ep45.模造品
――片桐りり視点
静かだった。
あまりにも、静かすぎた。
部屋の中央で、
“青原”は立っている。
——いや。
違う。
立っているのは、
私だ。
片桐りり。
それでいて、
青原でもある。
指先を見下ろす。
同じだ。
骨格も。
皮膚も。
血の流れも。
呼吸の癖さえも。
完璧に。
「……すごい」
小さく呟く。
自分の声なのに、
青原の声だった。
少し低くて。
落ち着いていて。
信じたくなる声。
にゃ。
喉の奥で、小さく鳴きそうになるのを、
意識的に止めた。
危ない危ない。
癖は、消しきれない。
でも。
問題ない。
誰も、そこまで見ていない。
人間は、“見たいもの”しか見ない。
それが証拠に。
——星崎天音は。
完全に、信じていた。
さっきの顔。
思い出す。
あの瞬間。
通信端末を操作するふりをして、
何も受信していないのに、
何かを聞いたように振る舞った。
そして。
言った。
『神木春が死亡した』
あの時の、天音の目。
最高だった。
完全に、壊れた。
支えを失った人間の目。
信じたくないのに、
信じるしかない目。
絶望と、
希望を同時に求める目。
にゃ。
楽しい。
本当に。
楽しい。
マイトマイン。
それが、私の能力。
正確には——
“可能性の模倣”。
見たことのある存在。
観察した存在。
理解した存在。
それを、
完全に再現できる。
外見だけじゃない。
思考。
癖。
信念。
全部。
青原は、簡単だった。
ずっと観察していたから。
ずっと近くにいたから。
ずっと、
“なりたかった”から。
指を動かす。
青原の指が動く。
完璧だ。
完璧すぎる。
本物より、本物かもしれない。
にゃ。
笑いそうになる。
でも、抑える。
今はまだ、
“青原”でいないといけない。
天音は、バビロンへ向かう。
確実に。
疑わずに。
迷わずに。
その理由を、
私が与えたから。
——神木春は死んだ。
最高の嘘だ。
人間は、
自分の大切なもののためなら、
どこまででも堕ちる。
どこまででも進む。
どこまででも壊れる。
そして。
壊れた先で。
回収する。
全部。
能力も。
王も。
人器も。
全部。
資産になる。
青原の顔で、
微笑む。
「もうすぐだよ」
誰もいない部屋で、
呟く。
「全部、僕のものになる」
にゃ。
今度は、止めなかった。
誰も聞いていない。
誰も気づかない。
本物の青原は、
もういないのだから。
パンドラの箱の中。
暗闇の中で。
永遠に。
そして。
その青空を、
私は着ている。
まるで。
最初から、
私のものだったみたいに。
____
――星崎天音視点
音が、遠かった。
何かを言われた。
理解しているはずなのに、
意味だけが、届かない。
「……今、なんて」
自分の声が、自分のものじゃないみたいだった。
青原が、
――いや。
“青原”が、
静かに言った。
「神木春が死亡した」
それだけだった。
余計な言葉は何もない。
慰めも、
曖昧さも、
可能性も、
何も。
ただ、
断定。
死亡した。
その言葉だけ。
世界が、止まる。
心臓の音だけが、うるさい。
どくん。
どくん。
どくん。
「……嘘」
反射だった。
考えるより先に、
口が動いていた。
「嘘だよ」
「だって」
「さっきまで」
言葉が、続かない。
続けたら、
本当にそうなってしまう気がした。
青原は、黙っていた。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、
事実として、
そこに置いている。
それが、
一番残酷だった。
膝から、力が抜ける。
視界が、揺れる。
呼吸が、浅い。
苦しい。
痛い。
でも、
涙は出なかった。
まだ。
信じていないから。
信じたくないから。
「……場所は」
やっと、それだけ言えた。
青原は首を横に振った。
「確認不能だ」
「黒の密度が高すぎる」
「回収も、できていない」
回収。
その言葉が、
刃みたいに刺さる。
遺体ですら、
残っていない。
完全な、
消失。
「……」
静寂。
誰も喋らない。
時矢も。
亜蓮も。
パンドラも。
全員が、
天音を見ていた。
決断を待っている。
選択を待っている。
天音は、
目を閉じた。
暗闇の中で、
一つだけ、
思い出す。
最後に見た顔。
夜の中で。
笑っていた。
『またな』
それだけ言って、
去っていった。
約束も、
未来も、
何も確定していないまま。
泡みたいに。
消えた。
唇を、噛む。
血の味がした。
それで、
ようやく理解した。
ああ。
本当に、
いなくなったんだ。
胸の奥が、
空洞になる。
でも。
その空洞の奥で、
まだ、
何かが残っていた。
可能性。
「……青原さん」
声が出る。
今度は、
震えていなかった。
青原が、静かに見る。
「バビロン」
その名前を口にする。
空気が変わる。
「本当に」
「あるんですよね」
青原は、
迷わず頷いた。
「ああ」
「存在する」
それだけで、
十分だった。
天音は、
顔を上げる。
目に、
光が戻っていた。
絶望じゃない。
決意の光。
「行きます」
はっきりと、
言った。
誰に強制されたわけでもない。
誰に命令されたわけでもない。
自分の意思で。
「春を」
一度、言葉を止める。
そして、
続ける。
「取り戻します」
沈黙。
そして。
青原が、
小さく笑った。
「……そう言うと思っていたよ」
その言葉は、
優しかった。
あまりにも、
優しすぎた。
だから。
誰も気づかなかった。
それが、
絶望へ導くための、
最後の肯定だったことに。
パンドラが、
静かに箱を抱える。
時矢が、
前を向く。
亜蓮が、
拳を握る。
片桐が、
わずかに微笑む。
にゃ。
誰も、
聞いていない。
天音だけが、
前を見ていた。
希望を見ていた。
もう、
戻れない場所へ向かっていることも知らずに。
____
そして、視点は神木春へと戻り。
——だが。
それでいい。
初めて。
統が、否定しなかった。
⸻
その言葉が、頭の奥に沈んだまま、消えずに残っている。
静かに。
重く。
確かに。
ハルは、ゆっくりと息を吐いた。
肺の奥に溜まっていた空気が、夜の冷たさに溶けていく。
遠くで、風が崩れたビルの隙間を抜ける音がした。
世界は変わっていない。
壊れた東京。
沈んだ都市。
消えた人間。
それでも。
変わったものが、一つだけあった。
自分だ。
⸻
視線を落とす。
自分の手。
黒でもない。
光でもない。
ただの、人間の手。
だが、その奥に。
零がいる。
統がいる。
王が、二人。
自分の中にいる。
それでも、体は自分のものだ。
意志も、自分のものだ。
統が、静かに言う。
——次は、どうする。
命令ではない。
確認だった。
零も、黙っている。
試すように。
見守るように。
ハルは、少しだけ目を閉じた。
思い出す。
天音の顔。
最後に見た時の、あの表情。
言葉。
視線。
そして――
消えた理由。
すべては、繋がっている。
十年前。
対黒局。
盗まれた能力。
人器。
裏世界。
そして。
バビロン。
願いを叶える塔。
死者すら、取り戻せると噂される場所。
統が、低く呟く。
——不確定要素の塊だ。
——合理性は低い。
——だが。
一拍。
——唯一の“例外”でもある。
零も、小さく言った。
「……あそこなら」
「全部、繋がるかもしれない」
ハルは、ゆっくりと目を開けた。
迷いは、まだある。
恐怖も、消えていない。
当たり前だ。
バビロンは、希望じゃない。
あそこは――
選別の場所だ。
命を賭けて。
何かを失って。
それでも進んだ者だけが、
何かを得る場所。
つまり。
誰かが死ぬ場所だ。
自分かもしれない。
仲間かもしれない。
天音かもしれない。
それでも。
逃げる理由には、ならなかった。
ハルは、静かに言った。
「……行く」
誰に向けた言葉でもない。
自分自身に。
「バビロンへ」
その言葉は。
決意だった。
逃げではない。
選択だった。
統が、わずかに笑う。
——愚かだな。
だが。
続けて、こう言った。
——だからこそ価値がある。
零も、静かに息を吐いた。
「……うん」
「それでいいよ」
「ハル」
葵の体の奥で。
二人の王が、
同じ方向を見ていた。
否定も、拒絶もない。
ただ。
進むことを認めていた。
ハルは、空を見上げた。
星は見えない。
雲もない。
ただ、何もない空。
まるで。
まだ何も決まっていない未来みたいだった。
でも。
もう、迷わない。
バビロンへ行く。
そこに答えがあるかは分からない。
絶望しかないかもしれない。
それでも。
行かなければならない。
これは、
誰かに強制された運命じゃない。
自分で選んだ、覚悟だ。
ハルは、ゆっくりと歩き出した。
その一歩は、
王になるためでも、
王を倒すためでもない。
ただ。
自分の過去と、
未来のすべてに、
決着をつけるための一歩だった。
――バビロンへ至る覚悟は、すでに定まっていた。




