-第8章- 氷は正しい
夜の空気が、薄くなっていく。
黒が現れる直前、
街の音が一段階だけ遠のく、あの感覚。
「……来る」
水卜葵の声に、
ハルは即座に前へ出た。
迷いがない。
躊躇もない。
黒は、まだ完全な人型ではなかった。
子因子が寄り集まり、
形になりきれずに蠢いている。
そのすぐ近くに、人影があった。
若い能力者だ。
顔色が悪く、足が震えている。
「た、助けを……!」
声が裏返る。
「黒が出るって聞いて……俺、ここで——」
ハルは周囲を見渡す。
距離。
時間。
逃げ道。
——助けられる。
でも。
——全部は無理だ。
「葵」
短く呼ぶ。
「水で、動き止めて」
一瞬の間。
「……うん」
返事はあった。
けれど、声の温度が、いつもと違う。
水が走る。
地面を濡らし、黒の動きを鈍らせる。
その次の瞬間だった。
「違う」
低い声。
葵のものだ。
けれど、聞き慣れた響きじゃない。
空気が、急激に冷えた。
能力者が、息を呑む。
足元が、凍りつく。
「——え?」
黒ではない。
人間の足だ。
「な、なんで……!」
氷は、的確だった。
逃げ道だけを選び、
最短距離で、完全に塞いでいる。
ハルは、葵を見る。
視線が合わない。
——おかしい。
胸の奥で、警鐘が鳴る。
「……葵?」
呼びかけても、返事はない。
彼女はただ、
盤面を見下ろすように立っていた。
「あの人」
静かな声。
「今、助けたら」
一拍。
「あなた、間に合わない」
言い切りだった。
感情がない。
躊躇も、揺れもない。
——これは、誰の判断だ。
そう思った瞬間、
時間は、もう残っていなかった。
黒が、動く。
「助けてくれ!」
能力者が叫ぶ。
「俺、何も——!」
氷が、さらに広がる。
声が、途中で途切れた。
音は、しなかった。
凍りついたまま、
身体が、崩れる。
黒が、それを取り込む。
一段、成長する。
ハルは、黒に向き直った。
判断は、早かった。
感情を挟む余地はなかった。
黒は倒された。
無駄なく。
完璧に。
効率的に。
夜は、何事もなかったように静まり返る。
「……終わった」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
背後で、膝が床に当たる音がした。
振り返る。
葵が、崩れるように座り込んでいる。
「……私」
声が震えていた。
「今、何が起きたの……?」
本当に、分かっていない目だった。
ハルは、一瞬、言葉を失う。
——説明できない。
——説明したくない。
「……覚えてなくていい」
そう言った自分の声が、
ひどく遠く聞こえた。
葵は、何か言おうとして、
結局、黙った。
足元には、
溶けきらない氷の欠片だけが残っている。
それが、
誰の判断の跡なのか。
この時、
ハルは、まだ名前を知らなかった。




