ep66.鏡の世界
鏡の向こう側に落ちた瞬間。
音が、消えた。
衝撃があったはずなのに、
身体が地面に触れた感覚だけが遅れてやってくる。
呼吸。
できる。
空気がある。
だが。
――軽すぎた。
春は、ゆっくりと顔を上げた。
そこは、
同じ東京だった。
同じ廃墟。
同じ道路。
同じ空。
だが。
決定的に違う。
「……人がいない」
美波が呟いた。
風が吹いている。
瓦礫が転がっている。
看板が軋んでいる。
でも。
それだけだ。
生命の気配が、何もない。
「裏世界……」
葵の影が揺れる。
零の声が、静かに漏れた。
「逃げ込めたね」
久我が、すぐに立ち上がる。
反射的に周囲を確認する。
「……全員いるか」
視線が走る。
春。
葵。
久我。
美波。
そして――
魅魅。
魅魅は、少し離れた場所で立っていた。
無傷。
だが。
表情が、
いつもより静かだった。
「……」
何も言わない。
ただ、
現実を観察している。
その時だった。
「……やれやれ」
別の声。
振り返る。
そこに、
青原がいた。
煙草を咥えたまま。
隣には、
星崎天音。
時矢。
そして――
火野亜蓮。
全員、
同じ場所に落ちていた。
さらに。
少し離れた瓦礫の上。
夢魔が、
座っていた。
足をぶらぶらさせながら。
「間に合ったみたいだね」
他人事のように言う。
「ギリギリ」
誰も返事をしない。
全員が、
同じものを思い出していた。
暴食。
あれは。
戦う存在じゃない。
逃げる存在だ。
「……あれ」
美波が、
震える声で言う。
「なんだったんだよ……」
誰も、
すぐには答えなかった。
代わりに。
零が言った。
「暴食」
その二文字で、
空気が凍る。
「王の一人」
「世界を喰らった存在」
亜蓮が、
顔を青くする。
「……あれが」
夢魔が、
興味なさそうに続ける。
「起きちゃったね」
欠伸をする。
「めんどくさい」
その言葉の重さを、
誰も否定できない。
春は、
拳を握っていた。
自分は。
あれと、
向き合うために来た。
だが。
理解した。
今は、
無理だ。
完全に、
格が違う。
その時。
青原が、
煙を吐いた。
「状況を整理しよう」
冷静だった。
いつも通りに。
「ここは裏世界」
「表の東京と重なった、もう一つの層だ」
天音が、
春を見る。
無事を確認するように。
言葉はない。
でも。
それで十分だった。
夢魔が、
瓦礫の上から言う。
「向こうはもう、騒がしいよ」
「暴食」
「憤怒」
「パンドラ」
指折り数える。
「三つ同時」
「贅沢だね」
魅魅が、
小さく笑った。
「ほんと」
「最高」
その笑みは、
嬉しそうで。
少しだけ、
壊れていた。
そして。
春は、
気づいた。
これは、
逃げ延びただけだと。
終わっていない。
始まっただけだと。
暴食は、
起きた。
憤怒は、
火憐を奪った。
パンドラは、
変質した。
そして。
片桐りりは、
暴食の元へ向かった。
世界の均衡は、
完全に崩れた。
静かな裏世界で。
誰も、
しばらく動かなかった。
風だけが、
廃墟を通り抜けていった。
まるで。
次に誰が喰われるかを、
選ぶように。
――東京編は、
ここから本当の地獄になる。




