ep44.偽装
音が消えた。
完全に。
風も。
呼吸も。
世界の揺れも。
何もない。
「……」
目を開けているのか、閉じているのかも分からない。
暗い、という感覚すらない。
ただ。
存在だけがある。
(……やられたな)
青原は、静かに理解した。
痛みはなかった。
恐怖もなかった。
あるのは、
確信だけだった。
(あれは)
(僕じゃない)
最後に見た光景。
自分と同じ顔。
自分と同じ声。
自分と同じ仕草。
そして。
煙草。
火をつけられた煙草。
(そうか)
思い出す。
天音の目。
一瞬だけ揺れた瞳。
あの子は、気づきかけていた。
でも。
選ばされた。
信じる方を。
(……ごめん)
箱の中で。
誰にも聞こえない謝罪をする。
守るはずだった。
導くはずだった。
なのに。
裏切られた。
いや。
違う。
(裏切り者を)
(見抜けなかった)
それが真実だった。
静寂の中で。
思考だけが、動き続ける。
時間の感覚がない。
一秒かもしれない。
一年かもしれない。
それでも。
一つだけ。
消えていないものがあった。
意思。
(終わらせない)
静かに思う。
(まだだ)
(僕は、終わらない)
箱の内側に、触れる。
物理的な手じゃない。
存在そのものが、触れる。
パンドラボックス。
空間を閉じる箱。
出口を持たない箱。
普通なら。
永遠に出られない。
でも。
青原は、普通じゃない。
(青空システム)
静かに、思考する。
能力は発動しない。
空がないから。
青空がないから。
それでも。
青原は、理解していた。
(空は)
(どこにでもある)
見えなくても。
閉じられていても。
空という概念は消えない。
なら。
繋がる可能性は、ゼロじゃない。
(待つよ)
焦りはなかった。
怒りもなかった。
ただ。
確信があった。
(君は、必ずミスをする)
偽物は、本物にはなれない。
完璧な模倣は存在しない。
必ず、綻びが出る。
その瞬間。
その一瞬。
そこが、出口になる。
(天音)
心の中で名前を呼ぶ。
(君なら、気づく)
信じていた。
疑念は、種だ。
一度植えられれば、
必ず芽吹く。
箱の中で。
青原は、静かに待ち続けた。
救出を待っているわけじゃない。
機会を待っている。
反撃の機会を。
そして。
その頃、外では。
「青原」が、
静かに笑っていた。
本物の未来を奪ったまま。
まるで、
最初から自分が本物だったかのように。
――だが。
偽物は知らない。
箱の中の男が、
まだ諦めていないことを。
まだ。
終わっていないことを。
そして。
必ず、取り返しに来ることを。
____
――星崎天音視点(偽の報告)
夜は、異様に静かだった。
窓の外には街があるはずなのに、
音だけが抜け落ちている。
拠点の中央。
青原は、椅子に座っていた。
いつもと同じ姿勢。
いつもと同じ顔。
ただ、違うのは——
何かを待っているように見えることだった。
「……青原さん?」
天音が声をかける。
青原はゆっくりと視線を上げた。
「どうしたの、天音」
柔らかい声。
変わらない。
そのはずだった。
「……いえ」
天音は首を振る。
「少し、落ち着かないだけです」
理由は分からない。
ただ。
胸の奥がざわついていた。
まるで。
何かが、決まってしまう前みたいに。
その時だった。
——ピッ。
小さな電子音。
全員の視線が、一斉に向く。
机の上の通信端末。
青原が手を伸ばす。
一瞬だけ。
その指が、止まった。
ほんの、わずかに。
そして。
操作する。
「……僕だ」
短く言う。
沈黙。
通信の向こう側の声は、聞こえない。
でも。
青原の表情が、変わった。
初めて。
ほんのわずかに。
目を細めた。
「……そうか」
その一言だけだった。
それだけで。
空気が、凍った。
通信が切れる。
音が、消える。
誰も動かない。
青原は、しばらく黙っていた。
何かを整理しているみたいに。
そして。
静かに言った。
「神木春が」
間。
「死亡した」
世界が、止まった。
天音の思考が、追いつかない。
「……え」
声が出たのかどうかも分からない。
青原は続ける。
「暴食との接触時」
「回収不能」
「……生存反応、消失」
淡々と。
事実だけを並べる。
まるで、報告書を読むみたいに。
「……うそ」
天音の喉から、かすれた音が出る。
違う。
そんなはずない。
さっきまで。
あの夜まで。
確かに、生きていた。
「確認は取れてる」
青原が言う。
優しく。
残酷に。
「誤報じゃない」
その言葉が。
最後の支えを、完全に断ち切った。
天音の手が、震える。
視界が、歪む。
呼吸が、浅くなる。
「……」
声が出ない。
何も。
何も、言えない。
胸の奥にあるものが。
崩れていく。
音もなく。
完全に。
青原が立ち上がる。
ゆっくりと。
そして。
天音の前に立つ。
「天音」
名前を呼ぶ。
その声は。
今までと同じ。
変わらない。
だからこそ。
信じてしまう。
「まだ、手はある」
天音が、顔を上げる。
涙で滲んだ視界の中で。
青原の輪郭だけが、はっきり見える。
「……手?」
青原は、迷わず言った。
「バビロンだ」
その名前が。
空気を震わせる。
「人器【バビロン】」
「願いを叶える存在」
「死すら覆す可能性がある」
静かに。
確実に。
逃げ道を示す。
「……」
天音の心が。
そこに、縋ろうとする。
「取り戻せる」
青原が言う。
断言する。
「まだ、終わっていない」
その言葉は。
救いだった。
毒だった。
希望だった。
罠だった。
天音は、拳を握る。
震えを止めるために。
「……行きます」
声が、震えていた。
それでも。
はっきりと言った。
「バビロンに」
青原は、微笑んだ。
満足そうに。
安心したように。
「うん」
その笑顔は。
完璧だった。
完璧すぎるほどに。
誰も気づかなかった。
それが。
本物の青空じゃないことに。
そして。
それが。
全ての始まりになることに。




