ep48.第一層
最初に感じたのは。
重さだった。
「……っ」
火憐は、膝をつきかけて踏みとどまった。
地面は普通だ。
崩れてもいない。
沈んでもいない。
なのに。
身体だけが、異常に重い。
「なに……これ……」
呼吸が、浅くなる。
肺が、うまく動かない。
魔力が。
流れない。
いや――
流れているのに、“使わせてもらえない”。
見えない手で、押さえつけられているみたいに。
「……ブラックアウトの影響か」
自分で呟いた声が、やけに遠い。
あの時。
夢魔が展開した世界。
完全に抗えなかった。
零と魅魅だけが対抗できた。
自分は。
何もできなかった。
「……くそ」
歯を食いしばる。
悔しさが、胸の奥で熱になる。
その時だった。
影が。
揺れた。
「――」
火憐の足元。
自分の影が。
ゆっくりと。
呼吸するように、膨らんだ。
「……っ!」
反射的に、距離を取ろうとする。
だが。
動けない。
足が――影に縫われている。
「大丈夫」
声がした。
すぐ近くで。
耳元で。
でも。
外じゃない。
内側。
「魅魅……?」
影が、形を持つ。
黒い輪郭。
細い指。
肩。
そして。
顔。
魅魅だった。
火憐の影の中から、
半分だけ身体を出している。
まるで。
火憐の身体に、寄り添うように。
「……ごめんね」
魅魅は、静かに言った。
「巻き込んじゃって」
その声は。
いつもの甘さより。
少しだけ。
柔らかかった。
火憐は、睨む。
「……なんで」
声が震える。
怒りじゃない。
困惑。
「なんで、あんたがここにいるの」
魅魅は、少し考えるように首を傾けた。
「約束したでしょ?」
当然のように言う。
「一緒に行くって」
その言葉に。
胸が、微かに揺れる。
「……これは」
火憐は言う。
「試練でしょ」
「一人で乗り越えるものなんじゃないの」
魅魅は、小さく笑った。
「そうだよ?」
否定しない。
「でもね」
指先が。
影の中から伸びて。
火憐の手の甲に、触れた。
冷たい。
でも。
嫌じゃない。
「私は、“外部”じゃない」
静かに言う。
「もう、“内側”だよ」
その瞬間。
火憐の魔力が――震えた。
炎が。
勝手に、灯る。
掌の上に。
赤い炎。
だが。
違う。
いつもの炎じゃない。
粘ついている。
重い。
密度が高い。
「……これ」
魅魅が、嬉しそうに囁く。
「私の粒子」
「少しだけ混ぜてあげた」
炎が、揺れる。
赤から。
深い紅へ。
そして。
わずかに――黒を帯びる。
「怖い?」
魅魅が聞く。
火憐は、炎を見る。
その中に。
自分じゃない何かがいる。
でも。
拒絶感はない。
むしろ――
「……強い」
思わず、呟いた。
魅魅が笑う。
「でしょ?」
その声は。
誇らしげだった。
「火憐はね」
「ちゃんと強いよ」
「だから」
影の中から、
完全に、背中を預けてくる。
「守ってあげる」
「壊れないように」
火憐の心臓が、大きく打った。
守られている。
王に。
色欲の王に。
普通なら。
恐怖のはずなのに。
「……なんで」
火憐は、聞いた。
「そこまで、するの」
魅魅は。
少しだけ、考えて。
そして。
笑った。
「好きだから」
迷いなく。
「火憐の炎」
「綺麗だもん」
その言葉は。
呪いみたいに、優しかった。
炎が。
さらに、深くなる。
熱が。
身体の奥まで、浸透していく。
魅魅が、完全に。
影の中へと溶けていく。
「大丈夫」
最後に、声だけが残る。
「一人じゃないよ」
火憐は、ゆっくりと立ち上がった。
さっきまでの重さが、消えている。
魔力が。
はっきりと流れている。
いや。
前より、濃い。
強い。
掌の炎が、
静かに、脈打った。
試練は、始まっている。
でも。
もう。
怖くなかった。
影の中に、
確かに、“誰か”がいるから。
__
ーー久我視点
落ちた、という感覚はなかった。
気づいた時には。
立っていた。
「……」
久我は、ゆっくりと周囲を見回した。
壁。
天井。
床。
すべて、灰色。
無機質な空間。
広くも狭くもない。
逃げ場も、隠れ場所もない。
完全な、“箱”。
「……チッ」
舌打ちが漏れる。
他の気配はない。
ハルも。
葵も。
火憐も。
魅魅も。
誰もいない。
本当に――一人だ。
「個別階層、か」
バビロンの言葉を思い出す。
侵入した時点で、各個体は個別の階層へ転移される。
つまり。
ここは、自分の試練。
「で」
拳を軽く握る。
骨が鳴る。
「何が来る」
静かに構える。
能力はない。
魔法も使えない。
黒でもない。
ただの人間。
それでも。
ここまで生きてきた。
ここまで来た。
だから。
「来いよ」
呟く。
その瞬間。
――音がした。
カツ。
足音。
正面。
何もなかった空間に、
ゆっくりと。
人影が現れる。
「……」
久我の目が細くなる。
その姿を見て。
理解した。
敵じゃない。
黒じゃない。
能力者でもない。
ただの――
「……俺、か」
そこに立っていたのは。
若い頃の自分だった。
同じ顔。
同じ目。
同じ身体。
ただ。
違うのは。
目の奥。
何も失っていない目。
「……なるほどな」
久我は、笑った。
「そう来るか」
若い久我は、何も言わない。
ただ。
まっすぐ見ている。
問いかけている。
「なんで、まだ立ってる?」
言葉はない。
だが。
確かに聞こえる。
心の奥に。
「全部失っただろ」
「守れなかっただろ」
「それでも」
「なんで、生きてる?」
久我は、ゆっくりと息を吐いた。
答えは。
簡単だった。
「……決まってんだろ」
拳を握る。
「まだ、終わってねぇからだ」
若い自分が、構える。
久我も、構える。
同じ構え。
同じ動き。
完全な鏡。
次の瞬間。
同時に、踏み込んだ。
拳と拳がぶつかる。
重い音。
衝撃。
互角。
完全に。
同じ力。
同じ速度。
同じ技術。
「……ッ」
久我は笑った。
「いいじゃねぇか」
殴る。
殴られる。
避ける。
避けられる。
全てが一致する。
完全な自分との戦い。
能力も。
奇跡も。
何もない。
ただの肉体。
ただの意思。
それだけ。
それでも。
久我は、止まらない。
止まる理由がない。
「俺はな」
拳を叩き込む。
「まだ」
蹴りを放つ。
「終わらねぇ」
若い自分が、揺れる。
一瞬だけ。
その隙を。
見逃さない。
踏み込む。
拳を。
まっすぐ。
心臓へ。
――ドン。
静かな音。
若い自分が。
止まる。
見つめてくる。
責めるでもなく。
恨むでもなく。
ただ。
確認するように。
そして。
ゆっくりと。
消えた。
粒子になって。
灰色の空間に溶ける。
久我は。
その場に立ったまま。
拳を下ろす。
「……は」
短く、息を吐いた。
空間が、変わる。
壁が、開く。
次の階層への道。
試練は。
終わった。
「……くだらねぇ」
呟く。
だが。
その目は、少しだけ穏やかだった。
自分は。
まだ、自分だ。
壊れていない。
進める。
久我は、迷わず歩き出した。
一人で。
誰の力も借りず。
ただの人間として。
塔の奥へ。




