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パレット  作者: 青原朔
91/102

ep60.黒い箱の中

黒い箱が、静かに開いた。


音はなかった。


ただ、空間が――

“閉じた”。


春の視界が、一瞬で反転する。


天音の顔が、遠ざかる。


いや、違う。


自分が、落ちている。


「――天音」


声が出たのかどうかも分からない。


手を伸ばした。


届く距離だったはずなのに。


指先が、触れない。


まるで、水の中から空を掴もうとしているみたいに。


歪む。


天音の輪郭が。


光が。


世界が。


「ごめん……春……」


最後に見えたのは、


泣いている天音の顔だった。


その顔だけが、


異様なほど、鮮明だった。


そして。


完全な暗闇。



落ちている。


感覚がない。


体があるのかすら分からない。


上下もない。


左右もない。


ただ、


“存在している”という感覚だけが残っていた。


(……これが)


理解する。


封印。


殺されたわけじゃない。


消えたわけでもない。


ただ、


閉じ込められた。


(……そっか)


不思議と、


怒りはなかった。


悲しみも、


絶望も。


ただ。


空っぽだった。


思い出す。


天音の目。


震えていた手。


落ちた黒い箱。


(守ったんだな)


自分を。


殺さずに。


消さずに。


封印という形で。


生かした。


(……バカだな)


小さく、


笑った気がした。


その時だった。


――コツン。


音。


暗闇の中で。


足音。


誰かが、


歩いている。


ありえない。


ここは、


箱の中だ。


それなのに。


「やあ」


声。


聞き慣れた声だった。


「ちょうどいいところに来たね」


暗闇が、


ゆっくりと形を持つ。


光でも闇でもない、


中間の色。


そこに立っていたのは――


青原だった。


「青原……?」


春は呟く。


青原は、いつも通りの顔で笑っていた。


でも。


少しだけ、


困ったように。


「ちょっと助けてくれないかな?」


その声は、


本物だった。


間違いなく。


本物の青原。


春は、周囲を見る。


ここは、


箱の中じゃない。


もっと深い場所。


もっと原始的な場所。


“能力の内側”みたいな空間。


そして。


青原の背後で。


それは、


蠢いていた。


黒。


塊。


人の形ですらない。


ただ、


怒りだけで構成された存在。


表面が、沸騰している。


ドクン。


ドクン。


脈打つたびに、


空間が軋む。


見ただけで分かる。


これは、


普通の黒じゃない。


「……それ」


春が言う。


青原は、振り返らずに答えた。


「憤怒の核だよ」


軽い口調だった。


まるで、


壊れた時計を見つけたみたいに。


「回収はしたんだけどね」


「ちょっと」


間。


「制御が効かなくて」


黒の塊が、


わずかに動く。


空間が裂ける。


怒りが、


形を持って漏れ出す。


それは、


明確に春を見た。


殺意。


理由のない、


純粋な破壊衝動。


春は理解した。


これは。


王の核。


まだ人格を持つ前の、


純粋な罪。


「ねぇ春」


青原が言う。


初めて、


こちらを見る。


その目は、


いつもより、


少しだけ真剣だった。


「君なら、触れられると思うんだ」


静かに、


続ける。


「君はもう、“王に触れた”人間だから」


嫉妬。


傲慢。


色欲。


そして、


今。


憤怒。


黒の塊が、


膨張する。


空間が、


軋む。


春は、


一歩、


前に出た。


怖くはなかった。


もう、


恐れる段階は、


過ぎていた。


封印され、


失い、


それでも、


ここにいる。


なら。


進むしかない。


「……分かった」


春は言った。


青原が、


小さく笑う。


安心したように。


そして、


少しだけ、


寂しそうに。


「ありがとう」


憤怒の核が、


春に向かって、


脈打った。


それは。


新しい物語の始まりだった。

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