黙って作業を見守った.

「ありました.」

男たちが真新しい棺を掘り出す.

「開けろ.」

カイルが男たちに命じる.

だが死者へのぼうとく,――しかも若い女性に対する,に男たちはちゅうちょした.

スミだって,本音を言えば開けてほしくない.

「いいから,開けろ.中に入っているのは人形だ.」

カイルが再び命じると,男たちは顔を見合わせてから,ふたをこじ開けた.

「ミユさん,」

棺の中で眠っているはずの娘に,スミはランプの明かりをあてる.

白いほお,漆黒のつややかな髪.

少年の呼びかけに応じて,闇夜の瞳が開かれる.

うっすらとほほ笑みかける,美しい人形.

まったく腐敗はしておらず,それは三日前の死体ではありえなかった.

「もういい.墓を戻せ.」

カイルは,その場から離れる.

「スミ,来い.」

「はい.」

彼の声はあきらかに怒っていて,少年はびくびくしながら,ついていく.

「ウィルを殺せ.」

「無理ですよ!」

与えられた命令を,少年はすぐさま拒絶した.

「お前が監視をやめたときに,ウィルはいけにえと人形を入れ替えたのだ.」

カイルの顔は厳しい.

「殺されに行け,せめて黒猫の腕の一本でも折ってみせろ.」

「そんな……,」

スミの甘さに,ウィルは徹底的につけこんだ.

みゆの人形は,事前に用意していたのだろう.

ただ入れ替えるチャンスがなかっただけで,しかしそのチャンスをスミは与えてしまった.

――職務怠慢だよ,スミ.

あのとき,ウィルは笑っていた.

本当に楽しそうに.

スミがみゆに触れるのを止めたのは,人形だとばれることを防ぐため.

儀式の朝はメイドのツィムからも遠ざけ,人形に朝食を取らせなかった.

そして何食わぬ顔で儀式を行い,罰を受けるであろうスミを見捨てて城から逃げたのだ.

おそらく本物のみゆは,黒猫の部屋に隠されていたのだろう.

「儀式をやり直さなくてはならぬ.いけにえは連れ帰れ.」

冷静なカイルの声が,少年を打つ.

力なくスミは,うなだれた.

黒猫を倒し,なおかつ黒猫の執着する宝を奪うなど不可能に決まっている.

けれど,どれだけ嫌だと言っても,スミは命令に従うしかない.

命令に従わなければ,ウィルではなくカイルが少年を殺すだろう.

スミは,犯すべきではない失態を犯したのだから!

あれは演技だったのですか,先輩?

みゆを殺した後の痛ましい姿は.

「あのようにけがれた子どもに慈悲を与えるから,こうなるのだ.」

いまいましげに,カイルは舌打ちをした.

「すみませ,」

「お前を責めているのじゃない.」

冷たい声だった.

カイルはいつも冷たいが,少年に最後の命令を下した今は,さらに冷たかった.

「俺,行きます.」

うなだれたまま,スミは言う.

「多分,腕の一本も折れません.ただ殺されに行きます.」

演技ではなかったと,少年は確信していた.

あの,虚無を映した黒の瞳.

彼女の人形を壊しただけで吐いてしまうほどに,黒猫は恋におぼれているのだ.

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