ep51.第一層、神木春。
バビロン試練 第一層
――ハル:受け取らなかった世界
落ちた。
身体が、何もない空間を抜ける。
そして。
足が、地面に触れた。
乾いた音。
硬い床。
ハルはゆっくり目を開けた。
そこは――
夜の街だった。
見覚えがある。
喫茶アオハラの前。
まだ。
何も始まっていなかった頃の場所。
空気の温度まで同じだった。
胸がざわつく。
そして。
声がした。
「――ハル」
振り向く。
そこにいたのは。
星崎天音だった。
昔の姿。
今より少し幼い。
あの夜のままの天音。
手には。
スケッチブック。
そして。
白い光。
黒パレット。
差し出している。
「これ」
あの時と同じ言葉。
「使って」
知っている。
この瞬間を。
これは。
始まりだ。
ここで。
自分は。
これを受け取った。
そして。
全部が始まった。
黒。
対黒局。
王。
仲間。
別れ。
全部。
ここから始まった。
天音が言う。
「これがあれば」
「守れる」
真っ直ぐな目。
迷いのない目。
ハルは。
動かなかった。
その時。
バビロンが現れる。
隣に。
音もなく。
「これは」
「分岐点です」
静かな声。
「あなたの人生の起点」
「選択が、すべてを変えた瞬間」
天音の手が伸びている。
黒パレット。
それを。
受け取れば。
今の未来になる。
でも。
受け取らなければ。
別の未来になる。
バビロンが問う。
「もし」
「受け取らなかったなら」
世界が揺れる。
景色が変わる。
天音が消える。
喫茶アオハラも消える。
代わりに。
別の風景が現れる。
普通の街。
普通の学校。
普通の生活。
そこに。
神木ハルがいた。
能力はない。
黒もない。
戦いもない。
ただの人間。
笑っている。
友達と。
普通に。
何も知らずに。
何も失わずに。
何も背負わずに。
生きている。
バビロンが言う。
「これは」
「黒パレットを受け取らなかった世界」
「星崎天音は消えます」
「黒とも関わらない」
「戦いもない」
「誰も死なない」
その言葉は。
優しかった。
あまりにも。
優しすぎた。
「あなたは」
「普通に生きることができます」
ハルは。
その世界を見た。
普通の自分。
何も知らない自分。
何も守らなくていい自分。
傷つかない自分。
失わない自分。
楽な世界。
安全な世界。
幸福な世界。
そして。
その世界には。
葵もいなかった。
火憐もいなかった。
久我も。
須川も。
魅魅も。
零も。
統も。
誰もいない。
バビロンが問う。
「望みますか」
沈黙。
ハルは。
ゆっくりと。
天音を見た。
黒パレットを差し出している。
あの夜のまま。
ずっと。
待っている。
この瞬間で。
すべてをやり直せる。
戦わなくていい。
失わなくていい。
苦しまなくていい。
楽になれる。
普通に戻れる。
――それでも。
ハルは。
手を伸ばした。
黒パレットに。
そして。
握った。
受け取る。
あの時と同じように。
バビロンが言う。
「なぜ」
ハルは答えた。
「これがなきゃ」
拳を握る。
「天音が消える」
声が震える。
でも。
止まらない。
「葵とも」
「火憐とも」
「会えなかった」
「久我とも」
「須川とも」
「魅魅とも」
「零とも」
「統とも」
全部。
全部。
ここから始まった。
苦しみも。
絶望も。
戦いも。
全部。
でも。
同時に。
出会いも。
繋がりも。
全部。
ここから始まった。
「普通なんて」
吐き捨てるように。
「いらねぇよ」
バビロンが沈黙する。
ハルは続ける。
「失ってもいい」
「苦しくてもいい」
「それでも」
はっきりと。
「俺は」
黒パレットを握る。
「この道を選ぶ」
その瞬間。
世界が崩れた。
光が砕ける。
天音が消える。
バビロンが告げる。
「試練確認」
「第一層」
「通過」
落ちる。
暗闇へ。
その直前。
頭の奥で。
統が笑った。
——愚かだな。
——だが。
一拍。
——それでこそだ。
そして。
もう一つの声。
零。
——……ほんと。
——ずるい。
でも。
その声は。
怒っていなかった。
ハルは。
落ちていく。
次の階層へ。




