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水底呼声  作者: 宣芳まゆり
第1章 目隠しの王国
13/227

1-12

官舎へ帰る途中の街道で,突然背中に痛みを感じた.

テアが振り返ると,黒い猫が夜の闇に溶けるように立っている.

――殺される.

逃げようとしたとたんに,体が崩れ落ちた.

足が動かない.

糸を失った操り人形のようだ.

「我らがあがめたてまつる神よ,許しのための罰を与えたまえ.」

石畳の上を,大量の血が流れる.

その血が自分のものと悟った瞬間,テアは絶叫を上げた.

両手を動かして,血を体に戻そうとする.

「痛みは幸福であり,忘却は罪である.」

無駄なことはやめろと告げるような,静かな少年の声.

「復活の礎のために,命の水をささげよう.」

「嫌だ,嫌だ…….」

命の水を失うことはできない,死にたくない,まだ死にたくないのに.

どうあがいても,止まらない赤い川の流れ.

ついには両手が重くなり,体温が急激に落ちる.

かすんでいく景色の中で,少年の目がテアを責めているように感じられた.

お前の恋人を巻きこんだことを怒っているのか.

それはこっけいだ,お前は国王の飼い猫なのに.

だが,もはや笑う力は残されていない.

あぁ,死ぬのだと,あきらめがテアを襲う.

もう力が入らない.

声も出せない.

どうせ死ぬのならば,最後に聞いてみたいのに.

お前がリートを殺したのだろう?

晶子も殺したのか?

二人の姿が脳裏に浮かぶ.

二人は何かに気づいて,何かから逃げた.

それをテアはつかみかけたのに.

国王をおどすことのできる,重大な秘密を.

――なぜ毎年,地球の女性を呼び寄せるのですか?

眼鏡の奥に,泣いた後の赤い目を隠していた.

今年はきっと,彼女が殺される.

世界が闇に包まれ,テアは命の緒を手放した.


テアの死体を前にして,ウィルは無言だった.

急いで仕事を終わらせたかったので,ナイフと魔法を使って,さっさと息の根を止めた.

「終わったよ.」

街の暗がりに声をかけると,黒装束の男たちが出てくる.

彼らは少年の部下だ.

仕事は主に,死体の後片づけである.

今夜の仕事は,三本のナイフを背中からはやした男の陰惨な死体.

明日の朝までに,血の汚れも落とさなくてはならない.

「よろしくね.」

死体を男たちに押しつけて,ウィルは駆け足で王城へ帰る.

大切な女性が,誰かに害されていないか心配だった.

泣いていないか,悲しんでいないか,苦しんでいないか.

ささいな傷や痛みも,許されない.

一人の男の命を奪いながら,一人の娘の身を案じる.

そのエゴイズムが何という名を持つのか,少年はすでに気づいていた.


深夜,なかなか寝つけずに,みゆはベッドの中で寝返りを繰り返していた.

いろいろなことを考えすぎて,どう行動すればいいのか分からなくなっている.

けれど,みゆに何ができるのか?

みゆは単なる異邦人だ.

国王が国民に何を隠していようが,関係ない.

四日後には地球へ帰り,もう二度とこの国に来ない.

日本での日常に戻る.

机に座って勉強するだけの,家と予備校を往復するだけの,ウィルがいない日常に.

分かりきっていたことなのに,ふいに心が冷えた.

「ウィル,」

闇に響く,か細い声.

自分が出した声とは信じられない.

「そばにいて,」

すぐそばで,黒色の塊がうごめいた.

「いつからいたの?」

みゆは力なく問いかける.

半身を起こすと,ぎゅっと抱きしめられた.

「今,駆けつけてきた.」

少年の体からは,何とも言えない生臭いにおいがする.

初めて会ったときも,どこかでかいだことのあるにおいと思った.

「そばにいる,君のそばにいたい.」

それは切ないよりも,ただ素直な声で.

みゆは少年の背中に腕を回して,抱きしめ返した.

「あと四日,私のそばにいて.」

何も考えたくないと,心が落ちていく.

四日後に別れることも,帰った後の無味乾燥な日々も,この世界に召喚された理由も.

求められるままに重なる唇に,すべてが流された.


翌朝,目が覚めたみゆは,少年の腕の中にいた.

自分でも意味の分からない悲鳴を上げて,跳ね起きる.

ウィルが目を覚まして,ほほ笑んだ.

「おはよう,ミユちゃん.」

おはようと,あいさつどころではない.

みゆは自分の着衣を確かめて,ほっと胸をなでおろした.

「どうしたの?」

「なんで服を着ていないのよ?」

少年の上半身は裸だ,幸いなことに下はズボンをはいていたが.

「昨夜は暑かったから.」

にっこりと笑う少年の体には傷跡が多く,痛々しい.

そして驚くほどに,引きしまっていた.

みゆは,かっと顔が熱くなる.

有無を言わさず少年の腕を引っぱり,床に落ちていた上着とともに寝室から,ぽいっと追い出した.

「私は何をやっているの.」

扉に両手をつけて,ため息を吐く.

夜は雰囲気に流されても,朝はそうはいかない.

地球に帰らなくてはならないという現実を見据えなければならない.

それに恋愛など,がらではない.

姉を殺したみゆに,恋にうつつを抜かす資格はない.

ましてや今は,大学受験を控えた大事なとき.

けれど,どれだけ言葉を並べても……,

扉を開けると,服を着た少年が所在なさげにたたずんでいた.

「ウィル,寝ぐせがついている.」

もう止められない,隠すこともできない.

想いがにじみ出て,あふれ出してくる.

遠慮がちに少年の髪に手を伸ばすと,少年がみゆの長い髪の一房を取った.

「ミユちゃんはきれいだね.」

うっとりと心とろかすような,甘いほほ笑み.

刹那的な恋を祝福するように,少年は髪にキスを落とした.

カウントダウンが始まる.

もはやみゆは,大学受験のための参考書に見向きもしない.

一分一秒を惜しんで,少年のそばにいた.

国王と出会うことはなく,召喚された理由に対する興味は急速に薄れていく.

城の外へ出ることはあきらめて,城の中だけでデートを繰り返した.

バルコニーで小鳥にえさをやったり,中庭の東屋で夕涼みをしたり.

数日後に別れることになる恋人たちに,城の者たちは同情的で,ただ見守ってくれた.

二人で地球へ帰ってはどうかと勧める人もいたが,みゆは黙って首を振る.

この恋は期限付きの,ひと夏の恋.

産まれて初めての恋で,最後の恋かもしれない.

だから恋人だけを見つめる.

すべてのことに目をつむって,耳をふさいで.

大きな柱の影に隠れて抱き合えば,少年が好きだよとささやく.

「明日でお別れね.」

みゆは涙を押し隠して,ほほ笑んだ.

砂時計の砂のように,あっという間に日々は過ぎていく.

「うん…….」

少年の笑みは,どこかゆがんで見える.

ほおに触れる指先が震えている.

別れを悲しんでくれているのだと,深く口づけを交わした.

あなただけが私の恋人.

夏の終わりにすべてをささげても,きっと後悔しない.

テア・テレーゼ準近衛兵の死を,みゆは知ることがなかった.

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