ep63.帰還
塔が、静かに脈打った。
「――願いを実行します」
バビロンの声が、世界そのものに染み込むように響く。
空間が、歪む。
光が、巻き戻る。
死という結果が、
原因から切り離され、
否定されていく。
床に倒れていたはずの身体が、動いた。
止まっていた心臓が、跳ねる。
肺が、空気を思い出す。
指先が、震える。
「……っ」
息。
火憐が、大きく息を吸い込んだ。
肺が焼けるように痛む。
でも。
生きている。
「……なんで」
掠れた声。
自分の手を見る。
血が消えている。
傷がない。
死んだはずの感覚だけが、残っている。
少し離れた場所で。
久我も、ゆっくりと目を開けた。
喉元に手を当てる。
確かに切ったはずの場所。
そこには、何もなかった。
「……チッ」
小さく舌打ちする。
生き返ったことを、
誰よりも理解していた。
願いが――叶った。
天音は、それを確認して。
そして。
振り返った。
「……春」
祈るように。
名前を呼ぶ。
そこに。
姿は――なかった。
静寂。
風だけが吹く。
「……え」
視界を探す。
どこにもいない。
「なんで……」
声が、震える。
バビロンを見る。
「対象は、“本塔内で死亡した個体”に限定されます」
感情のない声。
「封印状態の個体は、対象外です」
封印。
その言葉で。
全てを理解した。
春は――死んでいない。
封印されている。
だから。
願いでは戻らない。
「……そんな」
天音の膝が崩れる。
「ここまで来たのに……」
その時だった。
パンドラが、青原を見た。
拘束されたままの、
青原の姿を。
「……青原」
その声に。
拘束されていた青原が、
ゆっくりと顔を上げた。
そして。
笑った。
その笑みは、
明らかに違った。
「――よくやったね」
その瞬間。
拘束されていたはずの身体が、
歪んだ。
スキルバインドが、
内側から崩壊する。
黒い粒子が、
拘束を侵食していく。
「なっ――」
時矢がナイフを構える。
だが。
遅かった。
拘束は、完全に砕けた。
自由になった青原が、
ゆっくりと立ち上がる。
そして。
その姿が、揺らいだ。
輪郭が崩れる。
顔が変わる。
身体が変わる。
そこに立っていたのは――
片桐りりだった。
「……マイトマイン」
パンドラが、震える声で言う。
りりは、笑った。
「正解」
そして。
パンドラが抱えている箱を見た。
封印用パンドラボックス。
「それ」
優しく言う。
「もう必要ないよ」
パンドラが、後退る。
「ダメ」
強く抱きしめる。
「これは」
りりは、ため息をついた。
「ほんと、優しいね」
そして。
一歩で距離を詰めた。
速すぎた。
誰も反応できなかった。
手が、
箱に触れる。
そして――
砕いた。
――バキンッ。
音。
封印用パンドラボックスが、
完全に破壊された。
その瞬間。
世界が、
裂けた。
中から、
“封じられていた存在”が、
解放される。
まず――
影が、落ちた。
空間が歪む。
黒が、集まる。
そして。
そこに、
立っていた。
「……っ」
天音の呼吸が止まる。
神木春だった。
影から、
ゆっくりと現れる。
封印が解けた。
解放された。
「……ハル」
天音の声が、
壊れる。
同時に。
もう一つの歪み。
空間が裂ける。
別の裂け目から、
もう一人。
青原が、落ちてきた。
床に着地する。
少しだけ、
驚いた顔で周囲を見る。
「……なるほど」
状況を理解する。
視線が、
片桐りりを捉える。
りりは、
笑った。
「おかえり」
青原は、
煙草を取り出した。
火をつける。
一口吸う。
そして。
静かに言った。
「そうか」
「君だったか」
怒りはなかった。
ただ。
理解だけがあった。
天音は、
春を見ていた。
信じられないものを見るように。
ゆっくりと近づく。
手を伸ばす。
触れる。
温かい。
「……ほんとに」
声が震える。
「ほんとに……」
春が、
そこにいる。
封印は、
完全に解除された。
りりは、
その光景を見て、
満足そうに微笑んだ。
「これでいい」
静かに言う。
「封印は全部解除された」
「能力も」
「王も」
「人も」
そして。
振り返る。
「これで」
「本当の戦いが始まる」
その姿が、
光に溶けていく。
消える。
残されたのは。
戻ってきた者たち。
壊れた箱。
そして。
止められなくなった、
世界。
バビロンが、
静かに、
試練の終わりを告げた。
「――クリアを確認しました」




