急がば回れ
周りに我慢強い男だと言われているが、自覚したことはなかった。
それがこの出会いで自分自身で自覚することになる。
「お前がアイツの妹?」
最初はただの好奇心だった。
「……誰?」
生意気そうな目で俺を見つめる目が気に入って同じ高校だというつながりで纏わりついた。
彼女の兄は、俺と同じ陸上部の短距離選手だ。
同じ地区にある高校同士ということで余計に大会ではいつもタイムを競っている。
全国になれば他にも何人も上の人間がいるが、ほぼ同じ実力を持つアイツが気になった。
どこか物足りない顔をしているのに、大会では必ず俺と同じように良い成績を走る。
こっちが必死に毎日試行錯誤して練習をこなしているのに、アイツはそんな様子さえ見せずに淡々と俺と同じタイムを出してしまう。
……悔しくて堪らなかった。
噂では異性関係も派手だと聞いて尚更許せなかった気持ちが膨らんだ。
こちらは練習一筋で中・高校とずっと真面目に陸上をやっているのに、あちらは女遊びをしていても同じようなタイムが出るというこの才能の差が悔しくてたまらなかった。
でもその内、アイツへの悔しさはさほど気にならなくなった。
あんなに才能があるのに走っているときは楽しそうに走っている。
それなのに満たされていない顔をしていた。
俺はいつでも陸上をしている自分が好きだ。
親が部活をやるのを最初はなかなか認めなかったために、必死で勉強もこなして成績が落ちないならと許可を得てどうにか続けていることに自信を持っている。
だから例え成績が思うように伸びなくても、練習した自分に対して卑屈になることはない。
ベストは尽くせていると実感しているからだ。
だからアイツがどうしてあんなに退屈そうなのか不思議だった。
アイツへのこだわりよりも自分のタイムへの戦いへと気持ちがどうにか落ち着いた頃に彼女と出会った。
「あの子可愛いなー」
同じ部活の仲間が少し離れた席に一人で座っている少女を指差していた。
興味もなくそちらを向くこともしなかったが、仲間の一言で全てが変わった。
「あの子、妹なんだってさ」
「誰の?」
俺はその少女が自分がライバル視している男の妹だと聞いた途端にその子と話したくなった。
仲間に詳しい奴がいて、その子は俺たちと同じ高校の1年だと知った。
アイツに似ているのか、よく見ようと目線をあげると彼女とたまたま目が合った。
どきっとした。
一瞬で彼女はすぐに視線を逸らしたのに自分は彼女から目が離せない。
仲間が騒ぐほど可愛いとも思えない。
でもあの目が気になった。
兄と同じように世の中を退屈そうに見ていた。
「……」
なぜあんな暗い目をしているのか気になって彼女を探して声をかけた。
自分から女に声をかけたのは、用事以外ではこれが初めてだった。
「……」
俺のことを全く眼中にないのが悔しかった。
お前もアイツと同じように俺に興味を持たないのか?
悔しさをどうにか隠して彼女と積極的に関わるようになった。
部活仲間以外の異性にどう関わったら良いのか、正直分からなかった。
でもそれを表に出すのは年上としても男としても嫌だった。
だから部活仲間にするような態度を極力貫いた。
本当はいつまで経っても彼女と話すたびに心臓は走ったあとのように早鐘を打つ状態だった。
彼女は最初の内はかなり警戒していたようだった。
それも当然だろうと振り返って考えれば納得する。
彼女の兄は有名人だ。本人は隠れるように控えめな行動をしているようだったが、それでも周囲は放っておくはずがない。
俺だって同じように最初はアイツを理由に彼女に近付いた。
「なんで俺アイツが気になるんだろう?」
生まれたころからの付き合いになる幼馴染みにぽつりと心情を漏らす。
幼馴染みは「運動部の上下関係は面倒」の一言で部活に入っていない面倒臭がり屋だ。
だが親しい友人や家族に対しては文句を言いつつも面倒見が良くて側にいるのが心地良い。
今日は部活のない俺が幼馴染みのベッドを占領していた。
幼馴染みは生温い視線だけよこして俺を無視して勉強中だったが、俺の思わず出た言葉に反応した。
「噂の妹ちゃんか。仲良くなったようだな」
「……」
「兄の方とは会えたのか?」
俺はその質問には首を振る。
最初は妹である彼女に近付いたのは、彼女の兄であるアイツのことが知りたかったからだ。
でも彼女と会話を交わしていくようになってくると、最初の目的はどうでも良くなった。
アイツよりも彼女のことを知りたいと思うようになった。
それがどうしてなのか分からなくてイライラする。
今だって彼女に会いたくてしょうがなかった。
そんな俺の様子をしばらくじっと見つめて幼馴染みは意地の悪い笑顔を浮かべる。
「お前にもついに初恋がきたのか」
「……はつこい?」
その言葉に戸惑った。
思わず幼馴染みをじっと見つめる。
「まさか本気で気付いてなかったのか?」
呆れた顔でこちらを見返された。
「初恋ってなんだよ?」
「その子が気になるんだろ?」
「それはそうだ」
「その子の兄貴のことよりもその子と会いたいんだよな?」
「ああ」
「……それなのにまだ分かんないのかよ。どんだけ鈍いんだよ」
はあとわざとらしく大きな溜息を幼馴染みが吐いた。
その姿を見ながらもまだいまいち幼馴染みの言いたいことが分からない。
これが初恋?
俺は単に彼女に会いたいだけだ。
それがなぜそう思われるのか分からない。
「……」
「お前がその子に会いたい気持ちが恋ってことじゃないのか? つーかこんな恥かしい話させんなよな」
ポコっとノートを丸めた状態で頭を叩かれた。
その軽い衝撃でようやく幼馴染みの言っている意味が分かった。
「彼女に会いたい気持ちが恋か。……そうか」
うんうんと頷く俺を引きつった顔で幼馴染みが見ていたが無視する。
今までは異性にさほど興味もなかったからこの気持ちが何なのか気付かなかった。
だが仲間や幼馴染みへの気持ちとは別の気持ちが彼女に対してはあった。
それが彼女を好きだという気持ちだ。
「それでどうするんだ? 告白でもするのか?」
俺が一人で納得している様子に幼馴染みが尋ねてくる。
その言葉に鼓動が一瞬止まった。
「……告白?」
「そうだよ。その子の側にいたいんだろう? だったら彼氏になるしかないじゃん」
至極当たり前と幼馴染みが言う言葉に頷けなかった。
「告白はまだ駄目だ」
彼女とは会えば話すほどの顔見知り程度の付き合いだった。
最近はようやく彼女の俺に対する警戒心も薄れてきて笑顔もよく見せてくれるようになった。
でもまだそれだけの仲だとも言える。
それに大学受験の勉強もする必要があるのに、もし彼女に振られでもしたら影響がありそうな自分が情けない。
「今は勉強をしっかりやるさ。親との約束も果たさないといけないしな」
「ふうん? その間に彼女が他の男に取られるかもしれないぞ」
「……そうしたら奪い取るだけだ」
それから必死に受験勉強に集中した。
もちろん彼女との接点は保ったままだ。
部活の後輩に頼んで彼女の周囲に男がいないように見晴らせもした。
幸い彼女は自分に寄ってくる人間はほとんどが兄関係だと考えているから害虫は簡単に駆除できた。
たまに一緒にいると彼女が俺に好意を向けているのが分かった。
兄のことよりも少しずつ俺に寄せる信頼が増していくのが伝わってくるが、まだ動くわけにはいかない。
そうしてひたすらに時間が経過するのを辛抱強く待って、ようやく卒業を迎えた。
「そろそろ動くか」
帰宅したら彼女に連絡を取ろうとした矢先のことだ。
携帯電話に着信が入った。
確認すれば、彼女だった。
それを見て思わず顔が緩んだ。
「我慢強く待ったかいがあったな」
これからは純粋に彼女のことを考えていられる。
今日から二人は先輩と後輩、あいつのライバルとそのライバルの妹という関係はおしまいだ。
彼女の待っている場所へ笑みを浮かべて向かった。