ep52.シナリオ
同時刻 ―― 天音一行
塔は、最初からそこにあったかのように立っていた。
空を突き刺す黒。
都市の死骸の中心で、ただ一つだけ生きている構造物。
「……これが」
時矢が、かすれた声で呟く。
誰も否定しなかった。
否定できるはずがなかった。
パンドラの箱が、微かに震えている。
共鳴しているのだ。
同じ“人器”として。
「バビロン」
青原が言った。
その声は、いつもと同じだった。
穏やかで。
落ち着いていて。
何も変わっていないように聞こえる。
だからこそ。
天音は――一瞬だけ、違和感を覚えた。
「……」
理由は分からない。
声も同じ。
姿も同じ。
気配も同じ。
なのに。
何かが、わずかに違う。
だが。
それを言葉にする前に。
塔が、呼吸した。
脈打つ。
生き物のように。
その表面が波打ち、空間が歪む。
そして。
少女が現れた。
音もなく。
最初からそこにいたように。
長い髪。
無機質な瞳。
「ようこそ」
感情のない声。
「人器へ」
空気が固定される。
逃げ場はない。
「これより試練を開始します」
パンドラが、小さく息を呑んだ。
「……同種」
小さく呟く。
バビロンは続けた。
「挑戦はチーム単位」
「最大人数五名」
「侵入と同時に個別階層へ転移」
天音は即座に数えた。
自分。
時矢。
亜蓮。
パンドラ。
そして――青原。
五人。
条件は満たしている。
「最上階へ到達した個体は、願いを一つ叶える権利を得ます」
願い。
その言葉が、胸に刺さる。
ハル。
その名前を、天音は口に出さなかった。
まだ。
信じていない。
信じたくない。
「準備はよろしいですか」
バビロンが問う。
沈黙。
誰も答えない。
代わりに。
青原が一歩前に出た。
「行こう」
その声は優しかった。
「ここまで来たんだ」
「もう、戻る理由はない」
天音は、その背中を見る。
ずっと見てきた背中。
信じてきた背中。
――なのに。
なぜか。
少しだけ。
遠く感じた。
「……うん」
それでも。
頷いた。
ここに来た理由は一つ。
たった一つ。
ハルを取り戻すため。
そのためなら。
どんな願いでも使う。
たとえ――
何を失うことになっても。
バビロンの入口が開いた。
闇。
底の見えない闇。
「試練を開始します」
その声と同時に。
世界が反転した。
____
塔の外。
風は吹いていなかった。
それなのに、空気は揺れていた。
まるで、この場所だけが現実から切り離されているように。
ひとりの少女が、そこに立っていた。
片桐りり。
その姿は、今はもう――
青原だった。
背丈も。
輪郭も。
立ち方も。
すべて同じ。
違いは、ひとつだけ。
手に持った煙草。
そして。
それに火をつけようとしていること。
りりは、自分の指先に視線を落とした。
ライターの火が、小さく揺れている。
青い炎。
それを、煙草の先端へと近づける。
触れた。
紙が焦げる。
煙が立ち上る。
りりは、それを口に運んだ。
吸う。
肺に入れる。
そして。
吐いた。
白い煙が、夜に溶けていく。
その瞬間。
りりの口元が、わずかに歪んだ。
「――これでいい」
小さく、呟く。
マイトマイン。
記録した存在を、“完全に再現する”能力。
声も。
癖も。
呼吸も。
記憶の断片すら。
「青原」という存在を、
この世界にもう一度“発生”させる能力。
だが。
完全ではない。
完全であってはならない。
りりは知っている。
本物の青原は。
学生の前では、煙草に火をつけない。
だからこそ。
今、火をつけた。
それは再現ではない。
“逸脱”。
意図的な矛盾。
疑念を生むための、傷。
「気づくよね」
りりは笑った。
青原の顔で。
青原の声で。
でも。
中身は、違う。
「だって、あなたたちは賢いもの」
煙が、夜に溶ける。
その向こうに。
本物の青原はいない。
もう、箱の中だ。
封印された。
存在ごと。
「――さぁ」
りりは、塔を見上げた。
黒い塔。
願いを叶える、人器。
「舞台は整った」
その目は、笑っていなかった。
「役者も、揃ってる」
煙草の火が、赤く光る。
「あなたたちは、ここで失う」
静かに。
確信を持って。
「全部」
りり――いや。
偽青原は。
ゆっくりと、塔の中へ歩き出した。
まるで。
自分こそが、この物語の神であるかのように。




