ep68.佐久間咲
空気は、まだ歪んでいた。
壊れた塔の余韻。
解き放たれた黒の残滓。
憤怒の残り火。
暴食の気配。
そして――消えたはずの片桐りり。
誰も、口を開かなかった。
亜蓮は、まだ火憐が消えた方角を見ていた。
恐怖と、
理解できない現実の狭間で。
「……姉ちゃん」
その声は、小さすぎた。
届く相手は、
もういない。
その時だった。
「――そろそろさー」
軽い声。
場違いなほど、
明るい声。
全員が、反射的に振り向く。
そこにあったのは――
道路脇の、古びたカーブミラー。
曇った鏡面。
そこに映るはずのないものが、
映っていた。
少女。
こちら側ではなく、
“向こう側”に立っている。
鏡の奥の世界に。
ツインテールが揺れる。
楽しそうに、
こちらを覗き込んでいる。
色乃魅魅だった。
「一人くらい」
鏡の内側から、
指でコンコン、と叩く。
現実のガラスではない。
“境界”を叩いている音。
「私に感謝してくれてもいいんじゃなーい?」
その瞬間。
鏡面が、
水面のように揺れた。
そして。
その奥から、
もう一つの手が伸びる。
細い手。
白い指。
見覚えのある気配。
「……!」
葵が、息を呑む。
その手の持ち主が、
ゆっくりと姿を現す。
鏡の奥から。
裏世界から。
黒でもない。
王でもない。
人間。
「……やっと見つけた」
少女が言った。
長い髪。
静かな瞳。
感情を隠した顔。
佐久間咲だった。
世界が、
一瞬止まる。
春の喉が鳴る。
統が、
内側でわずかに反応する。
――転移個体。
――鏡面干渉型。
――裏世界の管理者の一端。
咲は、
こちらを見ていた。
一人一人ではない。
全体を。
そして。
最後に。
春を見た。
「……生きてたんだ」
その言葉は、
確認であり、
予想通りでもあり、
そして――
どこか、
安堵していた。
魅魅が、
その隣で笑う。
鏡の奥に立ちながら。
「ね?」
春に向かって。
「言ったでしょ」
指をひらひら振る。
「この人」
「必要になるって」
久我が、一歩前に出る。
「……お前が」
低い声。
「佐久間咲か」
咲は、
視線だけで答えた。
肯定。
そして。
静かに言う。
「ここはもう長く持たない」
周囲の空間が、
わずかに軋む。
解放された黒。
暴食。
憤怒。
そして、パンドラの変異。
全部が、
均衡を壊している。
「こっちへ」
咲が手を差し出す。
鏡の内側から。
「裏世界なら」
「まだ、安全」
夢魔が、
小さく笑った。
「……なるほど」
「便利だね」
魅魅が、
嬉しそうに春を見る。
「ほら」
「助けてあげたでしょ?」
「私が呼んだの」
春は、
何も言わなかった。
言えなかった。
咲がここにいる意味を、
理解してしまったから。
これは偶然じゃない。
導かれている。
王に。
裏世界に。
そして。
もっと深い場所に。
咲の手は、
まだ差し出されたままだった。
「来る?」
静かな問い。
それは、
救いか、
それとも――
さらなる地獄への入口か。
誰にも、
まだ分からなかった。




