ep60.黒い箱の中
黒い箱が、静かに開いた。
音はなかった。
ただ、空間が――
“閉じた”。
春の視界が、一瞬で反転する。
天音の顔が、遠ざかる。
いや、違う。
自分が、落ちている。
「――天音」
声が出たのかどうかも分からない。
手を伸ばした。
届く距離だったはずなのに。
指先が、触れない。
まるで、水の中から空を掴もうとしているみたいに。
歪む。
天音の輪郭が。
光が。
世界が。
「ごめん……春……」
最後に見えたのは、
泣いている天音の顔だった。
その顔だけが、
異様なほど、鮮明だった。
そして。
完全な暗闇。
⸻
落ちている。
感覚がない。
体があるのかすら分からない。
上下もない。
左右もない。
ただ、
“存在している”という感覚だけが残っていた。
(……これが)
理解する。
封印。
殺されたわけじゃない。
消えたわけでもない。
ただ、
閉じ込められた。
(……そっか)
不思議と、
怒りはなかった。
悲しみも、
絶望も。
ただ。
空っぽだった。
思い出す。
天音の目。
震えていた手。
落ちた黒い箱。
(守ったんだな)
自分を。
殺さずに。
消さずに。
封印という形で。
生かした。
(……バカだな)
小さく、
笑った気がした。
その時だった。
――コツン。
音。
暗闇の中で。
足音。
誰かが、
歩いている。
ありえない。
ここは、
箱の中だ。
それなのに。
「やあ」
声。
聞き慣れた声だった。
「ちょうどいいところに来たね」
暗闇が、
ゆっくりと形を持つ。
光でも闇でもない、
中間の色。
そこに立っていたのは――
青原だった。
「青原……?」
春は呟く。
青原は、いつも通りの顔で笑っていた。
でも。
少しだけ、
困ったように。
「ちょっと助けてくれないかな?」
その声は、
本物だった。
間違いなく。
本物の青原。
春は、周囲を見る。
ここは、
箱の中じゃない。
もっと深い場所。
もっと原始的な場所。
“能力の内側”みたいな空間。
そして。
青原の背後で。
それは、
蠢いていた。
黒。
塊。
人の形ですらない。
ただ、
怒りだけで構成された存在。
表面が、沸騰している。
ドクン。
ドクン。
脈打つたびに、
空間が軋む。
見ただけで分かる。
これは、
普通の黒じゃない。
「……それ」
春が言う。
青原は、振り返らずに答えた。
「憤怒の核だよ」
軽い口調だった。
まるで、
壊れた時計を見つけたみたいに。
「回収はしたんだけどね」
「ちょっと」
間。
「制御が効かなくて」
黒の塊が、
わずかに動く。
空間が裂ける。
怒りが、
形を持って漏れ出す。
それは、
明確に春を見た。
殺意。
理由のない、
純粋な破壊衝動。
春は理解した。
これは。
王の核。
まだ人格を持つ前の、
純粋な罪。
「ねぇ春」
青原が言う。
初めて、
こちらを見る。
その目は、
いつもより、
少しだけ真剣だった。
「君なら、触れられると思うんだ」
静かに、
続ける。
「君はもう、“王に触れた”人間だから」
嫉妬。
傲慢。
色欲。
そして、
今。
憤怒。
黒の塊が、
膨張する。
空間が、
軋む。
春は、
一歩、
前に出た。
怖くはなかった。
もう、
恐れる段階は、
過ぎていた。
封印され、
失い、
それでも、
ここにいる。
なら。
進むしかない。
「……分かった」
春は言った。
青原が、
小さく笑う。
安心したように。
そして、
少しだけ、
寂しそうに。
「ありがとう」
憤怒の核が、
春に向かって、
脈打った。
それは。
新しい物語の始まりだった。




